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2026年5月18日月曜日

山下公園周辺での世界トライアスロン横浜大会

ワールドトライアスロン・パラトライアスロンシリーズ横浜大会(通称:世界トライアスロン横浜大会)が5/16~17に山下公園周辺で開催されており、5/16の山下公園での吟行会でたまたま遭遇しました。余り見ることのない種目ですので、吟行のかたわらその様子を覗いてきました。
10時頃東急みなとみらい線の元町・中華街駅から山下公園に入ると、途中からブルーのビニールシートで仕切られた通路が長く続いており、一般客は自由に移動できません。海岸に出るのも大回りすることになります。これが、世界トライアスロン横浜大会のランコース(10Km,2.5Km×4周)とバイクコース(40Km,4Kmx10周)の設定でした。競技中に一般歩行者を入れないためのものです。海ではスイムコース(1.5Km,0.7KmX2周)が何槽もの小型船やドローンで監視されています。トライアスロンでは、スイム⇒バイク⇒ランの順に競技が進みます。
この日1030頃にわれわれ吟行仲間が公園に入るとオープニングで放水船が放水を始めたところで、氷川丸の奥に見えました。中に入ると、海岸では数十人で泳いでいるのが見えます。これがトライアスロンのスイム競技中の選手たちでした。
大会での競技は、幾つかグループがあり、この日0630からエリートパラトライアスロン競技から始まり、1015からエリート女子競技、1300からエリート男子競技、1500からエリート/エリートパラ競技表彰式と続きます。翌日5/17には、エイジグループパラトライアスロン競技、スタンダード競技、スプリント競技、表彰式が行われ終了します。

一般客は 途中のワンカットしか見れませんが、男女を問わず、立派な体格のアスリートが前を走ったり、バイクをこいで猛スピードで駆け抜けていきます。想像するに、水泳で上半身を鍛え、バイクで下半身を鍛え、ランで持久力を鍛える、何拍子もそろった屈強の選手(アイアンマン)をめぐる競技なのだと感心ばかりでした。また、長い競技コースの出入りを管理する必要があり、多くのボランティアの方々が協力しているのがわかります。
調べてみると、 トライアスロン競技の起源には、現在の近代的なスポーツとして確立された「ハワイでの誕生」説と、それより半世紀以上前にフランスで行われていた「前身とされる3種競技レース」説の2つの歴史があるようです(注)。その後米国で人気が高まり2000年のシドニーオリンピックから正式種目に20年余りの短期間でなったとか。
ここで、一句、

海風やバイクで抜けるアスリート
若葉風放水柱出迎える

疾走中のバイク。山下公園通りです。

一団となってスイム競技中の選手。背景は
大桟橋です。
万国橋近くのバイク競技の折り返し点。
ここを10周し40Km走ります。

ランコース。ここを4周します。
スイムからバイクへの着替え、乗換え場所
公園のコース横にはバイク競技用の自転車の
販売店のテントが並びます。マウンテンバイクに
似た車体で欧州メーカが強いそうです。

薬物使用の注意喚起も。確かに、薬物の効果が
成績と直結しやすい競技のように思えます。
 

実況中継も

公園入口からは、オープニングセレモニー
での放水柱が見えました。右手前は係留中の
氷川丸の煙突です。

(注)トライアスロン競技の起源について(関連HPから引用・編集)
『ハワイでの「言い争い」から誕生した』説では、以下の通りです。
現在世界中で行われているトライアスロンの直接的なルーツは、1978年に米国ハワイ州で開催されたレースです。
そのきっかけは、あるユニークな「言い争い」でした。「どのスポーツの選手が一番タフか?」と1977年ハワイで行われた長距離走の表彰式の席で、アメリカ海軍の将校(ジョン・コリンズ中佐ら)と地元のランナーたちが議論を始めました。
「水泳選手、自転車選手、ランナーのどれが最強か?」という結論の出ない議論に対し、コリンズ中佐が「それなら、ハワイで開催されている3つの過酷なレースを全部続けてやって、1番になった奴を『アイアンマン(鉄人)』と呼ぼう!」と提案したのです。
翌1978年2月18日、オアフ島で最初の大会が開催されました。組み合わせたのは以下の3レースです。
1. ワイキキ・ラフウォーター・スイム(水泳:3.86km)
2. アラウンド・オアフ・バイクレース(自転車:180.2km)
3. ホノルルマラソン(マラソン:42.195km)
このタフなレースに挑戦したのはわずか15人。そのうち12人が見事に完走し、初代「アイアンマン」の称号を手にしました。これが、現在のアイアンマンディスタンス(ロングディスタンス)の起源です。
その後、オリンピック競技へと進化します。
ハワイで産声を上げたトライアスロンは、1980年代に入ると米国を中心に爆発的なブームを巻き起こします。あまりに過酷なロングだけでなく、より多くの人が参加しやすいように距離を短縮した「オリンピックディスタンス(スタンダードディスタンス)」が考案されました。
各種目での距離はアイアンマンディスタンス(ハワイ起源)からオリンピックディスタンス に以下の通りに大幅に短縮されました。
・スイム(水泳)3.8 km から1.5 km に短縮
・バイク(自転車)180 km から40 kmに短縮
・ラン(長距離走)42.195 kmから10 kmに短縮
このスタンダードな距離が制定されたことで競技人口はさらに拡大し、誕生からわずか22年という異例のスピードで、2000年のシドニーオリンピックから正式種目として採用されることになりました。

2026年1月29日木曜日

ある社会福祉施設での研修会

1/29には、2年前から業務的な監査担当として関係する地元の社会福祉法人が年に一度全職員向けに行う職員人権研修会に参加してきました。会場は京急金沢八景駅から歩いて7〜8分程の横浜市立大学(YCU)キャンパス内にあるYCUスクエアの大講義室でした。勤務後の夕1830からの開催で、職員440名中夜勤以外の270名が参加しほぼ満席でした。 
この法人は高齢者介護と障害者支援を行っていますが、今回の講演は高齢者介護について、栃木県鹿沼市で小規模な「宅老所」を運営する小林敏志氏による「シン認知症介護7原則」を自身の経験に基づいて丁寧に説明されるものでした。認知症予防には①生活環境を変えない、②関係を変えない、③生活習慣を変えない、直接的な対応策としては、④3大介護(食事、排泄、入浴)を介護者の工夫で最適解に、配慮点として⑤個人的な空間をつくる、⑥ひとり一人の役割をつくる、⑦ひとり一人の関係をつくる、といった7原則を骨子に、介護する立場からのなかなか説得力のある講演でした。「本人を主役にしたその人らしい生活を最期まで送れるように」介護するのがモットーだそうで、ちょっと間違うと虐待にも通じ難しいところですが、自分の今後のことを含めそうあってほしいと思いました。
開始前に、初めて入るYCUのキャンパスを巡ってきました。学生向きの掲示板には、退官教授の最終講義の案内や追試験の案内、闇バイトの注意喚起など、この時期らしい懐かしいものでした。また、YCUがYCUスクエアや市大交流プラザ「いちょうの館」の地域への開放など、市立大として地域との交流に力を入れていることも分かり、研究棟にはゼミ室が多くキャンパスがコンパクトで整然としていて随分と綺麗なのには感心しました。
この日は7,500歩コースでした。

2025年12月8日月曜日

今どきの分かりやすい治療ー病因の仕分けー                                   

 先週には帯状疱疹と皮膚炎を同時に発症したようで、治療を通して、今どきの分かりやすく病因を仕分けする手順を体験しました。
というのも、掛かりつけ医によると、このような発症は、基本的には年齢等による免疫力の低下があり、様々な感染症の発症率が上がるそうです。他の要因としては、大気の乾燥によっても感染率は上がる時期ではあるとか。
私の場合には、顔や首に発疹や赤い腫れが現れていました。医者は発疹は左半身に集まっているため「帯状疱疹の可能性が高い」と診断していましたが、顔の腫れは「何らかの細菌による感染症による皮膚炎のように見えるが、左側に現れており、ウィルス系の帯状疱疹か細菌系の皮膚炎か判断できない。」とのことでした。
そこで、初めに治療されたのが、帯状疱疹の治療薬でした(ウィルスの拡大を抑える飲薬(ワクチンではないとのこと)と軟膏)。4日後に再来しなさいとのことで通院すると、薬が効いたのか、左半身の発疹が収まり傾向で、腫れは顔の左側から右側に移って依然として腫れあがっていました。そこで、医者は、腫れは帯状疱疹ではないと判断し細菌性皮膚炎としての治療をしてくれました(抗生物質の飲薬と先回とは別の軟膏)。また4日後に来なさいとのことで、通院すると、薬が効いたようで今度は顔の左から右に移った腫れが収まりつつありました。それをみて、医者は「今回の症状は帯状疱疹と細菌性皮膚炎の併発でした。たまにあることですが、免疫力が低下している高齢者には併発も起きやすく気を付けた方がいいですね。」とのこと。あらためてインフルエンザの予防接種を勧められて、無罪放免となった次第です。暗に、この7月〜来年3月に市などが推奨するる帯状疱疹の予防接種をちゃんとしておけばこんなことにはならなかったのに…、と言われているような気もしながら病院を後にしました。

てきぱきと分かりやすく患者に説明しながら、的確に治療してくれた40歳代の若い医者に感謝です。


帯状疱疹の予防接種のチラシから

2025年11月18日火曜日

山寺 立石寺の紅葉

 11/17には、山形市にある山寺 天台宗宝珠山立石寺(りっしゃくじ)を訪ねました。ここは私にとってはこれまでの行き残しのひとつでした。これまで何度か機会はありながら叶わなかったところです。
JR仙山線で仙台駅から50分程乗り(山形駅からは20分です)山寺駅で降りると眼前に厳しい岩肌にいくつもの仏閣が散らばって山頂まで石段で連なっているのが見えます。丁度紅葉の盛りの時期でもありました。一緒に電車を降りた人のなかには熊ベルをリュックにつけた人もいます。ご時世です。この日の予報は午前が晴れ午後が曇時々雨でしたがその通りでした。山頂から降りはじめた頃から雨が降りはじめ、雨の中の開山堂や仁王門の紅葉も楽しめました。上りと下りで風景が変わり、雨もまた一興です。
熊もさることながら、今の私の体力で頂上の奥の院まで登れるものか不安でしたが仙台駅の観光センターで現地の様子を聞きながら背中を押してもらい、最後の機会として思い切って行ってみることにしました。実際には、思い通りに厳しく途中随所で休みながら急な石段1015段をなんとか登ることができました。一段登るごとに煩悩が消えると言われるとか。とはいえ、煩悩はなかなか消えてくれません。それにしても、豪雪地帯の高所の寺院としてはいづれの仏閣も簡素な造りで驚きました。麓の根本中堂、日枝神社、立石寺本坊以外は思いの外小さな造りになっているのが雪対策なのかも知れないとも思いました。
仙台から山寺に行く途中に「奥新川(おくにっかわ)」という駅(仙台市青葉区です)があります。ここは芋煮会の名所で、以前にはここで降りて山中の河原で野趣あふれる芋煮会を仲間で楽しんだことがありました。大鍋を担ぎ里芋、こんにゃくなど食材を運んで、最初に芋煮会を知った懐かしい場所です。
この日はたまたま紅葉のタイミングもよく、長年の観たいものをひとつ観終えたような気分で、東北新幹線やまびこ号に乗り帰路につきました。結構疲れました。
そこで、一句、

芭蕉忌の山寺登る最後かな
錦秋やスズのあとゆく立石寺

この日は、15,200歩コースでした。


中復の仁王門。ここの仁王さんは「邪心を
もつ人はこの先登ってはいけない」と睨み
つけているそうです。本来なら私なぞ
到底登れません。

麓の本坊近くの抜苦門。池の落葉も
厚いです。

頂上近くの開山堂と納経堂(左)。開山堂には
開山された慈覚大師の木造の尊像が安置され、
今も朝夕、食販と香を供えているそうです。
納経堂は山内で最古の建物 でその真下に貞観2年
(860)に開山し4年後の貞観6年(864)に亡くなられた
慈覚大師が眠る入定窟があります。開山で苦労
されたのかもしれません。開山堂のすぐ右奥に
五大堂があります。

頂上の展望台 五大堂から。五大明王を祀って
天下泰平を祈る道場。山寺随一の展望台でも
あるとのこと。

同上
開山堂脇から

立石寺本坊近くにて

山門にて

仁王門から

麓には芭蕉ゆかりの句碑や像が建っています。
芭蕉は元禄2年(1689)7月13日に門人曽良とともに
ここを訪ねています。その後弟子たちが嘉永6年
(1853)に句碑を建てました(中央)。ここは天台宗の
教育・修行の拠点 として修業の場であり道場で
あるとともに芭蕉とは切り離せません。

奥の院からの下り道

雨に降る仁王門にて


JR仙山線山寺駅。五大堂に似た見晴台が
右上に造られています。
山寺駅の見晴台から見た立石寺全景。
中央の崖が香の岩、その右上が五大堂、
奥の院、さらに右横に行くと釈迦堂です。
写真左上の崖が天華岩です。右下に登山口が
あり建物右から根本中堂、日枝神社、
宝物殿と並びます。

(参考1) せみ塚。330年前にここを訪ねた
芭蕉翁の句の短冊を埋めた石塚。
「芭蕉翁」と刻まれています。
(関連HPから引用)

(参考2)立石寺の仏閣(伽藍)  (案内パンフより)

2025年7月8日火曜日

「七夕の会」2025

7/4には、ここ50年以上続いている、夏の横浜湾岸で大学同期生二人で飲む会「恒例の会」(長年二人ではこう呼んできました)を今年も楽しんできました。この会は、原則7月の第一週の週末の夕方に設定してきました。このため家族からは「いつもの男同士の『七夕の会』」と言われています。二人が就職し大船と武蔵野に勤務が決まって働き始めた昭和47年(1972)頃に再会し、それからこの時期にここで会うようになり、ほぼ毎年続けています。生れは、会津若松と舞鶴、専門も研究室も違い、彼は学究肌で(会社を終えてからは大学に行きました)、私は実用的なモノつくり派でしたが、なにかウマがあったようです。

はじめは、山下公園に係留されている氷川丸の後部甲板がビアガーデンとして開放されていた時に、20回程使いました。丁度甲板から前に見えるみなとみらい地区(MM21)で埋立地の造成、ビル建築が始まった時期と重なり、毎回新しいビルが増えシルエットが賑やかになっていったのを覚えています。その後、店舗利用による氷川丸の傷みが問題になりビヤガーデンは終了となったことから、近くに建つスターホテルの屋上にあったビヤガーデンに会場を移しました。ここでも20回ほど会ったでしょうか。ここは、10数階のホテルで氷川丸をはじめ横浜港全体が見渡せ、ハマの夜景を見ながらの豪華な会食でした。やがて、そこも営業を終了して取り壊しとなり一時期駐車場でしたが数年前にマンションができたようです。スターホテル閉鎖後もコロナ禍中はオンライン(Zoom)で会っていました。
コロナ禍明けには、湾岸や大桟橋のレストランを幾つか渡り歩き(海の見えるレストランを選んできました)、今回、横浜マリーンタワーのすぐ下の商業施設4階にあるイタリアンの店「The Terrace」に集まりました。マリーンタワーは3年前に改装され、リニューアルされたたばかりで、タワーの外見や設備もスッキリしスマートになりました。そのときに開店した店のようです。
毎回のことながら懐かしい昔の話から直近の身近な話題まで、前置きなしに話が飛び出し、思いつくまま好き勝手に切り替わる、愉しい時間です。これまで何回も会ってきて、世相のこと、仕事のこと、家族のこと、などお互いの生い立ちを理解しているだけに、前後左右言いたい放題といったところで、いつも長い会食になります。ただ、双方の酒量もつまむ量もこのところすっかり減ってきています。
最近、彼は、親族20人ほどを集めて自宅でホームコンサートをやっているそうでプログラムを見せてもらいました。見かけによらず、自身もケーナを始め「花祭り」を吹いたそうです。一度、聴いてみたいものです。
これからも二人が自分の足でここに来れる限りは集まろうと洋光台で別れました。お互い元気なうちはこの会を続けたいと思っています。
この会については、2022年7月9日にも、いまはなきスターホテル屋上からの風景やスターホテルの遠景をスケッチして、当ブログに以下の記事をアップしていました。

恒例の会」と幻の会場

この日は、8,400歩コースでした。


The Terraceのテラスから氷川丸と横浜港。
手前は山下公園です。

氷川丸は健在です。こちらは何度もリニューアル
され以前よりキレイになっています。

山下公園からみなとみらい(MM21)地区.
正面奥が大桟橋です。丁度大型クルーズ船
(右奥)の出航時間で「ボ~ッッ」と大きな汽笛を
何度も鳴らしてゆっくりと右に動いていました。

昭和後半には後部甲板がビヤガーデンに利用
されていて、長く使わせてもらいました。今から
思うと歴史遺産上での贅沢な会食でした。
氷川丸
(補足)いまはなきスターホテル屋上から
見た氷川丸と横浜港です。当ブログ右欄の
「きのけん 写真あれこれ」より引用。
2017~18年の古い写真です。

2025年4月12日土曜日

横浜並木男声合唱団の第13回定期演奏会

 4/12には、かつての同僚が長年活動している横浜並木男声合唱団(YNDG)の第13回定期演奏会が横浜みなとみらいホール・大ホールで開催され、今回も参加してきました。
今年が創立30周年の記念開催だそうです。出演者は、60〜89歳までの36名で、唄に踊りにと舞台で大活躍でした。かつての同僚も79歳ですが中堅だそうで89歳の方が4名とか。テーマは「オジサンだって輝ける 夢を求めて30年」でした。民謡、童謡、アニメソング、行進曲、ポップス、演歌、男性合唱創作組曲など多彩で、聴く方も楽しめました。選曲も良く、これまでの演奏会のラストステージで演じた曲からアンケートによって選んだそうです。演奏の質も場所も本格的です。遠征する地方での演奏会の声もかかるとのこと。
今回の演奏会に向けてハードな練習があったそうで、近く別途二人でゆっくりと慰労会を設定することにしました。
この日は、9,000歩コースでした。
前回は2023年5月で、以下のような記事を当ブログにアップしていました。


みなとみらい大ホール。「空席以外は全て
満席」とのこと。最終的には1〜2階席は
ほぼ一杯でした。

会場入口です。

パンフレットも毎回レベルが上がって
きます。デザインもだいぶ落ち着いて
きました。

2025年2月13日木曜日

市場deシネマー「食べることは生きること(We are what we eat)」ー

 2/11には、今年2回目の市場deシネマ(注1)の上映会が横浜南部市場でありました。今回は、いま日米タイで評判のドキュメンタリ「食べることは生きること(We are what we eat)~アリス・ウォータースのおいしい革命~」でした。
この映画は、米国カリフォルニア州バークレーに1971年にオープンした、アメリカ初の、地元農家と食べ手を直接に繋ぐフランス料理店「シェ・パニース」のオーナーで「食育菜園」の創始者でもあるアリス・ウータースが、2023年に来日し、各地を回ったときの記録です。田中順也監督が撮影・編集をもこなす手作り感のある作品です。映画としては、主張がよくわかる編成で、人と人の密着感が自然に出ていて、よくできていました。

アリスは、「食べ方を変えれば、人の価値観、そして社会が変わります。さあ、皆で身近なところから動きましょう。それが、気候変動を止め、地球と私たち自身の健康を回復するのです」という信念を、様々な形で具体化していきます。それが、のちに「地産地消」、「ファーマーズ・マーケット」、「ファーム・トゥ・テーブル」、「エディブル・スクールヤード(食育菜園)」(注2)というコンセプトに発展し、世界で知られるようになったそうです。この意味で、彼女は「オーガニックの母」、「美味しい革命家」と呼ばれるようになったとのこと。2023年には、集大成となる著書「スローフード宣言〜食べることは生きること」となり、出版1周年を記念して来日されたそうです。
滞在中、島根県隠岐諸島海士町、島根県石見銀山、京都府亀岡市、滋賀県草津市、徳島県神山町、東京都中央区で、料理人、農家、学校、一般家庭等を訪問し、日本のスローフードの世界を探っていきます。かつての同僚が日本の農家に移住しているようです。
米国でのファーストフードの弊害からの脱却を主旨としていますので、日本での地元野菜を使った給食(Farm to school)や素材をそのまま活かす和食文化、家庭での朝ごはん、などには、感心されていました。彼女のコンセプトは、米国よりは日本の食生活に近いかもしれません。もともとの発想はフランスから学んだとアリスは言っています。
消費者の身近な食の選択次第で、環境問題の多くが解決できるという説は、ある面であたっていると思いました。いわゆる「倫理的消費」というのでしょうか。
鑑賞後、抽選会があり、この映画のMook本「Delicious Revolutionー「おいしい革命はつづく」が私にたまたま当たり(私だけの当選でした)、恐縮しましたが、有難く頂戴することにしました。もう少し勉強して実践しろ、というお告げだったのかもしれません。
それにしても、市場deシネマの館長さんは、この映画というかアリスの行動力がすっかりお気に入りで、この映画会の主旨にも近いこともあり、絶賛されていました。この日の上映も午前と午後の二部制で力が入っていました。また、会場の一角には、直接に農家さんから買える、みるからに新鮮そうな地元野菜の臨時販売コーナーが設けられて好評で、私も幾つか買い求めました。

この日は、6,800歩コースでした。

(注1)市場deシネマについては、2025年1月の下記当ブログに、関連記事をアップしていました。

新春「市場deシネマ」の会

(注2)エディブル・スクールヤード(edible schoolyard : 食育菜園)
エディブル・スクールヤード(ESY)は、学校の校庭に、アスファルトをはがして「エディブル・スクールヤード」(食育菜園)を造り、子どもたちが自然とのつながりや食育を学ぶ場を提供しているプロジェクトです。このプロジェクトは、子どもたちの心と体、頭をつなぎ、食を通じて自然界といのちのつながりを体験的に学ぶことを目指して米国で普及しています。

(注3)この映画の配給元のUnited Peaple 社から予告編が下記にアップされています。

映画『食べることは生きること ~アリス・ウォータースのおいしい革命』予告編


抽選会で当たった、この映画のMook本
「Delicious 
Revolutionー「おいしい革命」は
つづくー」。セイコガニとサザエは先回
帰省時に入手した舞鶴産のアクセサリです。

2025年2月2日日曜日

南九州の旅 その2ー桜島の島村熔岩展望所と黒酢の郷

1/29には、桜島の島村熔岩展望所と黒酢の郷 を訪ねました。
この日、初めて桜島を見ました。この日は山頂周辺が冠雪していました。珍しいそうです。次の日には溶けていましたので。残念ながら、山頂付近は雲に覆われ全景は見られませんでした。島村熔岩展望所では、大正噴火(1914年)時に桜島の東側が大隅半島と溶岩でつながり、昭和噴火(1946年)で噴出した溶岩がその上に重なり合うように堆積しています。まだ真っ黒でゴツゴツと盛り上がっており、粘度の高い熔岩が流れ込んのだ様子が生々しく残っていました。
桜島に渡る直前に、大隅半島の錦江湾沿いの福山にある桷志田(かくいだ;江戸時代の「隠し田(かくしだ)」が訛って「かくいだ」と呼ばれるようになったとか)地区の福山黒酢株式会社を訪ねました。ここ近辺が黒酢業者の集まる「黒酢の郷」とか。ここでは、玄米酢を3〜10年と長期熟成させて黒酢にするとのことで、3年以上の熟成期間を経ることでアミノ酸量が増え、コクや旨みが深まっていくそうです。昼食に黒酢料理をゆっくりと味わってきました。なかなかヘルシーです。
桜島フェリーで鹿児島市にわたるフェリー展望台で、鹿児島放送のカメラマンと記者が桜島を取材中でした。長年フェリーは24時間運行だったそうですが(噴火対策だったのでしょうか)、2月から夜間の便がなくなるため、とのことでした。


島村熔岩展望所。山頂が雲で隠れていました。
かすかに冠雪が見えます。

桜島を東側から見ています。



きびなご漁船。大隅半島と桜島を繋ぐ溶岩流の
つけ根から。ここはきびなごや太刀魚の
一大産地
とのこと。

南側の島村熔岩展望所から。

桷志田の黒酢の壺畑。2万本あるそうです。
軽く蓋をするのは、空気を入れて呼吸
させるためとのこと。

桜島フェリー。15分で薩摩半島側の
鹿児島港へ渡ります。

フェリーからの桜島。2月から24時間運転で
なくなるため、鹿児島放送の記者が船上で
なにやら取材中でした。

2024年9月15日日曜日

アメリカン・サウンド・イン・ヨコスカと高嶋秀武さん


 9/15には、横須賀では恒例の第15回米海軍第7艦隊バンド&横須賀交響楽団フレンドシップコンサート「アメリカン・サウンド・イン・ヨコスカ」が催され、平坂から登った高台にある横須賀市文化会館大ホールを訪ねました。横須賀の名物コンサートだそうです。この日も1500席が満席とのこと。当日券の立見席も準備されていました。横須賀交響楽団の団員で今もトランペットを吹くかつての同僚の紹介で知り、私には、初めての鑑賞でした。
プログラムによると、「米海軍の精鋭バンドと地元オーケストラのダイナミックでエキサイティングなサウンドが人気を博し、マーチや米国の作曲家や米国にゆかりのあるクラシック音楽、ジャズ、映画音楽など多彩なプログラムをお贈りしてきました。」とあります。
今年は、第一部の艦隊バンドによる米国ポップス演奏についで、第二部では、米国生まれのマーチ王スーザの生誕170周年記念として「スーザ マーチ・リクエスト集」 というマーチを中心にした企画でした。また、英国生まれのエルガーが作曲したオーケストラのための行進曲「威風堂々」(英国の第二の国歌とのこと)からアメリカ民謡「聖者が街にやってくる」まで、久々にじっくり行進曲の名曲を楽しめました。
気になったのが、司会の高嶋秀武さんでした。横須賀出身の高嶋さんは長くこの企画の司会をされているようで、ラジオのニッポン放送で長くパーソナリティをされた「高嶋ひでたけのお早う!中年探偵団」の頃の明瞭で軽妙な語り口が懐かしく、お元気そうなのに感心しました。当時は、横浜富岡の社宅から横須賀武山への朝の相乗り通勤の車中でよく聞きました。今から思うと、山谷新平さんの「お早うニッポン」とともに、山谷さん降板後にその後継番組となった「中年探偵団」は朝のラジオ情報番組のはしりでした。高嶋さんは、今も、ラジオ(月1回出演とか)、YouTubeで減速しながら活躍されているそうです。その延長で、私は、今も朝には同じくニッポン放送の「飯田浩司のOK!Cozy Up!」とお隣の文化放送で「おはよう寺ちゃん」をしっかり聴いています。因みに飯田浩司さんも横須賀出身だとか。
この日は、7,700歩コースでした。

(追伸)この日は、日頃の注意不足を痛感することがありました。この演奏会は、これまでの経緯から汐入駅前の横須賀芸術劇場が会場とはなから思い込み、早めに行って控えていました。開場時間頃に会場に行くと係の方に「会場はここではなく横須賀中央駅から20分程歩く横須賀市文化会館です。芸術劇場は天井の改修工事のため長期休館(2024.7〜2026.3)しています。」とのことでした。慌てて会場にタクシーで駆け付け(他に何人かおられました)、なんとか間に合いました。月一回の「横須賀芸術劇場ニュース」を受け取りながら(しっかり読むとちゃんと書いてありました)、日頃から、見たい所しか見ていない、視野が狭くなっている、ことをあらためて思い知らされました。来年の開催でも会場はここだそうですから要注意です。


開演前。共演では日米総勢95人が出演
とのこと。

会場の横須賀市文化会館
プログラムから

パンフレットから

今どきのパソコン用TVチューナー -4代目の調達-

 先日7/28には、パソコン用USB接続テレビチューナーを新機種に交換しました。パソコン(PC)でテレビ(TV)を視るためにPCのUSB端子に接続する簡易なTV信号変換器です。ここ20年程、居間とは別に自分の書斎でもTVを視たり留守中に録画したりするために利用し重宝してきました。...