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2026年3月5日木曜日

大坂城梅園

 3/4には属する産業用ドローンの普及団体(JDC)のセミナーが企画され、その応援に大阪堺筋本町に出かけました。 セミナー参加者の紹介で、今の時期のこの近辺での見所は大坂城の梅園と聞き、翌日3/5の帰路、大坂城を久々に訪ねました。森ノ宮駅⇒青屋口⇒梅園⇒玉造口⇒森ノ宮駅の、天守をはずして梅園だけを巡るショートカットコースの散策でした。途中随所に蕾を膨らましている桜の木を見かけました。大坂城は梅園以上に桜の名所でした。お堀の内外では梅園を大幅に上回る規模の桜園が想像できます。
ここの梅園はまだ新しく、大阪府立北野高校の卒業生が創立100周年記念に22品種880本の梅の苗木を大阪市に寄付したのがきっかけでここが整備され昭和49年3月(1974年)に開園したそうです。品種ごとに早咲き、中咲き、遅咲きが区分され、きちんと管理されています。今は105種1245本が植えられており、早咲から遅咲きまで12月下旬から3月中旬まで広々としたしかも植栽の密度の高い梅園の開花が順に続くとか。
短時間でしたが、前日までの雨模様とはうって変わって朝から絶好の観梅日和に恵まれ、大阪でも梅を満喫しました。
この日は、22,600歩コースでした。よく歩きましたが物珍しさのためかあまり気になりませんでした。

園内には105種1245本が植栽されています。
低木の若木も多く手入れもよく立派な
梅園です。
 
国内で最大の花をつける種「武蔵野」。
5cmにもなる花をつけます。


  
梅園全景

場内には大坂城豊国神社も。
今年の大河の主役秀長の兄者です。


豊国神社前にある「南無阿弥陀仏碑(蓮如上人
六字名号碑)」。大坂城築城前にここにあった
大阪(石山)本願寺の証跡とのこと。ここが
蓮如上人を中心にした浄土真宗の拠点であり、
信長と蓮如の石山合戦までは一大宗教都市で
した。大阪の地名も蓮如上人の手紙「御文書」
が歴史的な発出だとか。余り目立ちませんが
真宗徒には聖地です。本願寺はここから幾つかの
都市を経て京都に移されました。
梅林越しの大坂城正面


森ノ宮駅のすぐ前にある噴水広場に入ると
早々に大阪城天守閣が望めます。久々です。
  
梅園南端から
天守閣に通じる桜門。今回は時間がなく
残念でしたが入場を諦めました。

2025年11月5日水曜日

越前大野城が天空の城に

11/5朝のNHKニュースで、その前日早朝に福井の越前大野城が雲海に浮かび天空の城になったことが伝えられ、その映像が放送されていました。2019年5月にツアー旅行で越前の桜巡りに行った際に、大野城を訪ねたことを思い出しながら素晴らしい眺めに驚きました。たまたまこの時の大野城のスケッチを手元に残していました。
10月から4月末頃にかけて、とくに11月頃が最も「天空の城 越前大野城」が出現する頻度が高い雲海のシーズンといわれているそうで、その通りの情景でした。しかも最頻月にも2〜4回/月の早朝にしか観られないレアモノだとか。
地元大野市のHPによると、天空の城は以下のような気象条件が重なった時に出現する非常に稀な現象だそうです。ここ数日でも納得できる理屈です。

・前日の湿度が高いこと (前日に雨が降った日など)
・前日の日中と翌日朝方の気温差が大きいこと (放射冷却現象が起こるような日)
・風が弱いこと

一度は実際の風景を観たいところですが、HPには、見物客に「過度な期待は禁物」とあります(笑)。
山陰地方には他でもこのような一面の雲海の現象は起こります。故郷の舞鶴から近い兵庫県朝来市和田山町竹田(あさくし)にある竹田城(大分の竹田城とは別物です)、天空の城ではありませんが海岸沿いの小峰 五郎ヶ岳から見下ろすリアス式の山並みが雲海に浮かぶ舞鶴港でもたまに観られます。 なかなかの美景です。


まさに天空の城になった越前大野城。
海抜249mの亀山に建つ平城です。
西1Kmの犬山城から。 TVもこのような
映像でした。
2019年4月にここを訪ね春の大野城を
スケッチしていました。平地の市街から
ここまで結構上ります。

自然のままの荘厳なシーンです。

2025年6月17日火曜日

半蔵門での写真展

 6/15には、半蔵門駅近くのJCIIビルで開催中の、写真仲間の属する教室の写真展を訪ねました。この日が最終日でした。
「散歩の合間に2025」とコンセプトの明確なレベルの高い写真展でした。3~4枚の組み写真で15名が出展されていました。絶妙のテーマで、作者のイメージするテーマが写真に具象化され、1枚ずつの出展より、多面的に強く伝わります。写真になにやら喋らせるのが写真撮影、現像・レタッチのテクニックだそうですから。なかなかその域まで行きませんが。
会場は、元(財)日本写真機検査協会(現(財)日本カメラ財団:JCII)の中の地下ホールでした。輸出カメラの検査を一手に引き受けて品質維持・向上をはかる団体の拠点でした。この団体では、検査のかたわら、1969年から日本の歴史的カメラを認定し、保存する事業も行ってきたそうです。1989年には、数千台を超える所蔵カメラをベースに隣のビルに「日本カメラ博物館」が設立されて一般に公開されました。この日は、昭和100年を記念した「昭和のカメラ物語ー第一部:1926-1954ー」展が開始中で、戦前、戦中、戦後の激動の時代をカメラでたどっていました。ライカに追いつけ、追い越せで技術開発を加速したようです。大いに参考になりました。次の企画タイトルは「なにがスゴイの このカメラーカメラのスゴイを展示ー」だそうです。今の展示も、なかなか密度の高い、よく考えられたしっかりした展示です。
また、ここでは、来る度にJCIIビル内に他の写真展も催されており、参考になります。この日には「片岡順一作品展 飛翔の詩」で、航空機の写真のオンパレードでした。片岡さんは幼少期から飛行機が大好きでJALのパイロットをされながらよい写真を多く残されたそうです。大型航空機の撮影は、それだけでも写真の一分野で、流し撮りなどのテクニックとともに重量感とスピード感、飛行中の空気の揺らぎ、などをどう表現するかがテーマです。
帰路、久々に内堀(半蔵濠)に出て皇居の半蔵門近くを巡ってきました。北に行くと桜の時期に来た千鳥ヶ淵になりますが、この日は南に御堀沿いを散歩しました。半蔵門への通路はゲートで閉じられています。ここは皇居の西端に位置し吹上御所に近いため、皇室の方々の通用門としてだけに使われているそうです。愛子様の通勤時には開門するとか。警備の警察官に聞くと、その方でさえ門内に入ったことはなく、内は宮内庁の警備になり警視庁の管轄外だそうです。

この日は、10,400歩コースでした。


写真展  第9回「散歩の合間に2025」

日本カメラ博物館入口。乾板式の原型。写真館で
昔使われていた、かすかな記憶があります。

日本カメラ博物館では「昭和のカメラ物語」
展を開催中でした。

半蔵門。通常は閉門中とのこと。手前には
装甲車が停車しています。

手前が半蔵濠です。ここから左に内堀沿いを
北に15分程歩くと千鳥ヶ淵になります。
左手前には広い敷地に英国大使館がありますが、
そのエリアが再開発中で大型クレーンが何台も
稼働中でした。

半蔵門全景

2025年2月5日水曜日

南九州の旅 その5ー知覧の武家屋敷と外城制度


 1/30午後には、知覧町の武家屋敷をも巡ってきました。江戸期の薩摩藩で採られていた外城制度(とじょう)の一端を観ることができました。地元に移住してきた女性の市会議員さんの案内でした。
薩摩藩は、領地を外城と呼ばれる113の地区(地区は3~5の村からなります)に分けて、地頭や領主の屋敷である御仮屋(おかりや)を中心に麓(ふもと:後に郷と言われたとか)と呼ばれる武家集落をつくり、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせました。知覧もその外城の一つでした。このため、藩主のいる鹿児島の鶴丸城(内城、鹿児島城)は簡素な造りでした。一方で、武士(郷士)は半農半士が多かったそうです。今でいうと、複業の武士集団による地域分散統治社会ということになります。
このため他藩に比べ武士の人口比率が高かったそうです(薩摩藩26%,全国平均は6%)。幕府からも一国一城の方針に反し睨まれていたようですが(幕府の外様制度は、外城制度の全国版です)、薩摩藩は「武士の多さと南九州の土地の生産性の低さ」を理由に弁解しているとのこと。武士が多いのは「かつて島津氏が九州を制覇した頃の武士人口をその後薩摩藩に引き入れた。一箇所に住めないので分散して居住している」としたそうです。城は無くしても軍事組織はそのまま残し、「人をもって城となす」という政策をとったとか。
この外城制度は、対外的には、中央政権との対決に備えるもの、対内的には、農民統治、一揆対策、琉球や奄美などの大きな離島の統治などに役目を果たした、そうです。
これも、ゆくゆく薩摩藩が思想的、政治的、軍事的、人材的に倒幕のエネルギーを自律的に備蓄する一因になったように、あらためて思いました。歴史小説でも、薩摩藩の郷では、子どもの頃から先輩が後輩を指導する習慣が根付いていた、という話は記憶にあります。
今も残る7つの武家屋敷には、立派な庭があり、一般市民がいまも生活されているそうです。大変な地域貢献だと思いました。
短い小旅行でしたが印象深い旅でした。これで、奄美大島に次いで、またひとつ行き残しを減らしたように思いながら、鹿児島空港から帰路につきました。


佐多直忠庭園。多くが枯山水の庭園です。
佐多氏は、ここの地頭だったとか。

平山克己庭園

武家屋敷の町並。正面の細い通路が
建物間の生活道路だったそうです。

佐多美舟庭園。知覧庭園の中で最も豪華な
庭園とのこと。後ろの生垣は借景とか。

武家屋敷は石垣と生垣で綺麗に
区切られています。

門から建屋は防衛上直接には進ませない
そうです。玄関門の造りにも格式による
違いがあるようです。

池泉式の森重堅庭園。池泉式はここだけ
でした。大きな庭石は殆ど2つに割れて、
それを重ねています。それは、切出場で
2つに割って運んだそうです。

2025年2月1日土曜日

南九州の旅 その1ー飫肥(おび)城址


 1/28~30には南九州のツアー旅行に出かけました。1/29早朝に大隅半島南端の志布志港(しぶし)にフェリーで上陸し、宮崎県日南市、鹿児島県鹿児島市桜島、指宿市、南九州市知覧町、霧島市を巡る小旅行です。この区域もこれまでに来る機会がなかったところです。ただ、今回は鹿児島市周辺を回り、鹿児島市内はまた別の機会にすることにしました。
飫肥(おび)城址は、戦国時代の九州平定期の島津氏との長い争いを経て、天正16年(1588)から明治初期まで280年間14代続いた伊東氏5万1千石の居城のあったところだそうです。伊東氏は伊豆の伊東に由来する家系だそうです。城郭については詳細の資料が残っておらず、相当する時代の他の城郭や屋敷の造りから再建されたとか。大名屋敷「松尾の丸」や大手門、藩校「振徳堂」、城下町の商家などが資料館として、酒谷川に三方を囲まれた広い地区ごと保存されています。江戸期を思わせる町並みが地元の方々の協力によってよく管理され残されています。本丸跡は、飫肥小学校として活用されているのも、地元の子供たちに母校の歴史を意識させる現実的な方法と思いました。


大手門内の苔むす巨木。歴史を思わせます。

飫肥は小村寿太郎の生地で、飫肥城前の記念館
では、日露戦争を終結したポーツマス条約
締結時の全権大使としての記録が保存されて
います。
飫肥城大手門

大手門脇の巨木が印象的でした。

大名屋敷「松尾の丸」。参勤交代に使われた
御用船などしっかりと保存されています。

伊東家の旗印と鎧。松尾の丸にて。

地元特産の飫肥杉が城内外の随所で
見られます。

南九州には志布志港に南大阪港から懐かしの
サンフラワー号で入りました。船中泊です。
いまは三井商船MOLが運航しています。船頭
左側から運搬車両が出入りします。

2024年7月13日土曜日

平成の大修繕後の姫路城

  スケッチの先生の故郷での個展を観るために相生(兵庫県)に向かう途中、姫路に途中下車し2泊して(姫路は山陽本線で相生の4駅手前です)、7/10には姫路城を訪ねました。
姫路城は、2009〜2015年に平成の大修繕が行われました。その期間中に一度ここを訪ねたことがあり、大きなテントに包まれた天守閣を拝観して残念に思った記憶があります。工事途中の2011〜2014年には、周りに足場が造られ一部が公開されて工事中の様子をすぐそばから拝観ができるようになっていましたので、私は、その臨時の拝観設備のできる前の2009〜2011年に来たようです。当時、修理中の拝観ができるという案内をみて、その頃にもう一度姫路を訪ねたいと思った記憶があります。実際には叶いませんでしたが。今回、6階すべてを初めてじっくりと拝観できました。
古くても使えるものは極力再利用することを修繕の方針としたそうで、縁の擦り切れた階段や内装などは十分に歴史を感じさせます。
修繕が終わった後は、城の全景を報道写真などで見て、随分と真っ白い城に様変わりしたな、と思っていましたが、今回観てその印象は払拭されました。といいますのは、白いのは瓦の保護のために漆喰を使うために外観が一時的に白く見えるそうです。改修後9年たつと大気風雨などの汚れで、他の城でもよく見るような、グレーの外観になっていくようです。別名の「白鷺城」は、当時の建築直後の真新しい白い姿かたちをこう呼んだのかもしれません。
街中を歩いていて、今も内堀と外堀の間に「中堀」の、高さ3mほどの石垣が保存されているのを見かけました。戦国時代にこの城の縄張りをした創設者の用心深さ(多分、当時の戦乱の世相があったのでしょうか)と城下町市民がこれまで保存を続けてきたこの城への執着心には、あらためて感心しました。
この日は、9,500歩コースでした。高低差があり結構大変でした。


鯱鉾(しゃちほこ)もしっかりと
睨みをきかせています。

石垣が上になるほど急峻になるように
積み上げられているのも特徴とのこと。


堂々たる城郭です。改修から9年経ちさほど
白い城ではありません。

西の大黒柱「西大柱」。東大柱とともに
2本で天守閣を支えています。
 

西之丸が広く保存されています。豊臣家滅亡で
激動の人生を送った千姫(お江(おごう):お茶々の
妹)が一時期ここで過ごしたというリアルな
物語性も、姫路城がいちはやく世界遺産になった
背景のひとつでしょうか。


南東側の近景

城の内堀の南東端に「城見台」が石台で
造られています。重臣の屋敷の跡地
だそうでここからの城の姿が良いと
されているそうです。鯱鉾との組合せを
含めて納得できます。

大船の初秋とヒョウタン展 ー萩と彼岸花そして瓢箪ー

 9/15には、雨天の合間に大船フラワーセンターの萩や彼岸花などの初秋を見に久々に出かけました。 園内中央には萩(ミヤギノハギ)の並ぶ長い横丁エリアがあります。まだ二分咲きでしたが、赤紫色の蝶型の花を穂状に付け、穂が風にうねるように揺れて咲く様は風情があります。このことから「風聞...