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2026年9月15日火曜日

舞鶴実家跡の活用の開始 その6

 
舞鶴実家跡の5階建マンション建築が進行する様子を、舞鶴在住の姉から9/3、9/12、9/15時点の写真として着々と送ってもらっています。感謝です。
先回記事 (下記その5) にあるように、8月末までには地下の基盤、基礎工事はほぼ終了し、9月に入ってからは、地上の建物の建設が急ピッチで進められています。
どうやら鉄筋コンクリート造りではなく木造壁板を柱代わりにして建てる工法のようです。大型クレーンが入り足場や木造壁板の束を次々と運び込み積み上げています。
9/15時点では、1階の間取り工事がおおよそできているようで、中央の通路の右側に一見小さな部屋が多く並びワンルームマンションのようにも見えます。推測ですが。
これから2階、3階と工事が進むと見込まれ、もうしばらくウォッチを続けたいと思います。

《 9月3日の様子から 》


大型クレーンが入りました。左側の2軒の建物の中間が実家跡地で工事用足場のような鉄鋼枠が設置されています。右側道路が表通りの四条通りです。(姉撮影の写真引用。以下同様)

工事用足場の敷設工事です。木造壁板を繋ぐ結合材でしょうか。

大型トラックで運ばれてきた鉄鋼材が次々と現場に運び込まれています。右奥は八島商店街のアーケードです。

舞鶴実家跡地活用の建築工事現場全景


《 9月12日の様子から 》

木造壁板の束が次々と現場に運び込まれます。木造壁板を柱代わりにして建てる工法のようです。2~3階建の木造住宅ではこの工法が多く見られますが、このような5階建マンション建築にも適用されるようです。空の鰯雲に季節を感じます。


《 9月15日の様子から 》


1階の間取りの工事が進んでします。中央に通路があり右側が区分住宅のようです。

因みに、8/27までの建築現場の様子を、当ブログに下記のように記事をアップしていました。

舞鶴実家跡の活用の開始 その5


2026年9月2日水曜日

舞鶴実家跡の活用の開始 その5

 郷里舞鶴四条にあった実家跡地の活用事例として、8/27時点での5階建マンション建設の様子が姉から届きました。この地区の変化に繋がりビジネスとしてもうまく回ってほしいという思いから、他所事ながら気になり様子見を続けています。
前回(同上その4、下記) 地下の基礎工事段階で林立していた鉄骨が役割を終えたのか、間取りの壁の部分だけになり短くなっています。これから一階ごとに積み上げていくようです。また、表(写真手前)の四条通り側はエントランスか駐車場のスペースのようにも見えます。
そのうち分かるのでしょうが、段々と間取りが単身者向きなのか、家族向きなのか、その組み合わせなのか、にも興味が出てきます。この区域の長期的なコンパクトシティ化志向なら家族向けの間取りでしょうし、当面の回転の速い顧客がターゲットなら単身者向けのワンルームになるように思います。数年前お世話になった地元の不動産業者が駅前に建てられたのは確か5階建てのワンルームマンションで竣工直後全室埋まったと言われていました。
もうしばらく工事の推移を見守りたいと思っています。

先回には8/8時点の工事現場の様子を下記のように当ブログにアップしていました。

舞鶴実家跡の活用の開始 その4

舞鶴実家跡地の建設現場の四条通りからの様子。
敷地の北側です。鉄筋が間取りの境界だけに立っています。
(姉撮影の写真引用、以下同様)

同敷地中央です。

同敷地南側です。

地下の基礎工事が終わった段階の舞鶴実家跡地の全景です。

2026年8月22日土曜日

親父譲りのフェルト帽と舞鶴での同窓会

立秋が過ぎてもまだ35℃を超す猛暑日が続く今年の夏です。
この夏には、ついつい親父譲りの夏向きのフェルト生地のフェドラ帽を、涼し気なところに惹かれよく使いました。舞鶴の実家を整理する際に、親父が使っていた様々な形の10個ほどの帽子を横浜に持ち帰りました。しばらくは余り使うこともなかったのですが、年齢もあってか、最近は、帰省や墓参り、法事など親族の行事、舞鶴や関東での中高の同窓会などには機会をみて敢えて使うようにしています。写真奥のべージュの帽子には内側に「59.5」と墨で書かれ1959年5月に購入したようです。舞鶴の実家では新調した物についてはすぐに購入日付と名前、住所を大き目に書く習慣がありました。置き忘れた時の紛失の予防です。67年経つわけですが(2/3世紀です)作りもしっかりしていてまだまだ使えそうです。フェルトは羊毛、ラビットなどの獣毛を縮絨させた不繊布、麻やストローなどの編地を指し、フェドラは頭頂部(クラウン)の前後に走る中央のくぼみが特徴の中折れ形の帽子を指すそうです。しばらくは途中でうっかり亡失しないようにして、先代からの遺品として大事に使いたいと思っています。
話が少々変わりますが、8/21には出身高校の同期の同窓会を舞鶴で行うとの電話連絡がありました。
10/21マーレで計画している18期の同窓会の案内ハガキが宛先不在で返ってきているが、出欠を知らせてほしい、とのことでした。慌てて確認したところ、旧住所(港南区笹下)に送られていて不在となったようでした。すぐに出席と返答しました。これまでの同窓会などの連絡ではこのようなことはなく、経緯を聞くと、どうも長く名簿管理をしてくれていた幹事が急逝し、パソコン内の名簿ファイルの最新版が見つからず引継ぎができなかったようでした。80歳近くにもなるとこんなことも十分に起こりうるので常々大事なモノ/コトは複数人で共有しておく必要があるな、とあらためて思った次第です。この同窓会にも、親父譲りの帽子をかぶって参加しようと考えているところです。


フェルト生地を使ったフェドラ帽。
生地はまだまだしっかりしています。今夏には左側のアイボリの帽子をよく使いました。頭頂部が中折れ形でなく平らで丸くなるとカンカン帽と言われます。フェドラは仏国の芝居の名前だそうで主演の女性が初めて使った帽子の型に由来しているとか。

2026年8月10日月曜日

路上のアブラゼミとクマゼミ

 8/9には、最寄りのバス停に行く途中で歩道に仰向けに最期を迎えたアブラゼミを見かけました。よく7年間土中で成長し地上で鳴くのは7日間、と言われます。地上でも子孫を残すとこのように生涯を終えるそうです。例年この時期によく見かける光景ですが、今年はいつもよりアブラゼミの声を聞くことが少なかったように感じます。
先日も報道で知りましたが、近年都市部でのアブラゼミは減少傾向にあり、暑さに強いクマゼミの勢力圏が拡大しつつあるそうです。 (詳しくは(注)参照)
故郷の舞鶴で子供の頃にはアブラゼミに比べてクマゼミは珍しく、希少な存在でした。クマゼミは体格もよく黒っぽい透明の羽で、なんとなく風格を感じ、子供ながらに獲るのが憧れでした。林の中でよく通る鳴き声を聞くといつも虫取網の届かないはるか高いところに悠々ととまっている「高嶺の蝉」でもありました。たまに獲れた時には子供仲間でも自慢のタネだったように覚えています。
虫の世界でも近年の天候や人間の生活スタイルの変化などの影響で勢力図が変わってきているようです。アブラゼミからみると虫騒がせで、はた迷惑な話かもしれません。
また、最近頻繁に人里に出没する山中の大動物の世界だけでなく小さな蝉の世界でも、と思えてくるのも世相でしょうか。
そこで、一句、
昼下がり仰向けの蝉空を抱く
ひとり蝉仰向けのまま風を聴く

属するインターネット句会で俳句仲間の六川さんの句が写真にはピッタシで引用させていただきます。

油蝉搾り出してるはみがき粉


役割を終えたアブラゼミの最期。真っ白い腹が印象的です。

(注)今年の関東でアブラゼミが少なく感じられる背景について(関連HPの記事を引用・編集)

関東の都市部でアブラゼミが少なく感じられるのは、都市部で続いている長期的な減少傾向の延長線上にある現象で、2026年の関東でも同様の傾向が確認されています。主な原因は 都市の乾燥・高温化(ヒートアイランド化)とクマゼミの分布拡大による勢力図の変化です。

・アブラゼミが減っている理由(関東の都市部)
1. 都市の乾燥化
アブラゼミの幼虫は湿った土壌を好みますが、都市部ではアスファルト化で雨水が浸透しない公園の土壌が踏み固められ乾燥するこれにより幼虫が生育しにくくなり、都市部での減少が顕著になっています。
2. 猛暑・ヒートアイランド化
アブラゼミは極端な高温に強くなく、真夏の日中は鳴き止む性質があります。近年の都市部の高温化は、アブラゼミにとって過酷な環境となり、個体数減少の要因になっています。
3. 人工光による夜間活動の乱れ
東京都・神奈川県の調査では、都市部のアブラゼミが夜間にも鳴き続ける例が確認されています。
これは人工光による体内時計の乱れで、繁殖行動に影響している可能性があります。

・クマゼミによる主役交代の理由
1. 関東でのクマゼミ増加推移
ウェザーニュースのここ10年のデータでは、神奈川:+8.6% 東京:+5.9% 千葉:+5.5% 茨城:+4.1%と、クマゼミの存在感が着実に増加しています。
2. 植栽移動による幼虫の移動繁殖
クマゼミは自力で移動できるのは半径約1.2km程度で広範囲を移動できません。しかし街路樹の移植の際に、根に付いた幼虫が一緒に運ばれることで分布が急拡大したと考えられています。
3. 都市環境への適応力の高さ
クマゼミの幼虫は体が大きく力が強いため、硬い・乾燥した地面でも地上に出られ都市環境に適応しやすい、という特性があります。

2026年8月9日日曜日

舞鶴実家跡の活用の開始 その4

 8/8の舞鶴の実家跡地のマンション建設現場の様子が姉から届きました。
早いもので一階部分の基礎ができており間取りがうかがえます。
一筋隣(三条通り)の友人が先代から相続し売却した敷地にも10年ほど前にマンションが建ちました。もともと先代が歯医者でした。この近辺には、町のコンパクト化もあってか、マンションや、観光客のほかに近くの火力/原子力発電所の定期保守の関係者が多く長期で利用するホテルが増えています。
元々八島商店街を中心とした商業区域でしたが、駅前の住宅区域に様変わりしそうです。


マンション建設現場の右側。正面奥は三条通り沿いの京都銀行東舞鶴支店です。
現場の敷地の前を左右に四条通りが走ります。

同中央
同左側。建物の左側(南側)の隣地との境界地に何か地下埋設設備を設置するのでしょうか。数m掘られています。

2026年7月28日火曜日

舞鶴実家跡の活用の開始 その3

 7/26での舞鶴実家跡地での5階建てマンション建設工事の様子が姉から届きました。第3報です。
はやいもので杭打ちが始まって1月足らずで縦横の鉄筋建が進行中のようです。
隣地との境界ギリギリに建物が建ちます。ここは商業地域だったこともあるのでしょうか、隣地境界線と建物のスペースは最近の住宅地とは違って狭いようです。 

 
舞鶴実家跡の様子から。工事右側
です。姉から届いた写真をそのまま
引用させてもらっています。

工事左側です。マンションの
地下1階の駐車場の工事のように
見えます。

2026年7月19日日曜日

舞鶴実家跡の活用の開始 その2

 先日、郷里の舞鶴四条にあった実家跡地での建築工事の進捗として7/8と7/14の現場写真が姉から届きました。 岩盤への杭打ちが終わり、別の重機2機が入って建物(5階建てマンションとのこと)の基礎工事が始まったようです。深さ5m程にコンクリートの基盤を打っているとのこと。他所事ながらしばらくは様子を見守りたいと思っています。 


7/14でのコンクリート基礎工事。大きな重機の
ほかに小さなパワーシャベルも入っています。

7/8の舞鶴四条の工事全景

(参考)舞鶴四条にあった実家の面影から
2024年3月に、建物内の内装品や残置物の整理、処分を終え、建物の取壊しに取り掛かる直前の様子を、当ブログに下記の記事をアップしていました。

舞鶴実家の取壊し工事開始 ー残置物処理がほぼ終了ー

また、その前の2016年8月には実家の前の四条通りから北の東舞鶴港の岸壁方向を見た以下のようなスケッチを残していました。10年前のこの時期は空き家になった実家や墓の今後を色々と考えている頃でした。今から思うと懐かしい風景です。

取壊し工事直前の実家と四条通りの朝の様子
から。終戦まで祖父が洋服店をしていたことで
以前には1階の道路側を店舗に貸していました
が、家屋が築76年と古くなりこの頃から空き家
でした。
中庭から

四条通り。正面奥が東舞鶴港。
前島に係留中のボートが見えます。
左手前から3軒目が実家です。

八島商店街(絵の中段辺りを左右に走ります)
のアーケード。四条通り左側に見える2つの
看板のうち手前の丸二金物店は今も健在
ですが、奥の愛知旅館は今は閉店しています。

2026年7月3日金曜日

舞鶴実家跡の活用の開始

 4/2には舞鶴の姉から実家跡地の建設工事が始まった、との連絡がありました。
ここには5階建てのマンションが建つ予定だそうです。
この土地は昨年6月に地元の不動産会社に売却し、その買主さんが1年経って着工されました。
売却した時の仲介会社によると、最近舞鶴では、人口減に備えて駅周辺に町の機能や居住を集約するコンパクトシティ化が進んでおり、ここもJR東舞鶴駅に近いことから、その住替え需要を見てのビジネスとみれる、そうです。この土地は海に近く地盤が柔らかいので、20m程の杭を数10本打つ工事が必要になるとのこと。完成は来春に間に合うかどうかで、昭和40年頃から変わらなかったこの一画の光景も大分様子が変わりそうです。
この工事がこの地区の新しい局面を開くきっかけのひとつになればと、期待するところです。


舞鶴の実家跡地に5階建マンションの建設
工事が始まりました。(姉撮影の写真を引用)

2025年12月18日木曜日

ある墓じまいのこと

 12/13午後には、郷里の舞鶴にある得月寺の墓地内の一区画の墓じまいの法要を本堂で親族が集まって行い、ようやく一区切りがつきました。
ここに至るまで3年ほどかかったように思います。墓じまいの一つの事例に過ぎませんが、手探りで直接に関わったことからその大まかな流れを振り返ってみました。
墓碑の生い立ちと墓じまいの経過は以下の通りです。
(1) 昭和3年(1928)5月、初代に当たる私の曾祖父の妻(曾祖母)の死去(昭和2年7月)に伴い二代目にあたる祖父により墓碑と休み石が建設されました。今年が建設97年目になります。
(2) 昭和40年(1965)5月、三代目にあたる父により、戦死した自身の弟の供養と先祖供養のための石灯篭2基とそれまでに埋蔵した霊を刻字した墓誌が建てられました。 それまでお盆には、竹竿で四角の枠を組み木製で障子貼りの灯篭をぶら下げて使っていましたが、石燈篭に変わりました。
(3) その後、新たな逝去者が出るたびに遺骨を埋蔵し、墓誌にはその戒名等を逐次刻字してきました。この墓碑には、初代から三代目まで全部で10体の本骨が埋蔵されています。
(4) 令和5年頃から今後の墓碑の管理について現世代に合った墓碑の管理の仕方を親族で、また墓地管理者のご住職とも相談してきました。ご住職とは3度くらいこの件でお会いしました。その結果、令和7年11月、これまでの墓碑を墓じまいし、遺骨を得月寺永代供養墓(合同墓)に本骨として改葬することにしました。さらに、一部を分骨し、私の現住所に近い横浜市営 日野こもれび納骨堂にも12月末に納骨することにしました。 日野こもれび納骨堂は3年前の開設時に一区画を30年契約で賃借しています。
(5) この背景には、私や親族が年齢や居住地が遠いことで、持続的な墓碑の管理が難しくなってきたという檀家側の事情とともに、お寺さん側も、墓地が山の急斜面の中腹にあるため昨今の大雨でいつ崩れるかもしれないという恐れがあり、被害を事前に回避するために、代替わりや遠隔居住などの事情のある檀家については、別の場所への早目の改葬などを勧めておられるところでもありました。
(6)この墓じまいの考え方と段取りを存命の親族(すでに叔父叔母は逝去し従兄弟や甥姪になります)に訪問したり、書簡を通じて説明してきました。
(7) 関係者の了解を得て、令和7年10月に舞鶴市に改葬・分骨許可申請をし、2週間後の同月末に許可証が送付されてきました。申請には、墓地管理者である得月寺の承諾が必要になります。
(8) 許可を受けて、ご住職に紹介された地元の石材店により、11月1日に墓石の取壊し・撤去工事が行われ、納骨室(カロート)から先祖の遺骨を取出し、本骨と分骨に分けて2つの骨壺に収めました。石材店では、1週間ほどかけて乾燥させます。
(9) 令和7年12月に、親族が集まり今回の改葬・分骨に伴う先祖供養法要を得月寺で行いました。祭壇には2つの骨壺が並んで置かれます。
(10) 本骨は永代供養墓に近くご住職によって納骨されます。また、分骨は私が横浜の自宅に一旦持ち帰り、年末に日野こもれび納骨堂に家族で納骨します。

上記の段取りは、ご住職からも「今回は「フルコース」ですね」、と言われましたが、一般には同じ檀家寺あるいは別の寺への改葬だけ、分骨だけ、というのが多いようです。
郷里から離れて居住し、現世代もそうですが次の世代による墓守、墓参りが難しい場合の墓じまいの一つの事例かと思っています。
昨年令和6年6月には実家の取壊し・撤去工事を行いましたが、この墓じまいで長年の背中の荷物をひとつ下ろしたようなところです。 

 

改装・分骨前の先祖の墓碑。いまは
更地になっています。


改葬後に納骨する永代供養墓。これからは
先祖の墓参りはこの墓碑と本堂内に置かれた
位牌(これは改装前と変わりません)になります。

2025年12月14日日曜日

東舞鶴の見所スポット半日巡り

 12/13午前には、先祖供養の法要の為に久しぶりに舞鶴に来た息子親子に東舞鶴の見所を半日コースで案内しました。
この日巡ったのは、引揚記念公園(引揚記念館は会館前でした)からの引揚げ桟橋の眺望スポット、五郎ヵ岳展望台からの舞鶴港の俯瞰スポット、舞鶴東港のクルージング「海軍ゆかりの港めぐり遊覧船」(キャッチコピーから)、赤レンガパークの赤レンガ倉庫、赤レンガ博物館、でした。この他には、飛鳥時代に創建され西国三十三所第二十九番札所の真言宗 松尾寺(まつのおでら)、紅葉と五重塔が評判の鹿原(かわら)の金剛院、などが挙がります。
このようなことでもないと地元民はこれらのスポットを回ることはありませんが、久し振りに巡ってみると、それぞれに観光地化しているなと感じました。また、各所で多くの地元シニアボランティアが日頃の観光客受入れをさり気なく支えているようにも感じました。引揚記念館のボランティア活動は希望者が多いと聞きます。ここまでは海外のインバウンド客は来ていないようです。
この日は、10,800歩コースでした。

因みに、2023年3月にこの引揚記念館の展示が東京駅前でも行われたことがあり、当ブログに下記のような記事をアップしていました。

舞鶴引揚記念館・平和祈念展示資料館 合同展示ーシベリア抑留の記憶をつなぐー

また、文中の松尾寺と金剛院については、2023年10月の訪問記事を当ブログに下記のようにアップしていました。

松尾寺:
西国33か所巡礼第29番札所 青葉山松尾寺

金剛院:
舞鶴 鹿原の金剛院


<舞鶴引揚記念公園・引揚桟橋>


クレインブリッジ(鶴の橋)。この先にある
関西電力の火力発電所建設のための工事用
道路の一部として造られました。2羽の
鶴が飛び立つ様を表しているとか。この日は
好天で波が静かでした。

望郷慰霊之塔。引揚記念公園のシンボルです。

引揚げ桟橋の一部(当時は左にもっと長くあり
ました)。終戦から昭和33年まで13年間に66万人
のシベリア、満州、朝鮮からの引揚者がここ
あった引揚援護局での検疫と入国手続きを受けて
全国に帰還しました。すぐそばに引揚者の遺品
などを展示する引揚記念館があります。全国に
あった引揚港の中で最後まで受入が続きました。

引揚に因んだ歌「異国の丘」と「岸壁の母」の
歌詞が刻まれています。もう一つ田端義夫の
「かえり船」もありました。これらはいつの間にか
私のカラオケ定番にもなりました。また、これらは
私にとっては、舞鶴小唄、舞鶴風流音頭、軍艦マーチ
とともに郷里のご当地「民謡」です。

引揚桟橋の奥にはべニア板工場が今も健在で、
いつもながらの煙を出していました。林べニア
産業舞鶴工場です。その右奥には車のガラスを
造る日本板硝子の舞鶴事業所があります。

<五郎ヵ岳展望台>


舞鶴東港全景。奥は若狭湾で、左下は「国際
物流ポート」で市が肝いりで開発中です。

舞鶴西港側。ここでも雲が低く垂れ下がって
います。湾上に雲海ができる兆しです。
中段左端は丹後富士(建部山)です。

中央奥は関西電力の舞鶴(高性能)火力発電所。

<舞鶴東港クルーズ>


掃海艇「はつしま」と「あいしま」。
魚雷探知のために磁気に反応しない木製とか
繊維強化プラスチック(FRP)製の胴体とのこと。
近々木製胴体艇は引退とのこと。

多用途支援艦「ひうち」。小さいながら
艦隊には必須の存在だそうです。背後は
補給艦「ましゅう」です。13隻で構成される
舞鶴艦隊の最小艦と最大艦の取り合わせです。

補給艦「ましゅう」。護衛艦中では最長で
年間の出港期間も長い艦だとか。

新型護衛艦「やはぎ」と「あがの」。少ない乗員で
運航できるとか。こちらも人手不足のご時世です。

ヘリ空母「ひゅうが」。この日はJMU(ジャパン
マリーンユナイテッド)舞鶴工場で修理中でした。

クルーズではクレインブリッジにも立ち寄ります。

海上自衛隊舞鶴地方総監部 北吸(きたすい)
桟橋。海自では一番長い桟橋とのこと。背景
正面中央の山頂には五郎ヵ岳展望台が見えます。

この日は在籍13隻のうち12隻が停泊中とか。
珍しいそうです。左手前が補給艦「ましゅう」、
中央は護衛艦「みょうこう」、「あたご」、
「ふゆづき」

舞鶴港のクルーズ船です。この日は手前の後部
座席に搭乗しました。

<赤レンガパーク
:赤レンガ倉庫と赤レンガ博物館>


赤レンガの博物館としては日本唯一だそうです。
近くでレンガが作れることも水の確保とともに
明治期の軍港(鎮守府)指定の要件だったとか。

赤レンガ博物館二階窓から。右の2隻は
掃海艇です。

赤レンガの歴史、製法、組上法などが
丁寧に展示されています。

明治から軍港物資の保管に使われた赤レンガ
倉庫。明治期の映画のロケ地だそうです。
 

2025年12月12日金曜日

舞鶴の今どきの旬魚と舞鶴東港

 12/11に東舞鶴入りし、お寺さんと法要の段取りなどを打合わせた後に、近くのスーパーで、今どきの季節の魚を見かけました。
つばす については、丹波、丹後、若狭地方をはじめ主に関西での、ブリの成長に伴う名前の変化の一つです。サイズを目安として、幼魚(約20cm以下)ツバス、若魚(約30~40cm)ハマチ、中型魚(約60cmまで)メジロ、成魚(約80cm以上)ブリ と出世します。関東では、ツバスはワカシで、以降イナダ、ワラサ、ブリだったと思います。私も関東での呼び名の違いにはじめしばらく混乱しました。
冬の舞鶴で今一番の旬魚はやはりブリです。親からも以下のようなことを聞かされてきました。冬の舞鶴で、活きてブルブルするブリを魚河岸で仕入れ、新聞紙で包んでぶら下げて持参するのが一番の贈答品で地元で有難がられる、と。現に父親がそうしていたのに同伴した記憶があります。
12/13には、舞鶴東港に雲が低く漂っていました。この時期気象条件によって湾上にできる雲海の兆しのようにも見えます。

因みに、ニギスについては2024年3月に、当ブログに以下のような記事をアップしていました。

舞鶴の今時の旬 ー背甲(せいこ)ガニとニギス(似鱚)

また、雲海について、隣県福井の越前大野城周辺にできたとの報道を本年11月4日に当ブログの記事にしていました。

越前大野城が天空の城に



干しニギス。似キスとも書きハマギスに似た
(沖キス)、との意味とか。(写真以上に)半透明で
新鮮そうな生干しです。焼き網で焼いて食べたい
ところです。

左上から真鯛、石鯛、左下から真鯵、
イトヨリ鯛、ブリの幼魚つばす2本、大きな
カワハギ。いずれも舞鶴港産。カワハギは
刺身でもパック詰めされており、早速に
ホテルで試食。さっぱりしてコリコリした
懐かしい味でした。

いまどきはカレイの種類が多く出ます。
左2列が小浜港産の真かれい、右が黒ひれかれい。

ウルメイワシの丸干し。カタクチイワシの
とはちょっと違い味が淡白です。

12/13の前島沖。雲が低く垂れ下がっています。
この時期湾上に雲海のできる兆しでしょうか。

12/14の東舞鶴港。いつもの光景です。
沖合に停泊する船が多い日です

大船の初秋とヒョウタン展 ー萩と彼岸花そして瓢箪ー

 9/15には、雨天の合間に大船フラワーセンターの萩や彼岸花などの初秋を見に久々に出かけました。 園内中央には萩(ミヤギノハギ)の株が並ぶ横に長いエリアがあります。まだ二分咲きでしたが、赤紫色の蝶型の花を穂状に付け、穂が風にうねるように揺れて咲く様は風情があります。このことから「...