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2026年9月11日金曜日

開催最終日の特別展「空海と真言の名宝」

9/6午後には秋雨前線の長居による大雨のなか、東京国立博物館平成館で開催中の特別展「空海と真言の名宝」(7/14 ~9/6,途中展示入替)を観てきました。この日は開催最終日でした。

弘法大師・空海(774–835)が開いた真言密教の教えと、1200年以上にわたって継承されてきたその至宝を一堂に集めた大規模展で、高野山金剛峯寺をはじめ、東寺(教王護国寺(注1))、仁和寺、醍醐寺、西大寺といった真言宗各派の十八本山や関係寺院から、国宝や重要文化財を含む選りすぐりの名宝が出品されると聞き、気になっていました。
今回この展示に惹かれたのは、日頃近くの鎌倉で臨済宗、曹洞宗などの禅宗や日蓮宗などの、顕教(注2)に分類される寺院に多く接する中で、密教の代表である真言宗(注3)が平安期に興り朝廷からあれだけ強く支持され、その後鎌倉仏教を生むことになる背景と理由を展示を通じて、今更ながらなんとなく肌で感じられたら、といったところでした。以下、思いつくままに・・・。

展示では、空海の生涯を辿りながら、多面性を訴えてきます。真言宗の開祖にとどまらず、優れた書家としての顔(書道史上の三筆の一人)、中国(唐)へ渡って膨大な知識を吸収した知識人としての側面、そして四国八十八箇所霊場の巡礼で民衆に親しまれる「お大師さま」信仰の対象としての姿まで、現物で立体的に紹介されていました。
なかでも、空海自筆の書と直筆ノート(国宝)として、唐での留学中に空海が密教の典籍を書写した『三十帖冊子』(仁和寺蔵)をはじめ、空海の当時の筆遣いや意気込みがそのまま伝わってくるような直筆の書が展示され、ついしばらく立ち止まっていました。
また、今回、真言宗十八本山がいまも皇室の直視を迎え毎年行われている宮中密教儀式「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」(注4)のことを初めて知りました。儀式の空間的な間取りや段取り、使用される仏像、仏具まで展示され、空海が始めて以来1,200年続く儀式として歴史を感じました。これは、承和2年(835年)に空海が始めて以来、現在も毎年行われている真言宗最高の儀式だそうで、その儀式で用いられる「十二天像」や精巧な仏具類が並び、ベールに包まれた密教修法の厳かな雰囲気が伝わります。一方で、この頃の真言宗は、朝廷や貴族を向いていて、「民衆の救済」という意識は低かった、それが鎌倉仏教を生んだ、という本郷和人さん(「宗教の日本史」など)の指摘は当たっているようにも思いました。あくまでも現代から見ての話ですが。
さらには、文字では表現しきれない密教の宇宙観を視覚化した「両界曼荼羅」(曼荼羅と立体曼荼羅)などの絵画に加え、平安時代初期の密教彫刻の傑作である「五智如来坐像」(安祥寺蔵)など、仏像群による立体的でカラフルそして重厚な世界観を体感させてもらいました。これまで接する機会が多かった顕教の禅宗や浄土系宗派とは基本的な思考がかなり異なるようです。
総じては、真言宗の密教の世界の、儀式を重んじる、仏画、仏像、仏具の精度が高く大から小まで動きがある、教義が視覚的で一見してわかりやすい、といったところを身近に感じて帰路につきました。
これまで、ここや京都国立博物館で観た法然展、親鸞展を思い出しながら、これを機に空海もやや近くなった気がしました。写真は最後のブースでのみ撮影可能でした。
この日は、午前の他の移動も合わせて11,800歩コースでした。
最後に、一句、

空海展唐で写経の筆遣い

因みに、浄土宗の法然展、浄土真宗の親鸞展を訪ねた折の記事を下記にアップしていました。
・法然展:2024年5月9日

「法然と極楽浄土」展

・親鸞展:2023年4月11日

親鸞展と三十三間堂といつものうどん店


愛染明王坐像(山梨放光寺蔵)
天の星を射るがごとし。甲斐源氏ゆかりの平安仏

五智如来坐像(京都 安祥寺蔵)。初期密教彫刻の傑作とのこと。

五智如来坐像 背面からも
会場の東京国立博物館平成館入口にて。この日は大雨でした。
勝手ながら、ついつい空海が唐に渡るときに難破した東シナ海の嵐をイメージしてしまいました。

(注1) 教王護国寺
京都・東寺の正式名称であり、真言宗(いまは東寺派)総本山として国家鎮護を目的に創建された密教寺院。正式には「八幡山金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」(通称:教王護国寺。東寺)。 創建は延暦15年(796年)、平安京造営に伴い国家鎮護の官寺として建立され、弘仁14年(823年)嵯峨天皇が空海(弘法大師)に託し(下賜)、真言密教の根本道場となる。 「教王(きょうおう)」とは王を教化する、「護国」とは国家を守るという意味で、 “密教によって国家を守る寺”という理念が寺号に込められている。因みに、東寺と呼ばれるのは、平安京の東西を守る官寺として創建され(東寺・西寺)、東寺は羅城門の東、西寺は西に置かれ、王城鎮護を担った。現存するのは東寺のみ。
(注2) 顕教と密教
顕教(けんぎょう)は密教からみた対語で、仏の教えを、仏典に基づき言葉や教理によって明らかに説く教え。真言宗(東密といわれる)と後の天台宗の一部(東密に対して台密といわれる)以外の宗派での悟りを得る道を指す。
これに対し、密教は、仏と自分が一体となることを、身体・言葉・心を使った実践によって体得する教え。人間の理性では到達できない秘密の教えを指し、悟りを得るために仏の神秘的な力を借りて成仏するという道を提示する。それが三密(後述)による即身成仏とされる。
顕教は解脱に至る堅実な教えながら悟りに至るまでには時間と鍛錬が必要なのに対して、密教では、通常の人間の努力だけでは悟りに達するのは難しいとされ、仏の神秘的な力を借りて短期間で効率的に悟りに達すると説いた。その仏の力が三密加持(手で印を結ぶ「身密」真言・陀羅尼を唱える「口密」、 仏を観想する「意密」により大日如来と人間の身・口・意が合致すること)によって成仏できるとする即身成仏の考え方である。
平安期の現世利益を求める貴族たちには密教が受け入れられた。
(注3) 真言宗の概要  (宗教年鑑令和7年度版から引用、編集)
真言宗の開祖は弘法大師・空海(774~835)である。空海は唐で恵果より真言密教 を学び、ことごとく秘法を伝授されたという。帰国ののち真言宗を開き、823年には、 嵯峨天皇から教王護国寺として東寺を賜って皇城鎮護の道場とし、835年、高野山で入定(入寂)した。 この間、布教活動とともに福祉的活動や橋をかけるなどの社会事業にも尽力した。密教 というのは、歴史上の釈尊が説いたとされる顕教に対するもので、法身仏(いわば絶対 者)である大日如来が、直接説いた教えという。生きとし生けるものは、宇宙の根源的 な生命である大日如来の顕現であり、我々も身・口・意の三密行の実践により即身成仏 することができると説く。そのほか具体的な行として阿字観などがあり、また諸尊の加 護を求めて加持祈禱がしばしば行われる。曼荼羅は密教の悟りの世界=宇宙の大生命を 象徴的に図画でもって示したものであり、かつ現実世界がそのまま理想世界であること を示すものである。また、高野山は、弘法大師・空海の入定の地であり、大師の救いを 信じて南無大師遍照金剛と唱える大師信仰の中心となった。この高野山金剛峯寺を総本 山とする高野山真言宗は真言宗団の中でも最大の宗団である。また、真言宗は皇室と縁 が深く、大覚寺、仁和寺等の門跡寺院が多くあり、それぞれ一派を形成している。 12世紀には、覚鑁(かくばん、1095~1143)が出て密教と高野山の復興につとめた。覚鑁は金剛峯寺と大伝法院の座首を兼任するなどしたが、金剛峯寺勢力と折り合わず、高野山を離れて根来(ねごろ,和歌山県)に根来寺として本拠を置いた。その後、頼瑜(らいゆ,1226~1304)が出て大伝法院を根来に移し、新義真言宗として独立した。根来寺が豊臣秀吉に焼かれると、専誉(せんよ) と 玄宥(げんゆう )の二人の能化は、それぞれ大和長谷寺、京都智積(ちしゃく) 院に移り、現在の真言宗豊山(ぶざん) 派 と真言宗智山(ちさん) 派の基を据えた。
 〔修験道〕 平安末には日本古来の山岳信仰が仏教、道教、シャーマニズム、神道などと習合して、 修験道という一つの宗教体系を作り上げた。中世期、大峰山では吉野・熊野を拠点とし て修行が行われ、熊野側では聖護院(しょうごいん)を本山とする本山派が、吉野側では大和を中心に 当山派が形成された。江戸時代には両派が認められていたが、明治政府により神仏分離 政策がとられ、明治5(1872)年、修験道は一宗としては廃止され、本山派は天台宗に、 当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。現在は独立して本山修験宗、真言宗醍 醐派、金峯山修験本宗、修験道などとなっている。
(注4) 後七日御修法(ごしちにちみしほ)の概要(関連HPを引用・編集)
後七日御修法は、 京都・東寺(教王護国寺)金堂で行われる密教の国家安泰祈願法会。  平安時代以来、 国家安泰」「五穀豊穣」「天皇の安寧」を祈るために  毎年1月8日〜14日に行われてきた年頭の国家儀礼で、 天皇の勅使が参向することからその格式の高さが際立っている。

2026年8月1日土曜日

横浜プチパン展2026夏

 7/31には恒例の第9回横浜プチパン展(7/21~8/1)を関内の仲通りギャラリーで観てきました。今年は水彩画が集められ白い同じサイズのフレームにして100作品が展示されていました。夏場の開催、ということもあるのでしょうか。
毎年夏と冬にここで開催され、審査なしでプロ・アマ問わず小作品を出品できる、自主性の高い個性のある作品のオープンでカジュアルな、ある意味でビジネスライクな公募展です。(注)
猛暑の中でしたが久々に個性的な作品を楽しめましたし、大いに参考になりました。
ここではリーズナブルな価格表示がされ販売されます。この日は最終日1日前だったこともあり、殆どの作品には販売済の赤マークが貼られていました。
この日は、4,500歩コースでした。ジムで不足分を補充です。
因みに、昨年2025年7月にもここのプチパン展を訪ねて、当ブログに下記のような記事をアップしていました。

横浜プチパン展@2025年盛夏



一色先生の「ヨコハマブルー・汽車道」。動きと光のある海の表現に感心しました。

成澤氏の「海月」(くらげ)も印象的でした。

白い同一フレームの展示風景から

村杉氏の「夏が来た!」も気になりました。

同上
案内カンバンから

手前を東西に走る仲通りからみたプチパン展会場の仲通りギャラリー。右奥に行くと日本郵船記念館、その奥は横浜港の大桟橋のちょっと左側に出ます。私は勝手に「海辺のギャラリー」と呼んでいます。

(注)プチパン展について (ギャラリー内での説明から引用)
プチパン展とは、仏語のpetit プチ(小さい)と公募展のアンデパンダン展(プロ・アマ問わず作品を受け入れる無審査の公募展、アンデパンダンは独立的の意)のパンとを組み合わせた展覧会名です。
同じ大きさのフレームに水性画材を用いたそれぞれの個性豊かな作品をお楽しみください。
今回も100名の皆さまにご出品いただき、心から感謝申し上げます。

2025年5月21日水曜日

カンガ展@本郷台あーすぷらざ

 5/21には、いつもの句会のために本郷台に行った折に、会場のあーすぷらざ(注1)で丁度開催中の「 東アフリカの布 “カンガ” を知ろう!展 」を観てきました。カンガは、東アフリカで子供から老人まで幅広く使われているカラフルな図柄の万能生活敷布です(注2)。ユニークなのは、その布の中央っちょっと下に、スワヒリ語の格言などのメッセージ「カンガセイイング」が小さく描かれていることです。アフリカの人々はカンガをまとったり贈ったり飾ったりすることで、心の中にあるメッセージを伝えるそうです。今年8月に横浜で開催される第9回アフリカ会議(TICAD9)に合わせた企画だとか。
カンガのメッセージとして「しゃべってばかりいないで、しっかり仕事をしなさい」、「この世は常に試される場所」、「お母さんに言い返しちゃダメ」など、を見かけました。展示されたカンガひとつひとつの下に置かれた小さな銘板にメッセージが翻訳されて貼り出されています。
メッセージツールを兼ねた布を身に着け発信しているとは、今どきのSNSによる個人的なメッセージ発信にも通じる面白い習慣だと思いました。
そこで、一句、

初夏の風カンガの布のメッセージ
薫風や赤道からのメッセージ

この日は、5,800歩コースでした。体調維持にはもう少し歩く必要があります。



カンガは日常生活から儀式まで幅広く
使われているようです。

カンガとメッセージ「カンガセイイング」

カンガは被服として全世代で使われている
そうです。

カンガ展の全景

(注1)正式には「神奈川県立地球市民かながわプラザ」で、指定管理者が公益財団法人青年海外協力協会となっています。桜の頃の関連記事を当ブログの下記にアップしていました。

「栄彩会展」と本郷 「あーすぷらざ」の桜並木

(注2)カンガについて
カンガは、東アフリカの文化を象徴する色鮮やかな布で、特にケニアやタンザニアで広く使われています。その歴史は19世紀に遡り、ザンジバルやモンバサの女性たちがハンカチ用の布を縫い合わせて大判の布として利用し始めたことが起源とされています。
カンガの特徴的な点は、中央に配置された「カンガセイイング」と呼ばれるスワヒリ語の格言やことわざがプリントされていることです。これにより、着用者の気持ちやメッセージを表現する手段としても使われてきました。
現代では、カンガは衣服としてだけでなく、赤ちゃんのおくるみ、テーブルクロス、壁掛けなどのインテリアとしても活用されています。また、特別な儀式や式典で着用されることもあり、東アフリカの人々の生活に密接に結びついています。
さらに、カンガはグローバルなファッションの舞台でも注目されており、世界中のデザイナーにインスピレーションを与えています。その独特なデザインと文化的意味合いが、伝統と現代性を融合させる素晴らしい例として評価されています。(紹介記事とCopilotを引用・編集)


2025年3月30日日曜日

「栄彩会展」と本郷 「あーすぷらざ」の桜並木

3/30には、俳句仲間の紹介で「 あーすぷらざ」(神奈川県立地球市民かながわプラザ)で開催中の「第26回栄彩会展」を訪ねました。JR根岸線本郷台駅から歩いて5分のところにあります。
油彩、水彩、日本画の展示でしたが、皆さん長い経験者のようで、とくに近くで見覚えのある風景を描いた作品では、切り取り方やタッチ、色調の考え方がよくわかり参考になります。
帰りには、すぐ横の本郷桜並木に寄りました。丁度満開で家族客でにぎわっていました。
この日、東京では桜の「満開宣言」が出たと報じられていました。


背景がアースプラザ(神奈川県立地球市民
かながわプラザ)です。


あーすぷらざの入口ゲートです。力の入った
デザインです。バブル期を思わせます。

2025年3月18日火曜日

初めてのトルコ旅行 その4ーカッパドキアの巨大奇岩窟群と地下都市

3/9には、トルコのアナトリア高原中央部に位置するカッパドキアの巨大奇岩窟群のポイントを一巡しました。ここは活発な火山地帯で厚い火山灰と溶岩が何層にも堆積されて、その後、火山灰層が凝固して凝灰岩となり長年の降雨などで部分的に溶けてこのような起伏の多い地形になったそうです。カッパドキアはトルコ語で「尖った要塞」の意味だとか。現物を観てよいネーミングと思いました。ここがツアー4つ目の世界遺産です。
珍しいのは、この地域の奇岩窟群のなかに造られた「地下教会」や「地下都市」が多く残されていることです。ここには2度にわたってキリスト教徒が隠れ住んだ場所だったそうです。始はじめは、初期キリスト教徒(Early Christian)(注1)が1〜3世紀に隠れ住んだ奇岩窟中の地下初期教会、地下墓地(カタコンベ)や地下住居が造られました。地下8階まであったとか。
2度目は、9世紀頃になって、ここの奇岩窟には、イスラムの圧迫から逃れるために、キリスト教徒が岩を掘って教会や修道院を造ったそうです。その中心がギョレメで、一帯には400〜500の教会があったとか。そのうちの30の教会がギョレメ野外博物館として公開されており、足早に巡ってきました。
凝灰岩が雨に洗われてできた自然の景観とともに、信仰と安全な生活を求めた当時の人々の生き抜く執念を感じます。それがイスラム国のトルコで観られるとは、尚更です。
この日は、9,300歩コースでした。


キノコ岩。背景はカマルディ山。
溶けた凝灰岩の上に溶岩層が残った結果
だそうです。

鳩の谷。ワイン栽培には鳩の糞が欠かせ
ないとか。岩場で多く飼われたいました。


ラクダ岩

ここでは一帯を俯瞰できるバルーンツアーもあり、
頷けます。


ウサチヒール村。まさに「尖った要塞」です。


ざくろジュース。200TL(トルコリラ)でした。
1TLは5.4円くらいでした。

ギョレメ野外博物館のフレスコ画(注2)の紹介写真。
地下教会の岩壁に描かれていますが写真撮影不可
でした。宗教画として貴重だそうです。

美味しそうな大き目のざくろを多く
見かけます。


EFESがローカルでよく見るビールでした。
ピルスナー系です。スープも野菜、トマト、
ポテトの重い感じです。

(注1)初期キリスト教
初期キリスト教(Early Christianity)は、キリスト教が誕生してから最初の数世紀にわたる時代を指します。この時代は、イエス・キリストの教えが広まり、初期の信者たちが共同体を形成し、迫害を受けながらも成長し教義を確立していった重要な時期です。
起源と成長: 初期キリスト教は、イエスの死と復活を信じるユダヤ人の小さな宗派として始まりました。その後、使徒たち、特にペテロとパウロの働きによって、ユダヤ人以外の人々(異邦人)にも広がりました。
教義と実践: 初期の教会では、イエスの教えや使徒たちの教えに基づいて、祈り、聖餐式(パンとぶどう酒の分かち合い)、洗礼などが行われました。ここでは、イエスの教えを基にした神への信仰、愛、謙虚さが重視されました。
礼拝はシンプルな形で行われ、多くの場合は信者の家などで集まっていました。信者が隠れて礼拝や埋葬を行う場として地下墓地(カタコンベ)が使用されることもありました。そのなかで、新約聖書の編纂や三位一体(父、子、聖霊)の教義が徐々に形成されました。
迫害と殉教: 初期のクリスチャンたちは、ローマ帝国やユダヤ教の指導者たちから迫害を受けましたが、その中で信仰を守り続け、多くの殉教者が生まれました。
この時代は、キリスト教が世界的な宗教へと成長する基盤を築いた重要な時期とされています。
重要な転機: 4世紀に入ると、ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認し(313年)、その後キリスト教がローマ帝国の国教となりました。
この時代の美術や建築(例えば、壁画や教会建築)も「初期キリスト教美術」として知られ、その後のキリスト教文化や思想に大きな影響を与えました。(関連記事から引用・編集)
(注2) フレスコ画
古来の西洋での絵画技法のひとつ。この画法で描かれた壁画をフレスコ画と呼びます。フレスコ画法では、まず壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で、つまり生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く。やり直しが効かないため、高度な計画と技術力を必要とします。逆に、一旦乾くと水に浸けても滲まないことで保存に適した方法でした。

2025年2月6日木曜日

京都嵯峨での「東山魁夷展」と天龍寺

 1.「東山魁夷と風景画の旅ー日本から世界へ」展

2/3午後には舞鶴帰省からの帰路、京都で途中下車して、JR嵯峨野線で嵯峨嵐山駅まで駆け足で寄り道をしてきました。嵐山の渡月橋のすぐそばにある福田美術館で、2/1〜4/13に開催中の企画展「東山魁夷と風景画の旅ー日本から世界へ」を観るためです。
今回の展示では、福田美術館が所蔵する魁夷作品30点余りに加え、魁夷とともに近代日本画を牽引した横山大観や竹内栖鳳、さらには彼らが影響を受けたモネやコロー等の風景画も所蔵作品を中心に併せて展示されています。(注1)
美術館の建物が、京都の町屋をイメージして設計されており、3つあるギャラリーも「蔵」をイメージしており、扉も重厚で展示作品に集中できるように照明なども工夫されています。こじんまりした美術館ですが、これもまた一興です。鑑賞後には渡月橋を見渡せるカフェでゆっくりと余韻を楽しめます。(注2)
また、ここの特徴は、原則、写真撮影が許可されていることです。著作権処理が未了の作品だけに撮影禁止のマークが付されています。SNS等へのアップ、シェアも、営利目的でなければOKとのこと。昨今、敏感すぎるくらいに館内の撮影禁止が多い中では、鑑賞時の印象を私的にカメラにも残せるのは大いに助かります。ただ、館内が暗いため、写真品質は望めませんが。
このところ、国政選挙や地方選挙でSNSの影響が出てきいますが、美術展でもこれからこういったSNS化が始まるようにも感じます。ある意味で「美術館の民主化」というのかもしれません。
久々に観る東山魁夷の作品群に、風景を尊重し、ポリシーのある構図と精緻な筆さばきにあらためて感心するとともに、懐かしさを覚えました。我々世代は30〜40歳代の頃に、唐招提寺の襖絵など、東山魁夷の全盛期をみてきており、敬意とともに、同世代人のような安心感を持ちます。


福田美術館内のカフェからみた
桂川(大堰川:おおいがわ)と渡月橋

東山魁夷「明宵」。黒部渓谷。73歳の
作品で、まさに東山ブルーの世界です。

東山魁夷「月映」

東山魁夷「静けき朝」。志賀高原三角池。

福田美術館。京都の町屋のイメージとか。
5年前にできたばかりです。

渡月橋はこの日も賑わっていました。5割は
外国人と思われます。美術館はこのすぐ
手前右手にあります。

案内チラシから


(注1)「東山魁夷と風景画の旅ー日本から世界へ」展の紹介記事から
風景画家として知られる東山魁夷は、日本各地を旅しては、自然が織りなす風景を描き続けました。さらに国外の芸術に関心を示し、ドイツ留学を経て、欧州や中国など、 魁夷は世界の風景も絵にしました。晩年の作品は「東山ブルー」として広く愛好されています。
本展では、福田美術館で初公開となる、京都の修学院離宮西浜を描いた《夕涼》をはじめ、 オーストリア・メルクの修道院からドナウ川を見下ろす《青きドナウ》など、当館が所蔵する魁夷の風景画約30点に加え、京都の円山公園に咲く祇園しだれ桜を描いた《花明り》を特別に展示いたします。また、魁夷と同様に新たな活躍の舞台を求め欧米諸国をまわった横山大観や菱田春草らの作品も展示。さらに、近代風景画の基礎を築いたカミーユ・コローや、印象派を代表するクロード・モネなど、近代の日本画家が憧憬を抱いた海外の画家の作品もご紹介いたします。

(注2) 福田美術館について(HPから編集)
福田美術館は、京都市に本社を置く大手消費者金融会社「アイフル」の創業者である福田吉孝氏(1946年生)が長年かけて収集してきた日本画コレクションを収蔵・展示しています。福田氏の長年の夢であった美術館として京都市右京区嵯峨に2019年に建てられたのが本館です。
福田氏は、美術品の収集家としても知られ、特に、江戸時代から近代にかけて主に京都画壇で活躍した絵師の作品を収集しています。そのコレクションは、俵屋宗達、円山応挙、与謝蕪村、伊藤若冲、竹内栖鳳、橋本関雪、速水御舟、上村松園など、約1,500点に及びます。福田氏のコレクションには、日本美術史を語る上で貴重な作品が多数含まれており、その質の高さは広く認められています。

2.天龍寺

福田美術館からJR嵯峨嵐山駅に戻る途中にある天龍寺を帰り道に訪ねてきました。
郷里の舞鶴にある檀家寺の得月寺が、臨済宗天龍寺派の系統なことから、あえていうと、間接的な檀家ということになります。得月寺の住職さんもここで修行されたと聞いています。得月寺でも多くの達磨の絵をみますが、こちらでも、本堂入口に大きな達磨絵がどんと置かれています。達磨像は禅寺のシンボルとのこと。
ここは、1339年に足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建した寺院ですが、後醍醐天皇自身もここで幼少期を過ごした場所だそうです。一時期は京都五山第一位の寺格だったとか。いまでも、天龍寺派の総本山として多くの僧の養成所としても機能しているそうです。一般には、中庭の曹源池と墨絵の雲龍図ばかりが取り上げられますが、表からは見えない禅堂、書院や法堂では釈迦如来をご本尊として厳しい修行が行われているとか。得月寺を訪ねるたびにいただく、天龍寺派宗務本院が毎月発行する冊子「教学時報」には、その様子が詳細に報じられています。
この日は、久々に曹源池周辺をゆっくりと一周して高台の「望京の丘」にあがり天龍寺の広さをあらためて実感したあと、嵯峨嵐山駅に出て、新幹線で帰路につきました。
久々の京都散策でした。この日は、11,500歩コースでした。


本堂入口の達磨絵。前管長平田精耕老師の筆に
よるそうです。

本堂。独特の切妻造りの屋根です。

雲龍図(若狭物外 作(もつがい))

庫裡。こちらも同じ切妻造りの屋根です。

霊亀山天龍資聖禅寺(天龍寺)  山門

大船の初秋とヒョウタン展 ー萩と彼岸花そして瓢箪ー

 9/15には、雨天の合間に大船フラワーセンターの萩や彼岸花などの初秋を見に久々に出かけました。 園内中央には萩(ミヤギノハギ)の並ぶ長い横丁エリアがあります。まだ二分咲きでしたが、赤紫色の蝶型の花を穂状に付け、穂が風にうねるように揺れて咲く様は風情があります。このことから「風聞...