1/11には、今年の初映画を横浜シネマリンで観てきました。毎年この時期にはその年の正月映画から好みの映画を観ることにしています。この日は珍しくえらく混んでいました。
今年は、昨年後半から気になっていたドキュメンタリ「ネタニヤフ調書ー汚職と戦争ー(The Bibi Files)」が近くのミニシアタの一つ シネマリンで上映中と知り、今年の正月映画に選びました。Bibiはベンヤミン・ネタニヤフ首相の愛称とのこと。
この映画の出発点は、イスラエル警察が 2016〜2018年に行った現職のネタニヤフ首相の汚職捜査の尋問映像 が存在していたことです。これらの映像は当時一般には公開されておらず、イ
スラエル国内でもプライバシや法的制約から公開が制限されていたそうです。
ところが、 2023年春ころ, ある人物がこの未公開の映像を メッセージアプリ「Signal」を通じて映画プロデューサのギブニーに極秘でリークしたのが、映画制作の直接的な契機となったとか。ギブニーはこの素材の重要性に気付き、制作に乗り出します。監督としてブルーム を迎え、制作を本格化させました。
この点は、2013年に米国国家安全保障局(NSA)による大規模な機密監視活動に関する内部情報をリークし内部告発したスノーデン事件に酷似しています。これも大きな話題となり、映画にもなりました。今回の件ではリークした人物については一切触れられていませんが。
監督のブルームは、尋問映像に加えて、公私でのネタニヤフ首相周辺の人物や政治的な内部事情を知る関係者への取材を行っています。作品には元首相の側近や政界関係者、ジャーナリストらも登場し、さまざまな視点からネタニヤフ首相の政治姿勢や汚職疑惑、その後の影響が語られています。
疑惑の論点ごとに、リークされた映像から捜査官の尋問、尋問される側の証言が切り出され、それに対して取材した関係者がコメント、反論する、というサイクルが繰り返されるという構成で、フェアで説得力のある映像と思いました。関係者にはネタニヤフ首相に批判的な元イスラエル首相、イスラエルの国内諜報機関シンベトの元長官、ネタニヤフ首相の元広報担当、国内の調査報道ジャーナリストたちが含まれます。ニュースでなくドキュメンタリ映画として主張を明確にするためとはいえ、刑事裁判で係争中の事案ですので、多少は首相を擁護する論者も含めてもよかったかもしれません。
なかでも印象に残ったのが、証言の中で首相が、映画「ゴッドファーザー」のセリフ「友を近くに置け、敵はもっと近くに置け」(「敵を遠ざけるのではなく、近くに置いてこそ、その危険性を把握し、自分の身を守れる」の意)を引用する様でした。この考え方が、現政権の財務大臣と国家治安相に急進右派の人物を任用していることに繋がるように思われました 。一見関係の薄い汚職疑惑と戦争が現実には繋がっていく過程が側近の眼線でリアルに描かれているように思います。
この映画はイスラエルとアメリカの共同制作作品ですが、さすがにイスラエル本国では上映禁止だそうです。欧米アジアでは混乱はあったようですが昨年央に公開され、顕彰候補にもなるなど国際的に注目されているとか。ユダヤ主義やイスラエル・ガザ戦争に対する考え方や立場の違いによらず、遠い国で起こっているひとつの事実経過として一度は観る価値のあるドキュメンタリと思いました。
それにしても、シネマリンの内装が綺麗になっているのには驚きました。経営者が代わって上映映画の趣向もやや変わったようで、業績が好転しているように見えます。ここの古い一ファンとしては有り難いことです。
この日は、5,000歩コースでした。
2026年1月13日火曜日
横浜シネマリンでの今年の初映画
2025年10月19日日曜日
映画「ワルシャワ蜂起」
10/19には近くの本郷台駅前にあるあーすぷらざ(正式には神奈川県立地球市民かながわプラザ)で映画「ワルシャワ蜂起」を観てきました。
ワルシャワ蜂起については、第二次世界大戦中のポーランドで起こった、当時のドイツ占領下でのレジスタンス運動、くらいしか知りませんでした。
この上映会を知ったのは、いつも通う句会があーすぷらざで行われ、その途中にある公益社団法人青年海外協力協会(JOCA:JICA海外協力隊のOB・OGが中心となり組織された団体。この施設の指定管理団体です)の事務所前の掲示板で、このドキュメンタリの上映会のビラをたまたま見かけ、気になっていました。
ワルシャワ蜂起は、第二次世界大戦末期の1944年8月1日から10月2日にかけて、ナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった大規模な武装蜂起です。西欧で劣勢になったドイツに対して連合国ソ連赤軍がワルシャワに侵攻する前に、ロンドンにあったポーランド亡命政府は、ドイツから自力で首都を解放し、亡命政府の支配下にあることを示す独立政権を樹立することで、戦後のポーランドの独立と主権を確保することを目指しました。(注)
結果的には、蜂起はドイツに鎮圧され、多くの人命を失いました。蜂起軍の兵士が約1万6千人、民間人が推定13万から25万人にも上りました。さらに、鎮圧後、約70万人の住民が市から追放されました。この一部がウクライナにも移住したそうです。
ワルシャワ蜂起は、自由と主権のために払われた途方もない犠牲であり、ポーランド人の国民的アイデンティティの核心をなす出来事として、現代まで強く記憶され、評価され続けている、とのこと。一方で、蜂起を始めたことに対して、敗戦後にはどこでも言われることですが「無駄な犠牲」論もあるようです。
この映画では、蜂起開始から一時期市内一部を解放するも、その後ドイツの反撃を受け大きな被害を被る様が、蜂起軍の撮影班の目で見た記録映像に、カラーと撮影班メンバの会話を付加して、リアルに映像化されています。
悲惨な映像が多いなかにも近くで撮影した現場の小さな出来事の映像もあり、戦時の映像としては幅広く様子を伝えるドキュメンタリになっています。いまのガザやウクライナを思わせる惨状は今もなにも変わっていないと思いましたし、依然として国土、主権一体の原則が守られていない様を目の当たりにし、隣国の占領がいかに悲惨なものかを見せつけられる思いでした。
上映会と同時に、ここでは併せて「ワルシャワ。灰の中から蘇る不死鳥」展が行われていて、戦後の復興の模様が詳細に展示されています。ワルシャワ市には「ワルシャワ蜂起博物館」があり、この企画はこの博物館の蜂起80年記念の企画の一環であったようです。
一連の上映会、企画展を通して、この蜂起がいまもポーランド人のアイデンティティの源泉になっているようにあらためて思いました。
ポーランドは、私にとって今からでも行けるものなら行ってみたい国のひとつでしたが、その思いをさらに強くしました。
この日は、7,800歩コースでした。
因みに、ここのあーすぷらざでは、しばらく前には、横浜で夏に開催された第9回アフリカ開発会議(TICAD9)のアピールをしていました。当ブログにもTICAD9直前の2025年5月に以下のような記事をアップしていました。
映画のチラシから
「ワルシャワ。灰の中から蘇る不死鳥」
展から。1944蜂起前後の年代順に
説明されます。
1944 蜂起兵の共和国
1945 ワルシャワ解放
「ワルシャワ。灰の中から蘇る不死鳥」展入口
「ワルシャワ。灰の中から蘇る不死鳥」
展のチラシから
同上その2
2025年8月27日水曜日
ドローン映画「ランド・オブ・バッド」から
先日には、この夏に観ておきたいと思っていたドローンをテーマにした映画「ランド・オブ・バッド」を猛暑の中でしたが、横浜で観てきました。
この映画は、フィリピン沖の島に立てこもるテロリスト集団に拉致されたCIAエージェントの救出任務に、米軍特殊部隊デルタフォースの3人で編成されたチームが当たります。実在する戦闘ドローン「MQ-9リーパー」(注2)の支援を受けて、多くの抵抗と損害を受けながらもぎりぎり救出し脱出するという、半分リアルな戦争アクションでした。
知りたかったのは主人公の演じる「航空支援連絡官(JTAC:Joint Terminal Attack Controller/統合末端攻撃統制官)」の存在と役割です。この映画では、JTACは米空軍所属の下士官(軍曹)でしたが、米軍では空軍・海兵隊・海軍などがそれぞれ専門の訓練施設でJTACを養成しているとか。自衛隊からも要員を送り込んでいるそうです。
JTACは、「精密攻撃」の中で地上部隊とドローンによる近接航空支援をつなぐ重要な役割を担っていて、前線の眼であり、誤爆を防ぐ戦闘の声だそうです。映画でも、彼らの存在が戦術の要としてある作戦事例を通してリアルに描かれることに驚きました。(注1)
最近、ドローンをテーマにした映画が幾つか公開されています。ドローンにも興味のあるいち映画ファンとしては、これまでなんとかフォロウしてきています。思いつくところでは、以下があります。
・『ドローン・オブ・ウォー』。戦場にいない兵士の遠隔操作による現代の戦争の倫理的ジレンマを描いた作品でした。
・『エンド・オブ・ステイツ』。群状に編隊飛行するドローンによる爆撃が物語の鍵を握るアクション映画。現実の戦争技術とのリンクも話題になりました。
・『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』。ドローン攻撃の是非を巡る軍事サスペンス。少女の命とテロリスト排除の間で揺れる決断が描かれていました。
・『DRONE/ドローン』。連続殺人鬼の魂がドローンに乗り移るという異色ホラー映画でしたた。
進化するドローンは単なる無人航空機にとどまらず、地上前線のJTACとの連携(戦場で航空機に対して「どこを、いつ、どう攻撃するか」を直接指示する近接航空支援とともに攻撃の最終的な許可と中止の判断をするクリアランスコールの役割ももちます)により、現場の人間の精密な判断力をもった”遠隔有人”航空機になろうとしているように思いました。ドローンの進化とともにドローン映画の進化も期待したいところです。
また、映画を通して、JTACとドローンの関係は、これからの人間と生成AIとの係わりを示しているようにも思いました。
この日は、映画と暑さもあって(言い訳ですが) 5,200歩コースでした。
(注1)映画「ランド・オブ・バッド」のあらすじ
舞台は、イスラム過激派の拠点となっている南アジア・スールー海の孤島。
米軍特殊部隊デルタフォースは、拉致されたCIAエージェントの救出任務に乗り出します。
その部隊に加わったのが、航空支援連絡官(JTAC)として初任務に臨むキニー軍曹(リアム・ヘムズワース)。
しかし、目的地到着直後に反政府ゲリラの襲撃を受け、部隊は壊滅寸前に。
孤立したキニーが頼れるのは、遠く離れた空軍基地からMQ-9リーパー無人機を操るベテラン操縦官(元空軍パイロット)、グリム大尉(ラッセル・クロウ)のみ。
通信とドローン映像を通じて、ふたりは「空の眼」で戦場を俯瞰しながら、脱出と任務遂行に挑みます。(映画.comから引用)
(注2)「MQ-9リーパー」の機能
中高度・長時間滞空型(MALE型)、固定翼形式の遠隔操縦形UCAV(Unmanned Combat Aerial Vehicle:無人戦闘航空機)。最大飛行高度は約 15,200メートル、通常の監視運用高度はおおよそ 6,000〜12,000メートル。これは地上からの視認や射程を避けつつ、センサ性能を活かせるバランスの取れた高度。昼夜、曇の有無を問わず高倍率ズームカメラにより中高度からでも人物や車両を識別できる。
MQ-9にステルス性はなく、大型でプロペラ音もあるため中高度での運用を基本とし、地上からは肉眼で見えず、音も届きにくい空域で活動する。「隠密性」よりも「持続的な監視と精密攻撃能力」に重きを置いた設計となっている。20時間以上の滞空能力をもつ。操縦は空軍基地内の地上ステーションにて2名(操縦+センサ操作)で行われる。
「リーパー(Reaper)」は「刈り取る者(収穫者)」の意味から転じて「任務を完遂する者」「成果を収穫する者」の意味とともに、黒いローブをまとい大鎌を持った死の象徴としての「死神(Grim Reaper)」の意味も含まれるとされる。
日本では、2022年に鹿児島県の海上自衛隊鹿屋航空基地で米軍により運用されていたが、その後、沖縄・嘉手納基地へ移転し洋上監視任務などに活用。 今後の導入も計画されている。(関連HPから引用、編集)
2025年8月22日金曜日
映画「雪風 YUKIKAZE」を観て
8/21には、最近話題の映画「雪風 YUKIKAZE」をTOHOシネマズ川崎で観てきました。
8/15の80年目の終戦の日に東宝から公開された映画です。
多くの海戦に参戦しながら幸運にも生き延びた「雪風」という珍しい駆逐艦があったとは聞いていましたが(注1)、詳しい生い立ちなどは知らなかったものですから、上映館を探してたまたま川崎で上映中であることを知り、興味をもって鑑賞してきました。
結果的には正解で、史実に基づいて脚色された映画で、単なる戦記物ではなく、1942年以降米国に押され劣勢を続ける南方戦線での駆逐艦艦上の戦闘と国内の苦難の様子がえがかれ、「生きて帰る」、「生きて還す」を主題に戦前、戦後そして現代を通じて人間ドラマ化されています(映画には、1970大阪万博や3.11東北震災のシーンも含まれます)。さらには、戦争を生き延びた人々へ「失敗した戦争経験を無駄にしないでくれ」という思いを託す、というメッセージ(珍しくそういうシーンも映画の最後にありました)を込めています。(注2)
駆逐艦はその機動力から、艦隊の 先鋒 として魚雷、水雷を放って敵艦隊、潜水艦の勢いを止める先制攻撃、近接する敵小艦の駆逐や戦闘機への高射砲攻撃などによる大型艦の護衛、上陸支援、物資輸送など様々な役割で機能しますが(「艦隊のなんでも屋」だそうです)、この映画では、上記に加え、沈没した他艦乗員の救助活動にも目を向けています。
また、終戦直前には郷里の軍港舞鶴に寄港していて、その後7月30日に近くの宮津に停泊中に米機による空襲により損傷して伊根近くに移動して終戦を迎えていたことを知りました(注3)。
余談になりますが、私が舞鶴にいる頃、祖父が食事のときなど、海軍の戦艦、巡洋艦、駆逐艦の役割や艦隊勤務について、よく話してくれていました。祖父は、 二等巡洋艦「千歳」で日露戦争(1904~1905年)に参戦し、その後通報艦「千早」、戦艦「阿蘇」に乗艦しています。 その頃の艦上任務の話などが思い出されるシーンが映画中いくつもありました。
父が編集した祖父の従軍日誌については、当ブログの下記記事にアップしていました。
「水兵さんの遠洋航海」発刊のための(日誌)原稿の(清書)原稿
(注1) 駆逐艦「雪風」について
1939年に佐世保で進水。基準排水量2033トン、全長118.5メートル。最大速力は約36ノットで、230人以上が乗り組んだ。太平洋各地を巡り、空母などを失ったミッドウェー海戦では後方で輸送船団を護衛した。インドネシアのスラバヤ沖海戦、ガダルカナル島攻防の第3次ソロモン海戦、フィリピンのレイテ沖海戦のほか、戦艦大和が沖縄に向かった坊ノ岬沖海戦にも参加した。
戦後は復員船として13,000人の復員輸送の任務を果たしている。その中に、フィリピンラバウル島から浦賀に復員した水木しげる氏も含まれていた。雪風は、氏の作品『駆逐艦魂』に登場する「旋風(せんぷう)」のモデルになったとされる。
その後は戦後賠償船として中華民国(台湾)に引き渡され、台湾海軍の旗艦「丹陽」としても使われた。その後、1971年に解体され、主錨と時計が江田島に残されている(映画にも出てきます)。(関連HPから引用)
(注2) 映画「雪風 YUKIKAZE」のあらすじ
太平洋戦争中に実在した駆逐艦「雪風」の史実をもとに、戦中から戦後、さらに現代へとつながる激動の時代を懸命に生き抜いた人々の姿とその運命を、壮大なスケールで描く。さまざまな資料を基に映画オリジナルの登場人物として生み出された「雪風」艦長の寺澤一利を竹野内豊、乗員を代表して艦長との間をつなぐ「先任伍長」を玉木宏が演じる。(映画では「先任伍長」による艦内での風通しのよさのような役割が、負傷者が少なく無事な帰還を繰り返す要因として、強調されています。)
太平洋戦争下、数々の激戦を最前線で戦い抜き、ほぼ無傷で終戦を迎えた駆逐艦「雪風」。軽量で機動性に優れていることから、艦隊の先陣を切って魚雷戦を仕掛け、対空戦闘によって戦艦や空母といった主力艦を護衛するのが駆逐艦の役目であり、「雪風」は任務を果たしながら、幾多の戦場を生き抜いていく。そして、最後まで戦場に留まり、沈没する僚艦から海に投げ出された仲間たちを救助して帰還することも多く、時には敵兵にも手を差し伸べた。「雪風」は戦うために出撃しながらも、最後は必ず人を救って戻ってくることから、「幸運艦」「不沈艦」と称された。
「雪風」は80年前の夏、京都府北部の伊根湾で終戦を迎えた。太平洋戦争中の戦闘では出撃して沈むことなく帰還し、多くの戦闘で海に投げ出された兵員らの救助にもあたり、戦後も数奇な運命をたどり多くの命を救った。(映画.comより引用)
(注3) 終戦時の「雪風」
雪風は終戦直前の頃、舞鶴に寄港し、天橋立に面した宮津湾に停泊。7月30日、米軍による宮津空襲に遭い、近くにいた駆逐艦「初霜」は大きな被害を受けて座礁した。損傷した雪風は、潜水母艦「長鯨」が襲撃された湾北側の伊根町沖に移動。そのまま終戦を迎えた。
雪風は太平洋戦争の主力駆逐艦38隻の中で唯一終戦まで生き残った。(読売新聞評より引用)
2025年7月18日金曜日
映画「国宝」を観て
7/15には、雨天の中、近くのTOHOシネマ上大岡で、いま評判の映画「国宝」を観てきました。
この作品は、歌舞伎の世界を舞台に、戦後の混乱期に、逆境の中で女形という芸に人生を捧げた主人公 喜久雄(吉沢亮)が、大きな起伏を経て立花庄之助という人間国宝になるまでの50年を描く壮大な人間ドラマでした。(注)
ものものしいタイトルとともに上映時間3時間と聞いて、なんらかの重量感を期待しての入場でしたが、結果は、時間を感じさせず十分な手応えでした。
歌舞伎という芸の道の光と影、そしてモノではない芸の「国宝」という命の輝きとその影の葛藤の一面をよく伝えているように思いました。
庄之助の人生は、幼い頃から歌舞伎の道に足を踏み入れ、恵まれた才能を持ちながらも、常に芸の頂点を目指し続ける苦悩と喜びの連続でした。彼は、稽古に打ち込み、舞台に立ち、観客を魅了する中で、役者としての喜びを感じる一方で、古典芸能の継承と革新、師弟関係、そしてライバルとの競い合いといった、様々な重圧に直面します。彼が芸の道の厳しさを痛感しながらも、ひたすらに芸を磨き続ける姿が幾つかの逸話でコンパクトに表現されます。ここでは、共演の吉沢と横浜の演技が光っています。1年半かけてトレーニングしたそうです。
また、単なる歌舞伎役者の半生記に留まらず、庄之助を取り巻く人々との人間関係もよく描かれています。厳しくも愛情深い師匠(渡辺謙)、境遇は違いながらも互いに高め合う、同年齢のライバル(横浜流星)、幼馴染の女性、遊女、他との複雑な人間模様が、うまく織り込まれているな、と感じました。田中泯、寺島しのぶ、ほかの名脇役が効いたかもしれません。
さらに、映画全体を彩る映像美も破格で、大写しで切れの良いカメラワークが邦画離れしています。歌舞伎の舞台裏や、化粧、衣装、そして舞台上の所作の一つ一つが、丹念に、ダイナミックに描かれています。とくに、幾つか出てくる実際の歌舞伎の演目(曽根崎心中、二人道成寺、連獅子、二人藤娘、鷺娘など)のクライマックスシーンの映像もよく撮れています。音響もまた、歌舞伎特有の響きを忠実に立体的に再現しており、臨場感もよく再現されていました。
久々に、心地よい邦画の重量感を感じて、映画館を出ました。外国人にも通じるテーマであり十分理解できるので、邦画の国際的なよき成功例になってほしいと思います。
この日は、雨と映画で少な目の5,800歩コースでした。
(注) 映画「国宝」のあらすじ
映画『国宝』は、吉田修一の同名小説を原作とした作品で、歌舞伎界を舞台に、芸に人生のすべてを捧げた、境遇の異なる二人の男の対照的な生き様を描いています。
物語は、戦後の混乱期に九州の任侠の家で生まれ育った主人公・喜久雄(吉沢亮)が、抗争による親の死をきっかけに歌舞伎の世界に足を踏み入れ、天才的な才能を開花させていく過程を中心に展開します。彼は厳しい修行と舞台での経験を重ね、やがて「国宝」と称されるほどの名優となります。一方、喜久雄の同じ年齢の幼なじみであり、同じく歌舞伎役者として生きる俊介(横浜流星)は、喜久雄とは異なる価値観と葛藤を抱えながら芸を追求します。
二人の友情、競争、健康問題、そして芸に対する執念が、時代の移り変わりとともに交錯し、やがてそれぞれの人生の選択へとつながっていきます。伝統芸能の美と厳しさ、そして人間の業を描いた本作は、芸の道に生きる者の孤独と誇りを静かに、力強く映し出します。
監督は李相日で日系3世の韓国人、撮影のソフィアン・エル・ファニはフランス人で、ともに国際的な視点から日本の伝統芸能を捉え、美しく映像化しています。ある意味では、日韓仏合作映画かもしれません。175分。東宝配給。 (関連HPから引用・編集)
2025年5月13日火曜日
初めてのトルコ旅行 その10 ー隊商の宿とTV再放送「シルクロード」
少し遡りますが、4/25には、NHK「時をかけるテレビ」の一環で、1980〜1984年(昭和55〜59年)に30回に亘って放送された連続ドキュメンタリ「NHK特集 シルクロード 第2部」のひとつ「第15集 キャラバンは西へー再現・古代隊商の旅ー」を再放送していました。はじめて放送された時期にも番組の存在やシルクロードブームのことは憶えていますが、当時はあまり興味をもたず通り過ごしていました。そういうと舞鶴の実家にもこの番組のDVDが残っていました。両親も晩年の海外旅行でシルクロードにどこかで触れたのかもしれません。
番組では、シルクロード西側のバグダッドからユーフラテス川西側を北西に500Km程移動したところにあるシリア砂漠周辺の都市 ドゥラ・ユーロポス(隊商を守る城塞都市だったそうです)から砂漠中央にある隊商宿パルミラ サライに至るまでの230Kmの区間を地中海に向けて西に、古代から続いた隊商のスタイルで移動する、という古代隊商の再現番組でした。(キャラバン)サライは「隊商の宿」を意味します。半径500Kmの円形のシリア砂漠の約半分をラクダ212頭で隊商を編成し8日かけて移動します。
この再放送に興味をもったのは、この3月に経験したトルコ旅行の途中、トルコのアナトリア半島中央にある旧都コンヤで、かつての隊商宿跡を垣間見たことからでした。番組に出てくるパルミラサライはシリア砂漠の真ん中にあるものの、そのイスラム風の門壁などはトルコ旅行中コンヤで見たスルタンハヌ・ケルヴァンサライ(注)のものとそっくりでイメージが重なりました。
番組からうかがえる当時の隊商のイメージは以下のようなものでした。
・撮影当時では、ラクダは殆どが食肉用に飼育されており、すでに運搬用は皆無に近く、その40年前の1940年代にほぼ消滅していた。これは、自動車の普及とともに、ラクダを運搬用に使うと食肉としての肉質が劣ることにもよる。NHK取材・学術調査班(10人)はラクダを保有するベドウィンに隊商の再現を無理に頼み込んだとか。
・当時再現された隊商の構成は、先頭で200Kg/頭の荷物を担ぐオスのラクダ、それに続いて、そのほぼ二倍近くの数のラクダが連なって移動する。後続のラクダは、ほぼオスと同数のメスと同じく同数の子供のラクダ、それに続いて補充・訓練用のオスラクダで構成される。よく映像で映るのは先頭のオスラクダの隊列だけの場合が多いが、実際はラクダ家族の大規模な集団移動となる。途中でラクダを売買することもあった。
・移動中に隊列を整えるために牧童13人も歩いて加わる。従って、移動速度も人間並みになる。砂漠の中の移動では、牧童の誘導もあって、ラクダが慣れてくると、山登りと同様に、移動の効率性から自然と一列になる。(それにしても牧童の負担は大変なものだと思います。)
・ラクダは途中で草を食べられるようにラクダを繋ぐ綱は付けない。これによってラクダの移動中の餌は運ばない。このために途中で隊列が乱れないように牧童が歩いて随行する。ラクダは見かけによらず臆病で何か衝撃があるとすぐチリヂりに離散する習性がある。寝る時にもリーダ役のラクダだけは前足を縛る。
・メスの乳液は子ラクダにも随行する人間にも移動中の大事な水分源にになる。また、ラクダの糞も大切な燃料になる。
・歩幅の大きいオスには前後の足をロープで縛り周りの速度に合わせる工夫をしている。
・隊商は、5~6Km/時の速度で移動し、一日に5~6時間ほど、約25~36Km程移動する。このため、この間隔で大小の隊商宿(サライ)がある。(江戸時代の宿場町のようなもの。)
・ラクダには4~5日に一回水を飲ませる必要があり、ラクダは1回にドラム缶一個ほどの量を飲む。ラクダの移動距離に合わせて、砂漠の中でも100Kmの間隔で井戸が掘られている。中にはローマ時代のものもある。深さは25m程度でロバで繰り返し水を汲み上げる。井戸を守るために井戸ごとにその周辺にベドウィン家族がテントで住み、集落がある。 上記()は私の感想です。
お陰で、シルクロード、隊商や宿場のイメージが具体化し、いまさらながら現実味を帯びてきた次第です。4年かけてシルクロードを横断して映像化した世界ではじめての企画だったそうで、なかなか貴重な、骨太の映像だと思いました。以降の日本でのシルクロードブームの火付け役になったそうです。いまから思うと、この番組が初めて放送された1984年頃を想うと、バブル期ならではの番組だったのかもしれません。ふんだんな時間と費用がかかっています。
ただ、パルミラの遺跡は、後にIS(イスラム国)によってかなりが破壊されたそうで、その意味でも映像の価値は上がっているようです。
コンヤ訪問については、今年3月のトルコ旅行の下記の記事に様子を書いてアップしていました。
初めてのトルコ旅行 その3ーセルジューク朝旧都コンヤとシルクロード隊商宿跡
(注)スルタンハヌ・ケルヴァンサライ
トルコの旧都コンヤにある歴史的なキャラバンサライのひとつで、特に有名なのがスルタンハヌ・ケルヴァンサライです。このサライは1229年に建設され、オスマン朝以前のセルジューク朝時代の隊商宿で、なかでも最大規模のもの。コンヤと主要都市アクサライを結ぶ幹線上に位置し、交易の要所として重要な役割を果たした。
このサライは、厚い外壁に囲まれた堅牢な構造を持ち、中庭には礼拝所があり、周囲には食堂や宿泊施設、ラクダをつなぐ場所などが設けられている。(トルコサライ紹介HPから引用・編集)
2025年4月24日木曜日
ローマ教皇にまつわる映画「教皇選挙」と「ローマ法王になる日まで」
4/10には、2024年の米英映画「教皇選挙(Conclave )」を上大岡のTOHOシネマで観てきました。映画では、教皇が亡くなられ次期教皇の有力候補が4人いてそれぞれに問題があり、1度目の教皇選挙の投票では2/3の必要獲得数を超えた候補はいなくて翌日の再投票に。投票用紙は燃やされ、未定は黒い煙、決まれば白い煙がのぼって人々に知らせます。繰り返される投票の間にも様々なスキャンダルが明らかになり意外な結末になります。映画のなかの前教皇はフランシスコ教皇をモデルにしたような改革派として描かれ、その改革的な施策が教皇選挙での次期教皇の選考にも影響するというシナリオでした。
その後4/21には、第266代ローマ教皇フランシスコが88歳で亡くなられ、4/26に葬儀が行われ、5月上旬にも教皇選挙が始まると報じられました。英国の小説を原作としたフィクションの世界とはいえ、ドキュメンタリ映画のように淡々と表現された、外部と遮断されたバチカンの密室(システィーナ礼拝堂)で繰り返される教皇選挙が、これからリアルに行われるかと思うと、興味がそそられます。
14億人のカトリック教徒を率いる新教皇にどのような人物がどういうプロセスを経て選ばれるのか、前教皇の、清貧を重んじ、問題を抱える現地を訪ね難民や貧困層などの社会的弱者に寄り添う姿勢や他の宗派、イデオロギーなどへの寛容な対話姿勢、反戦の必要性を説く姿勢、などがどう引き継がれるのか、が問われるとのこと。投票権のある世界中の枢機卿135人(80歳未満が条件とか)、また教皇庁内部には、12年の在位中のリベラルな改革に批判的な考えもあるそうですから。
フランシスコ教皇といえば、2019年の伊映画「ローマ法王になる日まで」(注1)が思い出されます。アルゼンチンのロック好きの青年ベルゴリオが、2013年に史上初の南北米大陸出身のローマ法王になるまでの激動の半生を、事実に基づいて再現したなかなか重々しい観応えのある社会派の映画でした。
フランシスコ教皇が亡くなられてから様々な追悼報道で伝えられる在位中の行動は、映像からうかがえる範囲ではありますが、それまでの自らの過酷な生い立ちから得られた考えを貫かれた、ありのままの姿勢だったようにも思えました。
なお、フランシスコ教皇は在位中に37回の旅をされ53カ国を訪れたそうです。旅する教皇に密着して撮影し制作された2022年の伊映画「旅するローマ教皇」というドキュメンタリ(注2)も残されています(私は見逃していました)。
このように、在位前、在位中、退位後と、それぞれで映画に近く、ご自身が意図されたかどうかは別にしても「映画になりやすい教皇」、「映画に好かれる教皇」という面もおもちだったようです。いち映画ファンとしては、映画というメディアを通しても教皇を知ることができ、大変に有難いことでした。
(注1) 映画「ローマ法王になる日まで」
2013年3月、コンクラーベのためにバチカンを訪れたベルゴリオ枢機卿は、運命の日を前に自身の半生を振り返る――。1960年、ブエノスアイレス。大学で化学を学んでいたホルヘ・マリオ・ベルゴリオは、神に仕えることが自分の道と確信し、イエズス会に入会し35歳の若さでアルゼンチン管区長に任命される。だがこの時期は、ビデラ軍事政権による独裁政治の時代。多くの市民が反勢力の嫌疑で捕らえられ、ベルゴリオの仲間や友人も、次々と命を奪われていく。この苦難の時代こそが、後にローマ法王に選出されるにベルゴリオの信仰の強さや勇気を、より強固なものにしていった。彼が愛した人々、彼を支えた人々と織りなす壮絶なドラマが描かれる。(映画.comの紹介記事から)
(注2) 映画「旅するローマ教皇」
難民問題と紛争に苦しむ中東やアフリカ、そして米国では平和について語り、イスラム教を国教とするアラブ首長国連邦や、被爆国である日本も訪問、さらにカトリック教会で起きた性的虐待について謝罪する姿も記録する。(同上)
2025年4月10日木曜日
初めてのトルコ旅行 その9 ーシルケジ駅と映画「オリエント急行殺人事件」
4/6には、NHK BSで英国映画「オリエント急行殺人事件」が放送されました。1974年版で(最近では2017年のリメイク版もあります)、昭和世代にはかつて観た懐かしさもあって楽しめました。被害者の米国実業家(実はマフィアのボス)役のリチャード・ウィドマークが西部劇以外に出演した映画として、また国際性のある配役による、意外で巧妙な事件シナリオとして、当時話題になった記憶があります。
物語の出発点として映画の始めに出てくるオリエント急行のアジア側ターミナルのシルケジ駅(Sirkeci)が目に留まりました。当時の駅舎の様子や周辺の市街地の様子を映像で見ながら、先月にそこを訪ねたときの光景を思い出しました。イスタンブールの旧市街、トプカプ宮殿の西隣、金角湾をまたいで新市街と結ぶガラタ橋の南側麓近くにあるトルコ風で堂々とした駅舎でした。
この3月中旬にトルコを訪問し、最後にイスタンブールに着いた日に、いまのシルケジ駅を訪ね、駅舎内のレストランで昼食をとりました。
もともとオリエント急行は、パリとイスタンブールを結んでヨーロッパを横断する長距離夜行列車でした。 1883年に運行を開始し、豪華な内装と一流のサービスで「動く宮殿」とも称されるほどだったそうです。その後一時は廃止されましたが、観光列車として復元され、今では、ロンドンとベニスを結んで運行されているとか。
現在のシルケジ駅には、当時の豪華列車のイメージはうかがえませんが、タイル造りの駅舎の一部が保存されていて、いまは国内鉄道や市内の地下鉄メトロの駅として使われていました。駅舎内の一部はレストランとしても活用されています。欧州では、旧市庁舎、古城などをレストランとして再利用しますが、その流れなのでしょうか。日本でももっと増やしてもよい利活用法かもしれません。因みに、地元でも旧横浜市役所庁舎はホテルとして活用されると報じられています。
このすぐ奥がレストランでした。
2025年3月14日金曜日
初めてのトルコ旅行 その1ーチャナッカレ戦争とトロイ遺跡
3/5〜3/12にはトルコ西側を巡ってきました(機中泊2泊の5泊8日でした)。羽田からイスタンブールへはトルコ航空直行便21:45発で13時間40分(時差-6時間)航行し、到着が翌3/6 早朝5:25です。久々の長時間移動で長い一日でした。年齢とともに時差には鈍感になるそうですが、このところ、そんな感じはします。
今回、行き残しを減らす海外旅行の中でトルコ(注1)を選んだのは、以下のようなことがありました。現在の中東問題の原因の一つには、第一次世界大戦の戦勝国となった英仏国の中東での委任統治の結果、地元勢力を必ずしも反映しない新たな国境が設定されたことがあります。その後、国民国家主義の広がりとともに、国境設定の矛盾が民族間、国家間の紛争を起こしています。ただ、第一次大戦での敗戦国のオスマン帝国は、自身は中央アジアから渡来した遊牧民でイスラム教徒でありながら、大戦前600年間、ルーツが同じユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗派(イスラム教では「啓典の民」というそうです)を平等に共存させ大きな問題もなく統治してきた(オスマン主義)、といわれています。このオスマントルコの今を、遅まきながらその一端でも直に覗ければと、この旅を選びました。
身内の不幸もあり何回か繰り延べていましたが、今回は、トルコの位置するアナトリア半島の西半分を西端から左回りに5つの世界遺産を巡る、なかなか印象的な旅でした。
(1)チャナッカレ
イスタンブール空港から専用バスで6時間半、280Km南西方向に移動します。途中、欧州地区の最南端のゲリボリ半島を南下しダーダネルス海峡にかかる「チャナッカレ1915橋」を渡りアジア地区の最西端のチャナッカレにたどり着きました。トルコでは、他にも、ボスポラス海峡を渡る「マルマラ0715橋」という記念碑的なネーミングの橋もあるようです。また、トルコでは鉄道網の整備が遅れているようで、高速列車YHTが首都アンカラの南北にだけ運航しているそうです(イスタンブールーアンカラーコンヤ間)。従って、国内線空港も多く高速道路も整備されていて、長距離の国内移動は飛行機かバスでの移動になります。今回のツアーでは最終日のイスタンブールへの戻りだけが国内航空便でした。
この地域は、第一次大戦中の1915〜1916年に、イスタンブール占領を目指した英連邦(オーストラリア軍とニュージーランド軍が中心でした。英海軍大臣のチャーチルが立案したとか)と仏の連合国軍の上陸作戦のあった「チャナッカレ戦争」(注1)の現場です。ここで、同盟国の、末期のオスマン帝国とドイツが迎え撃ち、連合国に勝利しました(チャーチルは失脚したそうです)。しかし、結果的には、同盟国は大戦の敗戦国になります。その後の終戦処理のなかで(ローザンヌ条約)、チャナッカレ戦争での戦果を契機・原動力とした祖国解放戦争(1919〜1922年)によって、トルコは長期的な国土の占領、分割を免れ、オスマン帝を廃位し(1922年)、トルコ人によるトルコ共和国を樹立(1923年10月29日。建国記念日とのこと)しています。一連の戦いを、後にトルコ共和国の初代大統領になるムスタファ・ケマル・アタテュルクが指揮しています(アタテュルクは「トルコの父」の意味の敬称だそうですが、訪問中もよく耳にしました)。このような意味でも、チャナッカレ戦争は、双方で25万人の戦病死者をだす、現代のトルコ人にとっては重要な大戦争だったようです。また、この戦争は陸・海・空三軍の総力がを結集した大規模上陸作戦として世界初だったとか。
チャナッカレからみダーダネルス海峡。
対岸はトルコの欧州エリアで手前は
アジアエリアです。右奥先がマルマラ海、
その先がにボスポラス海峡になります。
マルマラ海の中央にあるマルマラ島では
大理石が多く獲れるそうで、神殿や家屋に
多く使われています。地元でも高価だ
そうです。
トルコで初めての昼食。タイのソテイとのこと。
今回の旅行中、魚が肉になったりはしますが、
他にコメのオリーブ炒め、揚げたりペーストに
したポテト料理、ソーセージやチーズなどの
添え物がつくというパターンは同じでした。
この前に出るスープもマメ、野菜、コーンなど
多彩でした。比較的軽い昼食習慣のようです。
(注1)トルコの国連での呼称変更
トルコ政府は、国名表記を「Turkey(ターキー)」から「Türkiye(テュルキエ)」に変更するよう国連に要請、国連がこれに同意し、2022年6月1日に国連における国名表記が変更された。
(注2)チャナッカレ戦争(西欧では、ガリポリ作戦)
ダーダネルス海峡に臨む港ガリポリ(現ゲリボル)は,クリミア戦争時に要塞が築かれて以来,軍事的要衡であった。第一次世界大戦中の1915年4月と8月,イギリス,フランスの艦隊がこの地に上陸し,ドイツ,オスマン軍を攻撃した。激しい攻防戦が繰り広げられたが,オスマン軍の守りは堅く,英仏軍は16年1月に撤退した。(山川 世界史小辞典より引用)
(2) トロイ遺跡とトロイの木馬
そこからエーゲ海沿いに30分程南下しトロイ遺跡を訪ねました。トロイ遺跡の歴史は下記(注3)の通りですが、ホメロス(ギリシャ生れではなくアルメニア人(トルコ人渡来前)の抒情詩「イリアス」に出てくる伝説上の都市が1870年にドイツのシュリーマンの執念によって発見されたという異色の遺跡です。しかも、紀元前3000年から3500年の間に、都市の盛衰が繰り返され9つの時代の都市層(第1〜9市層)が重なっていることが発見されたそうで、これまたユニークです。今回ツアーで最初の、歴史と重量感のある世界遺産でした。チャナッカレ戦争から5000年程年代を遡るところがこれまた一興です。
遺跡に着くと入口に大きな「トロイの木馬」が建っています。これはギリシャ神話で語られるトロイ戦争の伝説にでてきます。トロイ戦争は、紀元前1200年にギリシャ連合軍とトロイア王国の間で20年間に亘り行われました(注4)。 因みに、ツアーガイド(トロイ生れで地元のチャナッカレ大学出身だそうです)によると、今でもギリシャとトルコは、宗教や領土で対立してきており、近年のキプロス問題も含めて長年難しい関係だとか。静かなエーゲ海も、近くで見聞きすると、思った以上に波高しのようです。
当時、トロイア軍と戦っていたギリシャ軍がトロイア市内に巨大な木馬を持ち込ませ、ボース島に退却したあとに残した木馬の中にまさか敵兵が潜んでいるとはトロイア軍は疑わず、夜襲を受けて陥落したそうです。
今では「トロイの木馬」というと、情報セキュリティの畑では、攻撃対象のコンピュータに常時潜ませるタイプのウィルスを意味しますが、分かりやすいよいネーミングとあらためて思いました。
この日は、バス移動が多く、9,800歩コースでした。
トロイア軍は気づいてもよさそうなものですが。
この辺りは赤松が多く植えられています。
この木馬もイダ山オリンホスの森の松の木で
作られたとされるそうです。松林ではいまも
ヤギが飼われ松茸栽培や養蜂も行われているとか。
(注3)トロイ遺跡
トロイ遺跡は、トルコの北西部に位置する歴史的な遺跡で、ギリシャ神話のトロイア戦争の舞台となった。紀元前3000年頃から西暦500年頃までの9層にわたる古代都市の遺跡が発見されている。トロイ遺跡は、1870年にドイツの考古学者シュリーマンによって発掘された。彼は私財を投じてトルコのヒサルルクの丘を掘り起こし、都市遺構や数々の財宝を見つけ出した。遺跡の入口には、トロイの木馬のレプリカが置かれている。(紹介記事から)
(注4)トロイ戦争とトロイの木馬
トロイ戦争は、ギリシャ神話における有名な戦争で、紀元前12世紀頃に起こったとされていまる。この戦争は、ギリシャ連合軍とトロイア王国の間で10年間に亘り行われた。その原因は、ギリシャ スパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーがトロイアの王子パリスに誘拐されたことにあった。ヘレネーは絶世の美女であり、彼女を巡る争いが戦争の引き金となった。
「トロイの木馬」伝説では、戦争の最終局面で、ギリシャ軍の知将オデュッセウスが考案した「トロイの木馬」の策略が成功したとされる。巨大な木馬の中に兵士を隠し、トロイア市内に持ち込ませることで、ギリシャ軍退却後の夜襲でトロイアを陥落させた。トロイア王国はギリシャ連合軍に敗北し、都市は破壊された。
トロイ戦争は、ホメロスの叙事詩「イリアス」や「オデュッセイア」に詳しく描かれており、古代ギリシャの文学や文化に大きな影響を与えた。(紹介記事から)
2025年3月1日土曜日
これからの古書店
先日2/25には、近くのミニシアタ シネマ・ジャック&ベティで、今どきの古書店事情の一面を捉えた映画「本を綴る(つづる)」を観てきました。映画にでてくる書店のロケにも実在する古書店が使われているとか。いまは苦戦する古書店ですが、次第に古書店のネット化が進み古本の所在が横断的に検索できるようになり、それをネットで取り寄せる、というスタイルが始まろうとしています。これからは、ある意味で、公立の図書館とは別に「草の根の分散型の図書館」とでもいうのでしょうか。この映画が目に留まったのは、これからの古書店の一端をのぞいてみたいと思ったことがありました。
この映画は、2021年に東京都書店商業組合が開設したYouTubeチャンネル「東京の本屋さん 街に本屋があるということ」で、全国の書店への取材を基に製作した配信ドラマ『本を贈る』をベースに、その後を描いた2024年のロードムービーでした。
全国の本屋を回ってその良さを紹介するコラムや本の書評の執筆を生業にする小説家を描いています。ダム建設が一旦決まっていながら途中で工事が中止となったために廃村になったままの福井県の村をモデルにした自分のベストセラー小説のために、モデルになった村民からの強い反発を受け、その後小説を書けなくなった小説家が、書店の旅、本屋を介した人との繋がりや再会を通して、書けなくなった理由に向き合い、立ち直っていく様が軽妙に描かれています。那須の山中の書店で見つけた古本に挟まれたまま送られなかった恋文をきっかけに、京都、高松、品川などを巡る旅行紀でもあります。
主人公の小説家がはじめたのが、書店の廃業などで居場所を失った本を扱う、ワンボックスカーを使った「移動古本店」でした。また、この小説家が書き始めたのが、本屋を兼業する気候変動に強い野菜農家など環境問題をテーマにした小説と絵本でした。この帰結も作品の冒頭に暗示されています。(注)
新刊本ではなく古本でしかない、本の繋がり、それによる人のつながり、がうまくコンパクトに表現されたよい作品と思いました。そういうとサブテーマも「本の居場所。人の居場所」でした。また、スポンサも東京都書店商業組合で、古書文化の応援作品でもありました。
因みに、このシネマ・ジャック&ベティでは、館内修繕のためのクラウドファンディングで目標額(3,000万円)を達成したそうで、心なしか館内随所が整備され綺麗になっていました。
この日は、帰りに伊勢佐木町を関内までゆっくりと回り、7,500歩コースでした。
(注) 詳しくは、映画.comやこの映画の公式サイトで紹介されています。

2025年1月25日土曜日
初めての奄美大島その2ー東シナ海と高倉とウミガメ
1/23、1/24には、奄美大島北東端の龍郷町(りゅうごう)にある奄美自然観察の森、中央部東側の奄美市大浜海浜公園に出かけました。
この日は、最高21°Cで、前日が地元での彼岸桜の開花日だったとか。大寒とは思えない、上着もいらない天候です。ここの施設の入口で今年初めての桜を観ました。
東シナ海に面した2か所の海岸には、毎年ウミガメが産卵におとずれる場所のひとつだそうですが、産卵する個体数は年々減ってきているとのこと。
奄美で印象的なのが、高倉式の建物が多いことです。人気の黒糖焼酎の名前(奄美大島酒造)でもありますが。「高倉」とは、案内によると以下の通りで、南洋のイメージがします。
南方より奄美大島に伝わった穀物倉で、屋根裏が倉になっています。足柱が高いのは、雨や台風が多いことから、風通しを良くし湿気を防ぐためで、丸柱にしてよく削り磨いてあるのはネズミが上まで登れにようにするためです。また、火災や台風に備え、下の横棒を抜いて倒せるように1本の釘も使われていないことも、高倉の大きな特徴です。
ここの奄美海洋展示館では、保護されたウミガメが飼育、展示されており、アオウミガメ、アカウミガメ(この2種が殆ど)、タイマイの3種が見られるそうで、大きい順です。アオは甲羅が平らで茶色やオリーブ色(アオイのは脂肪層だとか)で食性は植物性、アカは甲羅は厚く起伏のある心臓形、食性が動物性とか。タイマイは茶色の小型で甲羅はべっこうにも加工されるそうです。
南洋植物では、ヒカゲヘゴが北限だそうで、山地の斜面や谷間などで見ます。また、デイゴ、ポックリヤシ、バショウも見かけますが、街中の蘇鉄は貝殻虫の被害を受け枯れた木を多く、対策が必要なようです。
高倉式の休憩所
そうです。奄美自然観察の森入口にて。
千年鯛。千年に一度獲れるかどうかという
くらい珍しい鯛、とのこと。
ヒカゲヘゴ。奄美大島が生息の北限だそうで、
移動中にもよく見かけます。沖縄、台湾、
フィリピンが原産とか。「ゼンマイおばけ」
とも呼ばれるそうで、春先に見るゼンマイのくる
くる丸い幼葉がヒカゲヘゴの上に幾本か出るのも
見ます。その兆しがこの木でも丸い膨らみとして
みえます。
高さ7~8mまで育ち日影を作ります。奄美
中部の金作原原始林では見上げるヒカゲヘゴ
が見られるそうですが、今回はお預けです。
ヒカゲヘゴの幹は細い根が多数絡み合ったもの
で(葉根)、空気中から水分を吸収するそうです。
茎には落葉した葉のつけ根のあとが小判のように
残り、蛇腹模様を作ります。
浜木綿(はまゆう)も見かけました。
保護されたアオウミガメとのこと。奄美海洋
展示館にて。
すぐ下が龍郷町の街並みで、その一角に
西郷南洲流謫跡(注)があり、西郷隆盛が流されて
3年間暮らした家が残されているとか。右手前が
龍郷湾、右奥が奄美クレータ、左奥が笠利湾、
その奥は太平洋です。先回投稿の倉崎海岸は
中段に張り出す岬の裏側になります。
龍郷町の写真右隣りでは、東シナ海岸と
太平洋岸が750mと近接した箇所があり、
「二つの海の見える丘」から展望できるとか。
今どきのパソコン用TVチューナー -4代目の調達-
先日7/28には、パソコン用USB接続テレビチューナーを新機種に交換しました。パソコン(PC)でテレビ(TV)を視るためにPCのUSB端子に接続する簡易なTV信号変換器です。ここ20年程、居間とは別に自分の書斎でもTVを視たり留守中に録画したりするために利用し重宝してきました。...
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長く地元で行きつけの飲み屋のひとつになっていた「養老の滝 蒔田店(まいた)」が29年間の営業を3/20で終了することになったことを知りました。市営地下鉄蒔田駅前に入居するビルの取壊し計画が具体化したこととコロナ禍以降の諸物価の値上がりで経営が急速に厳しくなったことが原因だそうで...
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先日、舞鶴に帰省の折に、空き家がうまく活用されている例を見かけました。 JR東舞鶴駅の駅前通りである三条通りに面する築100年になる空き家を改装し、古民家「涼庵」の屋号で地元の陶芸作家 高井晴美さんによる陶器の展示会が行われていました。涼庵での初めてのイベントだったとか。 高井...
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11/30-12/2には。二泊と短期ですが、主に入院中の弟の見舞いに郷里の東舞鶴に帰省しました。12/1朝には小春日和に誘われて自転車で東舞鶴海岸の前島界隈を私なりのいつものコースで一巡してきました。この日は、前島埠頭での小鯵釣りが当たり日だったようで、皆さんよく釣れていました...





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