江戸時代初期村上氏から幕末内藤氏まで続く城下町で、町東部の臥牛(がぎゅう)山頂にある村上城(石垣のみ現存します。通称「舞鶴城」だそうで、京都府の舞鶴出身者として親近感を覚えます)での治世が続きました。その間、鮭事業は藩の収益源であったようです。江戸中期の一時の乱獲による不漁を、三面川(みおもてがわ)中洲での30年にわたる人工河川造営工事(「種川(たねがわ)の制」というそうです)により自然ふ化を軌道に乗せることによって、なんとかのり越えて、いまも脈々として鮭文化が受け継がれているそうです。その収益の一部は、地元の育英会を通じて長く奨学金などにも充てられ優れた人材を育ててきた実績があるとのこと。長岡の米百俵にも通じる、鮭による日本的な地域の道徳観を感じます。近くでは、市内に雅子皇后の実家の大和田家があり、郷土資料館では皇室入りに伴う除籍事務用品なども保管されています。
写真はじめ2枚が鮭加工の「きっかわ」の店頭と加工場での1年物の塩引き鮭、3枚目が鮭加工の「うおや」店頭軒先の新物の塩引き鮭です。
4枚目は、散歩中、9~11月に鮭がのぼる三面川の下渡大橋(げど)からみた上流の流れです。下渡山、朝日連峰が雲の先に見えます。左手前が臥牛山です。
その橋を渡るときに、川原で鮭の釣り人を見かけました。その時にたまたま大物?が釣れるのを目の当たりにしたのが5枚目の写真です。地元住民ならではの醍醐味で、うらやましい限りです。この橋の少し下流にあるイヨボヤ会館では、三面川を遡上する鮭がガラス越しに見える設備がありますが、当日は残念ながら前日の雨で水流が濁り見ることはできませんでした。
鮭の水揚げ港でもある岩船漁港を歩いているときには、激しいにわか雷雨(大粒のヒョウでした)にあい一時期慌てて避難しました。後で聞くと、その時の落雷の影響で羽越本線の岩船町駅(村上駅の新潟側隣駅です)近くの鉄道に被害があり、回復の目途がたたないため帰路で村上駅から新潟駅まで臨時のバスで移動するというアクシデントもありました。この地域ではこの時期にはよくあることだそうです。
鮭のほかでは、茶葉の栽培北限だそうで、街中で村上茶や茶菓子を扱うお茶屋さん、菓子屋さんを多く見かけます。