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2026年1月17日土曜日

どんど焼きー正月の締めくくり

 1/17には、近くでどんど焼きが行われる金沢海の公園砂浜を訪ねました。先日横浜金澤七福神巡りをしたときに知り、初めての参加でした。
シーサイドラインの海の公園柴口駅と海の公園南口の間の砂浜で行われます。
どんど焼きは、正月にお迎えした歳神様(その年の福を運んでくれる神様)が、どんど焼きの火と煙に乗って天へ帰られるのをお見送りする、という意味があるそうですが、一般には、飾り物を火に掛け、お正月を締めくくる行事のように思います。昭和の頃には舞鶴の実家の玄関前で「どんと焼き」(舞鶴ではこう言います)をして、その火でサツマイモを焼いて熱いのを皆で食べた記憶があります。
そこで、一句、

灯す火やしんと静まるどんど焼き
点す火やダルマも天にどんど焼き
燃える火や光る海辺のどんど焼き

この日は、7,000歩コースでした。


点火直前の様子から
 
どんど焼き会場全景。背景左が八景島シー
  パラダイス水族館。右が野島、平潟湾方面です。
チラシから

2026年1月12日月曜日

地元の七福神巡りその3



  1/10にはグループ3(正法院と宝蔵院)の横浜金澤七福神巡りをしてきました。

6. 正法院_福禄寿
正法院(しょうほういん)は、京急金沢文庫駅から西に15分程歩いた赤井地区にある真言宗の寺です。
ここにも以下のような伝承があるようです。

1200年程前、この地を訪れた弘法大師(空海)は、村人が水不足と疫病に苦しんでいる姿を目の当たりにしました。大師が杖で地面を突き井戸を掘って加持祈祷したところ、赤い霊水が湧き出したと伝えられています。弘法大師はこの赤い水を使って「不動明王」を描いたとされ、それが秘仏の「赤井不動明王」として伝わっています。それからこの寺は赤井山正法院となり、現在も「赤井の不動様」として地域の人々に親しまれています。

ここは境内が限られていることから奥の斜面に納骨墓を造り地元の方々の埋葬の機会を多く作ろうと工夫されているようです。
この近くには以前「赤井温泉」がありましたが20年程前に廃業しています。

7. 宝蔵院_寿老人
宝蔵院は、シーサイドラインの海の公園柴口駅から20分程斜面を歩いた柴漁港、八景島や東京湾を見晴らす高台にある寺です。正式には此木山 西方寺 宝蔵院(しもくざん)と呼ばれますが、山号の「此木山」には、漁師町 柴に移り住んだ人々に以下のような伝説が残っているそうです。

かがり火の伝説: 鎌倉時代末期の応長元年(1311年)、現在の八景島付近(長浜)で大津波が発生しました。海に流され漂流していた村人たちが、この寺にある大きな銀杏の木の下で焚かれていた「かがり火」を頼りに岸へ辿り着き、九死に一生を得ました。
柴村の誕生: 助かった人々はそのまま寺の周辺に住み着き、寺の山号にちなんで村を「此木(このき)村」と名付けました。これが現在の「柴町」のルーツになったといわれています。

正に、伝説とともに、明治までの「一村一ヵ寺」の面影を今も残す寺と思いました。

参拝の帰路、眼下の柴漁港に立ち寄り、近くのSEASIDE CAFEで一服し帰宅しました。

そこで、一句、

寺社ごとに伝承豊か七福神
キラキラと金澤の海や寿老人
あらためて地元見直す七福神

この日は、12,000歩コースでした。

以上、横浜金澤七福神を一巡してきました。どこの寺社にもそれぞれのユニークな伝承があり、それを大事にする地域文化が地元に溶け込んでいるように感じました。
まだ元気なうちにもう一度一巡しておきたいと思っていた横浜金澤七福神でしたが、今年思い切ってトライしてなんとか間に合ったかと感じた次第です。
これからは、これを機会に、七福神には含まれず観逃したこの地域にある多くの寺社も個別にゆっくりと訪ねてみたいと思っています。


正法院本堂

正法院の福禄寿像
正法院山頂の赤井不動尊。風習にあやかって
像の前に並ぶ「不動の福石」を一つ頂戴して
きました。

正法院の海を臨む集合型の納骨墓。これが
第二期分で手前にもうひとつあります。
墓地内の造成に力を入れられているようです。
これも新しい墓地の形態かも知れません。

正法院本堂脇の十六羅漢像。ここは
小さく精巧な石仏の多い寺です。

正法院全景

宝蔵院本堂脇の不動明王像

本堂前の寿老人像。長い髭をたくわえ、手に
杖や宝珠、桃をもたれる長寿の神様です。


宝蔵院本堂

宝蔵院全景

柴漁港に釣船が帰ってきました。

柴漁港。ここは「小柴の蝦蛄」や湘南の
シラス、タコの漁獲の拠点です。
 

チラシから

2026年1月11日日曜日

地元の七福神巡りその1

 今年の正月には、地元の横浜金澤七福神を15年程振りに2日に分けてゆっくりと巡ってきました。1/1~1/8の御開帳の期間は過ぎていましたが、正月休みの参拝客による混雑も過ぎた、晴天の1/9と1/10の午後に訪ねました。また、年齢もあり、移動にはフルに公共交通機関を使ってのやや変則的な(安易な)七福神巡りでしたが、それでも道中には所々に起伏もあり、私には結構ハードなトレッキングでした。
横浜金澤七福神は横浜市の南東部の東京湾沿いに当たる金沢区にある7つ寺社に七福神7柱(恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋尊)が祀られ巡拝します。途中に海を望みながら廻れる爽やかのコースだとか。七福神巡りは、室町時代から続く庶民信仰で、仏教、神道の宗教、宗派に関わらず歴史ある寺社が選ばれて、一巡すれば七つの災いを避け、七つの幸福を授かるそうです。ここの七福神の正月イベントは新しく今年が21回目で、2005年から途中の商店、レストランなどのPR、街おこしを兼ねて始まっており、今流の「平成の七福神」、今どき「21世紀の七福神」といった趣もあり、祀られた御神体はいずれも真新しい御影石造りでした。
場所的には、京浜急行金沢八景駅周辺の瀬戸神社、龍華寺(りゅうげじ)、伝心寺のグループ1、京急富岡駅近くの富岡八幡宮、長昌寺のグループ2、その他の正法院と宝蔵院のグループ3に分かれます。
今回は、前2グループを1/9に最後のグループを1/10に訪ねました。
まずは1/9 瀬戸神社、龍華寺、伝心寺巡り(グループ1)から始めました。

1.瀬戸神社_弁財天
瀬戸神社は八景駅から海沿いに出ると5分で行ける至近です。源頼朝が古代からの整地 瀬戸に三島明神をお祀りして瀬戸神社を造営した時に、妻の北条政子が日頃崇敬した弁財天を祀ったのが境内で平潟湾に突き出た琵琶島神社だったことが由縁だそうです。頼朝の故事にはいつも政子の陰が付きまといます。
瀬戸神社から龍華寺に向かう途中に、明治憲法草創の碑が建っています。伊藤博文ほかがプロイセンの憲法をベースにここの近くの料亭「東屋」で明治憲法草案を練ったとか。また、その先には鰻屋「饅松」があり、店の前の東屋には伊藤博文の書が掲示されており、明治初期の面影をうかがわせます。この先国道16号線君が崎交差点までを「歴史の道」(通称「バス通り」)というそうです。

2.  龍華寺_大黒天
鎌倉期初期、当時この地の海の守りとして栄えた金沢の港と瀬戸神社を結びつける形で、最初の寺院 浄願寺を山中に建立したことが龍華寺の起源とされれいます。その後1499年にこの地に龍華寺として統合され、真言密教の修行道場として再興されたそうです。東国における中世の密教世界を知る貴重な史料も多く見つかり注目されているとか。
山門をくぐり境内に入ると正面に藁葺屋根の古風な鐘楼が見られ、この珍しい配置にもなにか所縁がありそうです。

3.  伝心寺_毘沙門天
伝心寺(傳心寺)は鎌倉期1247年に北条時頼の開基により 、曹洞宗発展の時期にこの地での信仰の拠点として創建されたそうです。その後、戦国時代に再興されています。海に近い金沢の地で、 地域、漁や海運の安全を見守り続けてきた寺とのこと。
境内には木守柿のように柘榴(ざくろ)が古木に残っており、目に留まりました。また、山門前には白梅が咲き、私には今年初めての梅でした。


瀬戸神社拝殿

境内の岩穴にお稲荷さんも

琵琶島神社入口に琵琶を弾く弁財天が
にこやかに出迎えます。琵琶島はかつては
岸から30m程離れた平潟湾に浮かぶ島
でしたが今は陸続きになっています。

琵琶島神社と平潟湾。右は金沢八景と新杉田
を結ぶシーサイドラインの高架軌道です。
左側の岸辺に瀬戸神社があります。

瀬戸神社全景

龍華寺の藁葺屋根の鐘楼と本堂。ここは
牡丹の寺でもあるとか。

龍華寺山門の前ににこやかな大黒天が鎮座して
います。

龍華寺全景

移動中のお宅の庭で見かけた見頃の南天



伝心寺全景。門前左には梅が咲いていました。

伝心寺境内には木守柿ならぬ「木守柘榴
(ざくろ)」が昨秋から古木に残っていました。

移動途中に老舗の鰻屋「饅松」さん店頭の
鰻のオブジェが目に留まりました。
餌の小魚も表現されています。店頭の
小屋には伊藤博文の書「四海為家」の額が
残されています。由縁がありそうです。

龍華寺に向かう「歴史の道」の入口には
「明治憲法草創の碑」が建っています。この近くの
料亭「東屋」で伊藤博文、金子堅太郎他が起草した
そうです。それもあって伊藤博文はこのすぐ先の
に別邸を造って 船で通ったそうです。

釣宿 荒川屋でのランチです。釣人飯の感じが
します。この日はアジ、シロキス、太刀魚の
天ぷらでした。地元産海苔の佃煮も(左上)。

弁天屋の釣舟で今釣れるのは、カワハギ、
太刀魚、シロギス、アマダイ、鯵など
のようです(左下の看板から)。

釣宿「弁天屋」の釣果の魚拓から。この辺りは
交通の便がよいため釣舟屋、釣宿が多く
並びます。

案内パンフから。しっかりと
案内してくれます。
(補足)コロナ禍真っ最中の20210323には
「疫病退散」と幟に掲げて祈願する瀬戸神社の
様子をスケッチしていました。

2026年1月4日日曜日

久々の寒川神社と八方除(はっぽうよけ)

 1/4には、寒川神社に初詣と吟行を俳句仲間としてきました。ここは10年程前に訪ねたことがあり久々です。
東海道線茅ケ崎駅から相模線に乗り換え4つ目の宮山駅で降りると10分程で境内にたどり着けます。周囲の場所柄からは予想できないくらい大きく立派な神社で、年間200万人が参拝するそうです。
ここは神奈川南西部の藤沢、辻堂、茅ヶ崎、平塚近辺では代表的な初詣スポットで、三が日には大変混むそうですが、この日はそれほどでもなく境内に入って拝殿まで40分くらい並ぶ程度でした。途中に立派な造りの神門があり、毎年正月にはその年の干支にちなんだ異様に大きな「迎春ねぶた」が飾られるため、参拝客も興味をそそられ並ぶのもあまり苦になりません。今年のねぶたは「那須与一 勝利の時」でした。
寒川神社は、相模国一之宮として高い社格の神社です。記録としては約1600年前の飛鳥時代に、朝廷から供え物を贈られたという記述が最も古いものだそうです。
平安時代に国ごとに神社の格付けが行われた際、寒川神社は相模国で最も格式が高いとされる「一之宮」に定められ今日まで続くとか。また、ここは全国で唯一の「八方除(はっぽうよけ)」の守護神として知られ、方位の吉凶を司り、方位による災いや厄災を振り払う神として崇敬されてきたそうです。拝殿の前の大きな注連縄(しめなわ)もこの八方除に由来するとか。(注)
特別に八方除のための祈祷があるようで、参拝の列も一般とは別に設定されていました。そこで、一句、

淑気満つ八方除けや寒川社
寒川の大注連縄や初写真

この日は、9,000歩コースでした。


総桧造りの拝殿。奥に方位の神様 寒川比古命
と寒川比女命を祀る本殿があります。神話に
基づく神というよりは寒川土着の神だったとか。

神門にはその年の「迎春ねぶた」が飾られ、
今年は「那須与一 勝利の時」
でした。

飾り物の授与

拝殿。長い注連縄が目に留まります。(注)

狛犬が勇壮です。頼朝をはじめ戦国武将も
帰依、寄進しています。

関東大震災で被災し1997年(平成9年)に新築
されています。

丙午の絵馬を入手しました。

神門全景

長くて太い注連縄の販売も。両締めと片締めが
あるようで、写真は片締めです。

寒川神社境内入口

(注)  寒川神社の大きな注連縄について
寒川神社の御祭神は、土着の神様 寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわ
ひめのみこと)で、土地(寒川の地)そのものを守護する神、方位・気の流れ・環境を司る神
として信仰されてきました。
寒川神社の拝殿に掛けられている大きな注連縄(しめなわ)の由来は、同社の信仰の核心である 「八方除(はっぽうよけ)」 と深く結びついています。
注連縄はもともと神聖な領域と俗世を分ける結界を示すものです。神が降臨・鎮座する場所を清め、邪気や災厄の侵入を防ぐ役割を持ちます。
寒川神社の注連縄が特に大きく、太く張られているのは、非常に強い神威を宿す場所であることを示す象徴と考えられています。
寒川神社は古来より方位・地相・家相・厄災除けを振り払う八方除の総本社として信仰されてきました。八方除とは、東西南北と四隅、あらゆる方向から来る災いを防ぐという非常に広範な守護です。
そのため、
* 神域を強く区切る
* 災厄を寄せ付けない
* 神の力を明確に示す
必要があり、通常の神社よりも圧倒的に力強い注連縄が用いられるようになったとされます。  (関連するHPなどから引用・編集)

2026年1月1日木曜日

迎春2026-近くの神社と寺での初詣からー

 1/1 今年の元旦は関東では快晴で、穏やかな一年の幕開けでした。
大晦日24時過ぎには、すぐ近くの氏神様 笹下地区総鎮守の天照大神宮で家族で初詣をしてきました。
その前に、今年も家族の都合で全員が集まれる12/31午後から遠くは岡崎市から駆け付けた13人が近くに住む三男宅に集まり新年会をして、ひと休みしてからの初詣でした。
覇権主義が横行し戦争、分断が続く厳しい世相のなか、家族がそれぞれに一回り大きくなって、また来年に全員が集まれるのが楽しみな新年の集まりでした。高1になった最年長の孫が身長175cmだそうであっさりと追い越されたのには驚きました。
初詣では、いつものように参拝後には午年の破魔矢を入手し、振る舞われる甘酒を焚火の前で暖まりながら有難くいただく、といったコースです。
天照大神宮の由来によると、天照大神宮はこの地区では古い神社で、創建年代は不詳ですが、 天正年間(1573〜1592)以前にはすでにこの地に鎮座していたと伝えられています。 明治6年(1873年)頃、村社として正式に列格したそうで、明治41年には村内にあった周辺の無格社7社をまとめて合祀したとか。古くは 笹下城(松本城)の出城の近くに位置しており、 地域の政治や民俗と結びついた地でもあったそうで、自宅からも見える高台にあります。
この日午後には、地元では定評ある参拝地の弘明寺に出掛かました。地下鉄で最寄り駅上大岡の隣りの弘明寺駅から10分程ですが、この日は行列に並んで拝殿まで40分程かかりました。
山門や本堂でみられる「感応」の2文字は、苦しむ人々の真心の祈りに対してそれを感じ取り(感)、仏や菩薩、とくに観音菩薩のはたらきが応じて現れる(応)、ことで、真言宗では重要な教え「感応道交」(注)に通じるそうです。昨今の世相にも通じます。
ここで、正月を詠んで一句、

床の間の隅の賑わい七福神
彼までも年賀じまいか古き縁
遠来の騒がし客や宝船
看病の甲斐のなきしか寒見舞

この日は、5,800歩コースでした。

             <元旦早々の天照大神宮の初詣>


天照大神宮の破魔矢と正月飾りから

天照大神宮の参拝光景から

午年の破魔矢

 <元旦午後の弘明寺観音の初詣>

拝殿上の「感応」額。屋根裏の龍の彫刻が
左右で守っています。
本堂正面の「感応」額。両側に伸びる曲った
彫刻は2頭の龍の胴体です。
本堂正面
身代地蔵菩薩(みがわり)。自分の
治したいところを地蔵でなでると
患部が治るとか。思い当たるところを
いろいろとなぜてきました。
弘明寺山門。寺名も「感応山弘明寺」です。

弘明寺商店街が参道になっていますが、
この日は参拝まで30分程並びました。

(注) 真言宗の「感応道交」(かんのうどうこう)について
この教えは、仏様(大日如来)の慈悲と、私たち衆生の信仰心(菩提心)が、まるで磁石が引き合うように互いに通じ合い、響き合うことを意味します。感(かん)は仏様が私たちを救おうとする働きかけ(加持)を、応(おう)は私たちが仏様を信じ、救いを求める心を表し、道交(どうこう)はその二つが「道」において「交わる」ことを意味します。
真言密教では、修行を通じて、この感応道交の状態をさらに深く追求し、「入我我入(にゅうががにゅう)」という境地を目指します。仏が自分の中に入り、自分が仏の中に入る、「感応道交」によって心が通じ合った結果、自分と仏様の境界線がなくなり、一体になることを指します。 この「感応道交」、「入我我入」を通じて、今のこの身体のままで仏の悟りを開くことが「即身成仏」といわれ真言宗の究極の目的です。(関連HPから引用、編集)

今どきのパソコン用TVチューナー -4代目の調達-

 先日7/28には、パソコン用USB接続テレビチューナーを新機種に交換しました。パソコン(PC)でテレビ(TV)を視るためにPCのUSB端子に接続する簡易なTV信号変換器です。ここ20年程、居間とは別に自分の書斎でもTVを視たり留守中に録画したりするために利用し重宝してきました。...