9/6午後には秋雨前線の長居による大雨のなか、東京国立博物館平成館で開催中の特別展「空海と真言の名宝」(7/14 ~9/6,途中展示入替)を観てきました。
弘法大師・空海(774–835)が開いた真言密教の教えと、1200年以上にわたって継承されてきたその至宝を一堂に集めた大規模展で、高野山金剛峯寺をはじめ、東寺(教王護国寺(注1))、仁和寺、醍醐寺、西大寺といった真言宗各派の十八本山や関係寺院から、国宝や重要文化財を含む選りすぐりの名宝が出品されると聞き、気になっていました。以下、思いつくままに。。今回この展示に惹かれたのは、日頃近くの鎌倉で臨済宗、曹洞宗などの禅宗や日蓮宗などの、顕教(注2)に分類される寺院に多く接する中で、密教の代表である真言宗(注3)が平安期に興り朝廷からあれだけ強く支持され、その後鎌倉仏教を生むことになる背景と理由を展示を通じて、今更ながらなんとなく肌で感じられたら、といったところでした。以下、思いつくままに・・・。
展示では、空海の生涯を辿りながら、多面性を訴えてきます。真言宗の開祖にとどまらず、優れた書家としての顔(書道史上の三筆の一人)、中国(唐)へ渡って膨大な知識を吸収した知識人としての側面、そして四国八十八箇所霊場の巡礼で民衆に親しまれる「お大師さま」信仰の対象としての姿まで、現物で立体的に紹介されていました。
なかでも、空海自筆の書と直筆ノート(国宝)として、唐での留学中に空海が密教の典籍を書写した『三十帖冊子』(仁和寺蔵)をはじめ、空海の当時の筆遣いや意気込みがそのまま伝わってくるような直筆の書が展示され、つい立ち止まっていました。
また、今回、真言宗十八本山がいまも皇室と続いている宮中密教儀式「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」のことを初めて知りました。儀式の間取りや段取り、使用される仏像、仏具まで展示され、空海が始めて以来1,200年続く儀式として歴史を感じました。これは、承和2年(835年)に空海が始めて以来、現在も毎年行われている真言宗最高の儀式だそうで、その儀式で用いられる「十二天像」や精巧な仏具類が並び、ベールに包まれた密教修法の厳かな雰囲気が伝わります。一方で、この頃の真言宗は、朝廷や貴族を向いていて、「民衆の救済」という意識は低かった、それが鎌倉仏教を生んだ、という本郷和人さん(「宗教の日本史」など)の指摘は当たっているようにも思いました。あくまでも現代から見ての話ですが。
さらには、文字では表現しきれない密教の宇宙観を視覚化した「両界曼荼羅」(曼荼羅と立体曼荼羅)などの絵画に加え、平安時代初期の密教彫刻の傑作である「五智如来坐像」(安祥寺蔵)など、仏像群による立体的でカラフルそして重厚な世界観を体感させてもらいました。禅寺とは大違いです。
総じては、真言宗の密教の世界の、儀式を重んじる、仏画、仏像、仏具の精度が高く大から小まで動きがある、教義が視覚的で一見してわかりやすい、といったところを身近に感じて帰路につきました。
これまで、ここや京都国立博物館で観た法然展、親鸞展を思い出しながら、これを機に空海もやや近くなった気がしました。写真は最後のブースでのみ撮影可能でした。
この日は、午前の他もの移動も合わせて11,800歩コースでした。
(注1) 教王護国寺
京都・東寺の正式名称であり、真言宗(いまは東寺派)総本山として国家鎮護を目的に創建された密教寺院。正式には「八幡山金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」(通称:教王護国寺。東寺)。 創建は延暦15年(796年)、平安京造営に伴い国家鎮護の官寺として建立され、弘仁14年(823年)嵯峨天皇が空海(弘法大師)に託し(下賜)、真言密教の根本道場となる。 「教王(きょうおう)」とは王を教化する、「護国」とは国家を守るという意味で、 “密教によって国家を守る寺”という理念が寺号に込められている。因みに、東寺と呼ばれるのは、平安京の東西を守る官寺として創建され(東寺・西寺)、東寺は羅城門の東、西寺は西に置かれ、王城鎮護を担った。現存するのは東寺のみ。
(注2) 顕教と密教
顕教(けんぎょう)は密教からみた対語で、仏の教えを、仏典に基づき言葉や教理によって明らかに説く教え。真言宗と天台宗の一部(台密、といわれる)以外の宗派での悟りを得る道を指す。
これに対し、密教は、仏と自分が一体となることを、身体・言葉・心を使った実践によって体得する教え。人間の理性では到達できない秘密の教えを指し、悟りを得るために仏の神秘的な力を借りて成仏するという道を提示する。それが三密による即身成仏とされる。
顕教は解脱に至る堅実な教えながら悟りに至るまでには時間と鍛錬が必要なのに対して、密教では、通常の人間の努力だけでは悟りに達するのは難しいとされ、仏の神秘的な力を借りて短期間で効率的に悟りに達すると説いた。その仏の力が三密加持(手で印を結ぶ「身密」真言・陀羅尼を唱える「口密」、 仏を観想する「意密」により大日如来と人間の身口意が合致すること)によって成仏できるとする即身成仏の考え方である。
平安期の現世利益を求める貴族たちには密教が受け入れられた。
(注3) 真言宗の概要 (宗教年鑑令和7年度版から引用)
真言宗の開祖は弘法大師・空海(774~835)である。空海は唐で恵果より真言密教 を学び、ことごとく秘法を伝授されたという。帰国ののち真言宗を開き、823年には、 嵯峨天皇から教王護国寺として東寺を賜って皇城鎮護の道場とし、835年、高野山で入定(入寂)した。 この間、布教活動とともに福祉的活動や橋をかけるなどの社会事業にも尽力した。密教 というのは、歴史上の釈尊が説いたとされる顕教に対するもので、法身仏(いわば絶対 者)である大日如来が、直接説いた教えという。生きとし生けるものは、宇宙の根源的 な生命である大日如来の顕現であり、我々も身・口・意の三密行の実践により即身成仏 することができると説く。そのほか具体的な行として阿字観などがあり、また諸尊の加 護を求めて加持祈禱がしばしば行われる。曼荼羅は密教の悟りの世界=宇宙の大生命を 象徴的に図画でもって示したものであり、かつ現実世界がそのまま理想世界であること を示すものである。また、高野山は、弘法大師・空海の入定の地であり、大師の救いを 信じて南無大師遍照金剛と唱える大師信仰の中心となった。この高野山金剛峯寺を総本 山とする高野山真言宗は真言宗団の中でも最大の宗団である。また、真言宗は皇室と縁 が深く、大覚寺、仁和寺等の門跡寺院が多くあり、それぞれ一派を形成している。 12世紀には、覚鑁(かくばん、1095~1143)が出て密教と高野山の復興につとめた。覚鑁は金剛峯寺と大伝法院の座首を兼任するなどしたが、金剛峯寺勢力と折り合わず、高野山を離れて根来(ねごろ,和歌山県)に根来寺として本拠を置いた。その後、頼瑜(らいゆ,1226~1304)が出て大伝法院を根来に移し、新義真言宗として独立した。根来寺が豊臣秀吉に焼かれると、専誉(せんよ) と 玄宥(げんゆう )の二人の能化は、それぞれ大和長谷寺、京都智積(ちしゃく) 院に移り、現在の真言宗豊山(ぶざん) 派 と真言宗智山(ちさん) 派の基を据えた。
〔修験道〕 平安末には日本古来の山岳信仰が仏教、道教、シャーマニズム、神道などと習合して、 修験道という一つの宗教体系を作り上げた。中世期、大峰山では吉野・熊野を拠点とし て修行が行われ、熊野側では聖護院(しょうごいん)を本山とする本山派が、吉野側では大和を中心に 当山派が形成された。江戸時代には両派が認められていたが、明治政府により神仏分離 政策がとられ、明治5(1872)年、修験道は一宗としては廃止され、本山派は天台宗に、 当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。現在は独立して本山修験宗、真言宗醍 醐派、金峯山修験本宗、修験道などとなっている。
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