7/26での舞鶴実家跡地での5階建てマンション建設工事の様子が姉から届きました。第3報です。
はやいもので杭打ちが始まって1月足らずで縦横の鉄筋建が進行中のようです。
隣地との境界ギリギリに建物が建ちます。ここは商業地域だったこともあるのでしょうか、隣地境界線と建物のスペースは最近の住宅地とは違って狭いようです。
舞鶴実家跡の様子から。工事右側
です。姉から届いた写真をそのまま
引用させてもらっています。
工事左側です。マンションの
地下1階の駐車場の工事のように
見えます。
7/26での舞鶴実家跡地での5階建てマンション建設工事の様子が姉から届きました。第3報です。
はやいもので杭打ちが始まって1月足らずで縦横の鉄筋建が進行中のようです。
隣地との境界ギリギリに建物が建ちます。ここは商業地域だったこともあるのでしょうか、隣地境界線と建物のスペースは最近の住宅地とは違って狭いようです。
舞鶴実家跡の様子から。工事右側
です。姉から届いた写真をそのまま
引用させてもらっています。
工事左側です。マンションの
地下1階の駐車場の工事のように
見えます。
先日、郷里の舞鶴四条にあった実家跡地での建築工事の進捗として7/8と7/14の現場写真が姉から届きました。 岩盤への杭打ちが終わり、別の重機2機が入って建物(5階建てマンションとのこと)の基礎工事が始まったようです。深さ5m程にコンクリートの基盤を打っているとのこと。他所事ながらしばらくは様子を見守りたいと思っています。
4/2には舞鶴の姉から実家跡地の建設工事が始まった、との連絡がありました。
ここには5階建てのマンションが建つ予定だそうです。
この土地は昨年6月に地元の不動産会社に売却し、その買主さんが1年経って着工されました。
売却した時の仲介会社によると、最近舞鶴では、人口減に備えて駅周辺に町の機能や居住を集約するコンパクトシティ化が進んでおり、ここもJR東舞鶴駅に近いことから、その住替え需要を見てのビジネスとみれる、そうです。この土地は海に近く地盤が柔らかいので、20m程の杭を数10本打つ工事が必要になるとのこと。完成は来春に間に合うかどうかで、昭和40年頃から変わらなかったこの一画の光景も大分様子が変わりそうです。
この工事がこの地区の新しい局面を開くきっかけのひとつになればと、期待するところです。
12/13午後には、郷里の舞鶴にある得月寺の墓地内の一区画の墓じまいの法要を本堂で親族が集まって行い、ようやく一区切りがつきました。
ここに至るまで3年ほどかかったように思います。墓じまいの一つの事例に過ぎませんが、手探りで直接に関わったことからその大まかな流れを振り返ってみました。
墓碑の生い立ちと墓じまいの経過は以下の通りです。
(1) 昭和3年(1928)5月、初代に当たる私の曾祖父の妻(曾祖母)の死去(昭和2年7月)に伴い二代目にあたる祖父により墓碑と休み石が建設されました。今年が建設97年目になります。
(2) 昭和40年(1965)5月、三代目にあたる父により、戦死した自身の弟の供養と先祖供養のための石灯篭2基とそれまでに埋蔵した霊を刻字した墓誌が建てられました。それまでお盆には、竹竿で四角の枠を組み木製で障子貼りの灯篭をぶら下げて使っていましたが、石燈篭に変わりました。
(3) その後、新たな逝去者が出るたびに遺骨を埋蔵し、墓誌にはその戒名等を逐次刻字してきました。この墓碑には、初代から三代目まで全部で10体の本骨が埋蔵されています。
(4) 令和5年頃から今後の墓碑の管理について現世代に合った墓碑の管理の仕方を親族で、また墓地管理者のご住職とも相談してきました。ご住職とは3度くらいこの件でお会いしました。その結果、令和7年11月、これまでの墓碑を墓じまいし、遺骨を得月寺永代供養墓(合同墓)に本骨として改葬することにしました。さらに、一部を分骨し、私の現住所に近い横浜市営 日野こもれび納骨堂にも12月末に納骨することにしました。 日野こもれび納骨堂は3年前の開設時に一区画を30年契約で賃借しています。
(5) この背景には、私や親族が年齢や居住地が遠いことで、持続的な墓碑の管理が難しくなってきたという檀家側の事情とともに、お寺さん側も、墓地が山の急斜面の中腹にあるため昨今の大雨でいつ崩れるかもしれないという恐れがあり、被害を事前に回避するために、代替わりや遠隔居住などの事情のある檀家については、別の場所への早目の改葬などを勧めておられるところでもありました。
(6)この墓じまいの考え方と段取りを存命の親族(すでに叔父叔母は逝去し従兄弟や甥姪になります)に訪問したり、書簡を通じて説明してきました。
(7) 関係者の了解を得て、令和7年10月に舞鶴市に改葬・分骨許可申請をし、2週間後の同月末に許可証が送付されてきました。申請には、墓地管理者である得月寺の承諾が必要になります。
(8) 許可を受けて、ご住職に紹介された地元の石材店により、11月1日に墓石の取壊し・撤去工事が行われ、納骨室(カロート)から先祖の遺骨を取出し、本骨と分骨に分けて2つの骨壺に収めました。石材店では、1週間ほどかけて乾燥させます。
(9) 令和7年12月に、親族が集まり今回の改葬・分骨に伴う先祖供養法要を得月寺で行いました。祭壇には2つの骨壺が並んで置かれます。
(10) 本骨は永代供養墓に近くご住職によって納骨されます。また、分骨は私が横浜の自宅に一旦持ち帰り、年末に日野こもれび納骨堂に家族で納骨します。
上記の段取りは、ご住職からも「今回は「フルコース」ですね」、と言われましたが、一般には同じ檀家寺あるいは別の寺への改葬だけ、分骨だけ、というのが多いようです。
郷里から離れて居住し、現世代もそうですが次の世代による墓守、墓参りが難しい場合の墓じまいの一つの事例かと思っています。
昨年令和6年6月には実家の取壊し・撤去工事を行いましたが、この墓じまいで長年の背中の荷物をひとつ下ろしたようなところです。
改装・分骨前の先祖の墓碑。いまは
更地になっています。
12/13午前には、先祖供養の法要の為に久しぶりに舞鶴に来た息子親子に東舞鶴の見所を半日コースで案内しました。
この日巡ったのは、引揚記念公園(引揚記念館は会館前でした)からの引揚げ桟橋の眺望スポット、五郎ヵ岳展望台からの舞鶴港の俯瞰スポット、舞鶴東港のクルージング「海軍ゆかりの港めぐり遊覧船」(キャッチコピーから)、赤レンガパークの赤レンガ倉庫、赤レンガ博物館、でした。この他には、飛鳥時代に創建され西国三十三所第二十九番札所の真言宗 松尾寺(まつのおでら)、紅葉と五重塔が評判の鹿原(かわら)の金剛院、などが挙がります。
このようなことでもないと地元民はこれらのスポットを回ることはありませんが、久し振りに巡ってみると、それぞれに観光地化しているなと感じました。また、各所で多くの地元シニアボランティアが日頃の観光客受入れをさり気なく支えているようにも感じました。引揚記念館のボランティア活動は希望者が多いと聞きます。ここまでは海外のインバウンド客は来ていないようです。
この日は、10,800歩コースでした。
因みに、2023年3月にこの引揚記念館の展示が東京駅前でも行われたことがあり、当ブログに下記のような記事をアップしていました。
12/11に東舞鶴入りし、お寺さんと法要の段取りなどを打合わせた後に、近くのスーパーで、今どきの季節の魚を見かけました。
つばす については、丹波、丹後、若狭地方をはじめ主に関西での、ブリの成長に伴う名前の変化の一つです。サイズを目安として、幼魚(約20cm以下)ツバス、若魚(約30~40cm)ハマチ、中型魚(約60cmまで)メジロ、成魚(約80cm以上)ブリ と出世します。関東では、ツバスはワカシで、以降イナダ、ワラサ、ブリだったと思います。私も関東での呼び名の違いにはじめしばらく混乱しました。
冬の舞鶴で今一番の旬魚はやはりブリです。親からも以下のようなことを聞かされてきました。冬の舞鶴で、活きてブルブルするブリを魚河岸で仕入れ、新聞紙で包んでぶら下げて持参するのが一番の贈答品で地元で有難がられる、と。現に父親がそうしていたのに同伴した記憶があります。
12/13には、舞鶴東港に雲が低く漂っていました。この時期気象条件によって湾上にできる雲海の兆しのようにも見えます。
因みに、ニギスについては2024年3月に、当ブログに以下のような記事をアップしていました。
12/11には、墓じまいに伴う先祖供養の為に郷里の舞鶴に帰省しました。
その途中、京都で新幹線から舞鶴直行の高速バス(京都交通)に乗り換えます。その間に、時間が取れれば、いつも寄る関西風うどん店があります。「麵屋」という大阪、神戸、京都近辺のチェーン店のようですが、味はしっかりしていて、ニシンうどん(これは旨かったです)やきつねうどん、ちくわ天うどん、朝定食などが私の定番でよく所望します。私には関西はいつもうどんで、讃岐うどん程堅くはなく大阪風にほどほどの堅さのうどんでした。ここ40年くらい帰省のたびに、ここで、関東モードから関西モードに切り替えたような記憶があります。
ところが今回もいつも通り店に行くと閉店になっていて移転案内が出ていました。これまで30,31番線のホームのすぐ手前にありましたが、50mほど離れたやや人通りの多い区域に移ったようです。
早速、新店の味を試してみることにして、朝麺定食を注文しましたが、味は昆布だしが効いた醤油の薄味で、もとのまま変わらず安心しました。店構えは前と同じ感じで店の広さはやや小さくなりましたが店員も変わり小さく再スタートしたようです。こちらも世代交代でしょうか。
この日は、8,500歩コースでした。
因みに、2023年4月に帰省した折の、ここの記事を当ブログに下記の通りアップしていました。
10/31-11/2には、墓じまいのために舞鶴に帰省しました。
このところ諸手続きもあり結構頻繁に帰省しています。
10/31の秋の冷雨の中、翌日の墓碑取壊し工事の前に最後の墓影を撮影しておきたいと思い、墓地に出かけました。気になっていた墓石の刻印などの撮影を行い、見納めとしました。
翌日11/1には朝0830から工事が始まり10時には墓石は取壊し・撤去され更地になりました。工事に当たっては、東京から駆け付けてくれた従兄弟と一緒に終始立会い、来られなかった親族の分を含めて見納めをしました。墓は簡単な石の構造物ですが(御影石と安山岩とのことでした)、親族の多くの思いを長年積め込んで、人の記憶にはその何倍も重く大きなものなのだとあらためて感じました。工事では、墓石は小さく砕かれ隣県の高浜に移送さ許可されたところに集積されて土に還ることになります。
取り上げた先祖の遺骨 本骨10体は、石材業者によって一旦乾燥され12/13に予定しています檀家寺の得月寺での永代供養墓への納骨(改葬・分骨)に伴う先祖供養法要に備えます。
なお、工事に先立ち、舞鶴市に提出していた改葬・分骨許可申請に対して、10/27付けで改葬・分骨許可証が自宅に届きました。正式には、この許可証を受けて業者は着工することになります。実際には、寺と合意できていれば、この手続きを踏まないケースも多いようです。
そこで、一句、
秋霖や百年越しの墓じまい
墓じまい想い連なる神無月
これで、親族への説明や檀家寺のご住職との相談から始まり、ここ3年くらいかかった墓じまいも、これで一連の段取りが半分くらい終わったことになります。半分肩の重荷を下ろしたように感じます。
その翌日11/2は、東舞鶴ではだるま祭りや地元三宅神社の子供神輿の日だったようで、いつになく街が賑わっていました。
また、前島埠頭では休日の好天だったこともあり多くの釣り客がでており、何もなかったのように、この時期いつも通り子アジ(豆アジ)のサビキ釣りが大漁でした。
この日午後には、地元の友人にも昼食会で経過を報告し、帰路につきました。
先日7/28には、パソコン用USB接続テレビチューナーを新機種に交換しました。パソコン(PC)でテレビ(TV)を視るためにPCのUSB端子に接続する簡易なTV信号変換器です。ここ20年程、居間とは別に自分の書斎でもTVを視たり留守中に録画したりするために利用し重宝してきました。...