2025年3月17日月曜日

初めてのトルコ旅行 その3ーセルジューク朝旧都コンヤとシルクロード隊商宿跡

 3/8には、アルメニア半島のほぼ中央の山間部にある、かつてセルジューク朝(注1)の首府だったコンヤに移動し、夕方には巨大奇岩の町カッパドキアにたどり着きました。コンヤへは、前泊のパムッカレから東へ430Km、バスで約6時間、コンヤからカッパドキアまではさらに東へ220Km、バスで約3時間の、いずれも相当な長旅で、いわば移動日でした。
コンヤでは、メヴラーナ博物館を訪ねました。コンヤにはセルジューク朝、オスマン帝国の拡大とともに広く普及したイスラム神秘主義教団(注2)のひとつメヴラーナ教団の総本山があり、ここは教団の教祖、名僧や後継者を祀るもとの霊廟とのこと。1923年のトルコ共和国発足で教団は解散され、いまは「メヴラーナ博物館」として公開されています。今でもコンヤは宗教色の強い旧都だそうです。イスラム神秘主義は、仏教でいう「密教」にあたるようです。
メヴラーナ博物館のすぐ隣には、オスマン帝が建てた大きなセミリエ・ジャミィ モスクがあり、メヴラーナ教団を庇護するとともに、先のセルジューク朝の旧都に目を光らせているようです。
また、ここはシルクロードの終点近くのルート上にあり(終点はイスタンブール〜ローマでした)、市内に隊商宿跡の一つケルバンサライに寄りました。40Km間隔にこのような「宿場町」があったとか。

旅行中、幾つかのエコシステムの存在を感じました。まずは、オリーブのエコシステムです。トルコでは、オリーブは、①食用、②油加工、③燃料(種や枝葉)、に使われるそうです。また、今回の国内移動でも多く見かけましたが、オリーブ畑には多くの羊が飼われており草をのんびりと食んでいました。その羊の革が伝統的に薄く加工され、羊皮紙やカバンや薄い上着などの革製品として加工されているようです。コーランもはじめは羊皮紙に書かれていたそうで、今でも一定量流通しているとか。
また、綿花の栽培も山間部でのトルコ絨毯の製造と歴史的につながっているようです。平屋建ての家屋では絨毯製造を請負っているところが多いとか。絨毯製造では屋根で天日に干す工程があるそうです。因みに、絨毯の織り方は、トルコが本家でペルシャに伝えられた、とのことでした。また、絨毯の原価は人件費が主で、月7万円/人で計算するそうです(10か月かかった製品では70万円が原価)。
さらに、一般家屋でのソーラパネルの普及度は高く、低い山には風力発電用風車も多く建てられています。
この日は、8,400歩コースでした。朝6:30から650Km,9時間の大移動でしたから歩数は少な目です。


メヴラーナ博物館(もとのメヴラーナ教団教祖
・名僧・後継者霊廟)。セルジューク朝宮殿跡の
一部に建てられています。

メヴラーナ博物館は元の霊廟で69体の霊を祀る
場として精細な装飾もあります。



舞踏を通じて神との一体化を求める舞踏教団
での旋回舞踊(セマー)の教育風景(よくできた
人形です)
教団指導者の会合風景(よくできた人形です)

メヴラーナ博物館。モスクの装飾です。
メヴラーナ博物館全景

セミリエ・ジャミィ モスク。1572年にオスマン
帝国せリム二世によって建立。オスマン帝国も
教団を庇護していたようです。

セミリエ・ジャミィ モスク外観。16世紀
オスマン帝国当時の典型的なモスク様式
だそうです。

シルクロードの隊商宿ケルバンサライ

シルクロード隊商宿の立派なゲートです。

ピザはトルコ発祥だそうですが、日常的な
定番食材のようです。

(注1)セルジューク朝
セルジューク朝は、トルコ人として最初にアナトリアで活躍し、この地をトルコ化しトルコ人の地として基盤を作り上げるとともに、さらに、オスマン帝国の前の中世、ビザンツ帝国や十字軍と戦いながらアナトリアやペルシャの大部分を支配し大帝国を成した王朝です。
セルジューク朝は、中央アジアを発祥の地とし中東に渡来したトルコ人が建国した歴史上最初の王朝であり、トルコ民族とペルシャ人の伝統を受け継ぎ、支配地域をトルコ化した国家でした。また、トルコ民族とペルシャ人の文化が溶け合うことにより、アナトリアへ進出すると共にアナトリアへペルシャ文化を持ち込んで反映させた王朝でもありました。
セルジューク朝は、1037年に建国され1157年に滅亡するまでの120年と短い間で、東はアフガニスタンのヒンディークシュ山脈から西はトルコのアナトリアのほぼ全域、北はアラル海近辺から南はペルシャ湾まで約390万平方Kmを包括する帝国を作り上げました。後継王朝となったルーム・セルジューク朝の最盛期の支配領域は、現在のトルコ共和国とほぼ同等です。⇒第一次世界大戦後の終戦処理では、戦勝国がオスマン帝国成立の前のトルコの国土まで戻し、国土的には600年を遡ったことになります。
短期間のうちに勢力を拡大してイスラム世界を支配したセルジューク朝は、ビザンツ帝国との戦いに勝利してアナトリアへの扉を開き、十字軍運動のきっかけを作りました。セルジューク朝自体は1157年に滅亡しますが、アナトリアに進出して独立したルーム・セルジューク朝はコンヤを首府として1308年まで存続し、その後のオスマン帝国誕生へとつながりました。(関連記事から引用・編集)

(注2)イスラム神秘主義教団
イスラム教の広がりとともに生まれた神との一体感を求める民衆的な信仰。8世紀ごろにはじまり12世紀頃から神秘主義教団が生まれ、イスラム教の各地への拡大の原動力となったといわれる。
イスラーム教の拡張とともに8世紀の中頃にはじまり、9~10世紀に流行した、踊りや神への賛美を唱えることで神との一体感を求める信仰形態および思想を神秘主義(スーフィズム)という。スーフィズムは、修行者が贖罪と懺悔の徴として羊毛の粗衣(スーフ)を身にまとって禁欲と苦行の中に生きていたスーフィーからきたと考えられている。その思想は、自我の意識を脱却して神と一体となることを説き、形式的なイスラム法の遵守を主張するイスラム法学者(ウラマー)の律法主義、形式主義を批判することとなり、より感覚的で分かりやすいその教えは都市の職人層や農民にも受け容れられていった。神秘主義は宗派ではなく信仰の形態として庶民に受け入れられた。
はじめスーフィーはきわめて少数であり、彼らは世俗を離れて修行していたが、次第に聖者としてあがめられるようになって弟子や崇拝者が集まるようになり、各地に「スーフィー修養所」が作られた。そのような聖者崇拝はいくつかスーフィー修道会に発展し、神秘主義教団を生み出していった。彼らは民衆の願望に答え、知識や規則ではなく、感覚で神と一体となる方法を広げながら、教団を拡大していった。(関連記事から引用・編集)

2025年3月16日日曜日

初めてのトルコ旅行 その2ーエフェソス遺跡と温泉石灰棚

 3/7には、アナトリア半島の最西端にある2つの世界遺産巡りです。午前には、海岸沿いの交易都市エフェソス近郊にある、スケールの大きさと保存状態の良さで知られる古代都市遺跡のエフェソス遺跡とアルテミス神殿、午後には、東に内陸を3時間程移動してパムッカレにある巨大な温泉石灰棚、を訪ねました。この日の朝は、アイワルクのホテルを6:30に出発するという結構な強行軍です。



 (1) エフェソス遺跡
紀元前2世紀〜紀元後2世紀頃に東西交易の集積地として栄えたエフェソスの街の中心部の遺構がいまもよく保存されています。ローマ帝国領となった時代の神殿、市庁舎、図書館、オデオン(音楽堂、劇場、会議場の兼用設備とか)、円形大劇場などと並んで商店街、娼婦宿、公衆トイレまで残っていました。石の文化の保存性の良さと歴史を残す強いマインドに感心させられます。


セルススの図書館。2世紀初頭エフェソスを
首府とするアジア州の長官だったセルススの
功績を記念して息子が建てた図書館。2万冊の
蔵書があったとか。知恵や美徳を象徴する
4体の女性像が見えます。保存の良さもさる
ことながらこの時期にそういう事実があった
ことが驚きです。世界の三大図書館の一つ
だとか。

オデオン。2世紀に建造された小さな音楽堂。
1500人を収容し、演劇やコンサートが上演
されたほか、議会所としても使われたそうです。
ドミティアヌス神殿跡。皇帝ドミティアヌスを
祀った神殿。皇帝暗殺後に破壊されたとか。
世の盛衰を感じます。
トラヤヌスの泉。紀元1世紀にトラヤヌス帝
に捧げられた泉。
プリタネイオン。紀元前3世紀からビザンツ
時代まで増改築が行われたエフェソス市庁舎

公衆水洗トイレ跡

工事中の円形劇場跡。紀元前3世紀に建築され
歴代のローマ皇帝によって増改築が行われて
きており、今も工事中でした。丘の斜面を利用
しており2万4千人を収容したとか。手前は3階
建ての舞台。紀元前のものとは思えません。
ハドリアヌス神殿。繊細な彫刻が刻まれています。

ハドリアヌス神殿。138年頃エフェソス市民の
クリンティリウスが皇帝ハドリアヌスに献上した
神殿とのこと。

メインストリートの列柱道路クレテス通り

円形大劇場。手前の舞台が修繕中でした。

(2) アルテミス神殿
エフェソスの主神アルテミスに捧げられた神殿跡で、紀元前3世紀にはアテネのパルテノン神殿をしのぐ大神殿だったそうです。当時は120本の円柱で支えられた神殿には高さ15mのアルテミス像が祀られていたそうです。今では、柱を一本残すだけで他はエフェソスの再建などに使われたそうです。この日には、その円柱の上に巣があるのでしょうか、コウノトリが舞い降りていました。ここは、エフェソス遺跡と対照的に、いまはなき往時を想像するばかりでした。


アルテミス神殿跡。アレキサンダー大王の
権勢がここまで及んだことが世界七不思議
だそうです。

残ったイオニア式円柱の上には
コウノトリが営巣中です。野生で
見るのははじめてです。

(3) パムッカレの巨大な石灰棚
パムッカレに着くと、近郊の台地に斜面を覆い尽くす真っ白な石灰棚が見えてきます。これが、台地の上から湧き出て斜面を流れ落ちる温泉の石灰成分が長年にわたり沈殿、凝結することでできた石灰華段丘とのこと。その規模は幅3Km、高さ100m、厚さ(奥行)300mと驚くばかりです。台地の頂上に上がると、温泉水をたたえた小さな丸い水たまりが無数にあり、一見棚田のような風変わりな光景です。早速にも温泉水の硬さを味わいたいところですがそれはかなわず、ここでは足湯(実際には足水でした)を経験しました。
この台地の上には、温泉保養や神託の地として発展した古代都市のヒエラポリス遺跡も残されており、絶景と聖地が隣り合わせという、観どころの多い世界遺産です。
因みに、パムッカレはトルコ語では「綿の城」の意味だそうですが、ここは綿花畑が多くオーガニックコットンの生産地だそうで、トルコ絨毯の原料にもなるそうです。

驚くのは、トルコの食料自給率は99%だそうです。移動中にも延々と続く小麦畑、オリーブ畑、ぶどう畑を見ました。小麦、オリーブ、綿花などの農産物の輸出、未発掘の膨大な遺跡などの観光資源や平均年齢34歳(日本は45歳です)と若い労働力、などを含めると基礎的な国力は高そうです。一方で、地政学上のリスクも多く抱えており、人口8,500万人(国土面積は日本のほぼ2倍)の中でシリア他から難民は1,000万人を占めており難民生活が長引くと家族も増え経済的負担は拡大しているようです。また、隣接する7か国(注)との問題は、同じイスラムスンニ派のシリアでの政変、ジョージアへのロシアの介入や長年続くクルド人組織(PKK:クルド労働者党)への対応など、日々絶えないとのこと。
また、このように11世紀までのビザンツ帝国のキリスト教の遺構をイスラム教の時代になっても温存して来たことに、オスマン帝国の宗教的な寛容さを感じます。人口比で90%がイスラム教徒だそうですから、10%を先の宗旨「啓典の民」の考え方で共存を貫いているようにも見えます。ビザンチン帝国からイスラム教のオスマン帝国に変わった時も、最上位のキリスト教会(イスタンブールのアヤソフィア)の宗旨替えはするそうですがそれ以下の教会はそのままだそうです。日本の戦国時代にある領主が変わるだけで領民は変らない穏やかな権力移転に似たところがあるようです。

この日は、12,200歩コースでした。ちょっと疲れました。

(注)トルコは、右回りに、ギリシャ、ブルガリア(欧州エリア)、ジョージア、アルメニア、イラン、イラク、シリア(アジアエリア)の7ヵ国と国境を接します。長いのは圧倒的にシリアです。因みに、トルコのアジアエリア(アナトリア、小アジア(Asia Minor))と欧州エリアの面積比は97:3だそうです。


 石灰棚上層部の光景。右奥にパムッカレの
街並みが見えます。

石灰層が岩のように凝固しています。左奥が
パムッカレの町です。

素足で足湯を楽しむ人々。手前の白は石灰で
背景の山の白は残雪です。

源泉のひとつです。見るからに硬そうです。

パムッカレに向かう途中で見た温泉郷台地と
石灰棚。まるで残雪のようです。手前麓が
パムッカレの町並です。

朝食のビュッフェではオリーブの種類が多く
甘いドレッシングをかけて食べます。
色も白黒、酢漬け、塩漬け、種子抜き、
焼き目がついたのなど。

2025年3月14日金曜日

初めてのトルコ旅行 その1ーチャナッカレ戦争とトロイ遺跡


3/5〜3/12にはトルコ西側を巡ってきました(機中泊2泊の5泊8日でした)。羽田からイスタンブールへはトルコ航空直行便21:45発で13時間40分(時差-6時間)航行し、到着が翌3/6 早朝5:25です。久々の長時間移動で長い一日でした。年齢とともに時差には鈍感になるそうですが、このところ、そんな感じはします。
今回、行き残しを減らす海外旅行の中でトルコ(注1)を選んだのは、以下のようなことがありました。現在の中東問題の原因の一つには、第一次世界大戦の戦勝国となった英仏国の中東での委任統治の結果、地元勢力を必ずしも反映しない新たな国境が設定されたことがあります。その後、国民国家主義の広がりとともに、国境設定の矛盾が民族間、国家間の紛争を起こしています。ただ、第一次大戦での敗戦国のオスマン帝国は、自身は中央アジアから渡来した遊牧民でイスラム教徒でありながら、大戦前600年間、ルーツが同じユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗派(イスラム教では「啓典の民」というそうです)を平等に共存させ大きな問題もなく統治してきた(オスマン主義)、といわれています。このオスマントルコの今を、遅まきながらその一端でも直に覗ければと、この旅を選びました。
身内の不幸もあり何回か繰り延べていましたが、今回は、トルコの位置するアナトリア半島の西半分を西端から左回りに5つの世界遺産を巡る、なかなか印象的な旅でした。

(1)チャナッカレ
イスタンブール空港から専用バスで6時間半、280Km南西方向に移動します。途中、欧州地区の最南端のゲリボリ半島を南下しダーダネルス海峡にかかる「チャナッカレ1915橋」を渡りアジア地区の最西端のチャナッカレにたどり着きました。トルコでは、他にも、ボスポラス海峡を渡る「マルマラ0715橋」という記念碑的なネーミングの橋もあるようです。また、トルコでは鉄道網の整備が遅れているようで、高速列車YHTが首都アンカラの南北にだけ運航しているそうです(イスタンブールーアンカラーコンヤ間)。従って、国内線空港も多く高速道路も整備されていて、長距離の国内移動は飛行機かバスでの移動になります。今回のツアーでは最終日のイスタンブールへの戻りだけが国内航空便でした。

この地域は、第一次大戦中の1915〜1916年に、イスタンブール占領を目指した英連邦(オーストラリア軍とニュージーランド軍が中心でした。英海軍大臣のチャーチルが立案したとか)と仏の連合国軍の上陸作戦のあった「チャナッカレ戦争」(注1)の現場です。ここで、同盟国の、末期のオスマン帝国とドイツが迎え撃ち、連合国に勝利しました(チャーチルは失脚したそうです)。しかし、結果的には、同盟国は大戦の敗戦国になります。その後の終戦処理のなかで(ローザンヌ条約)、チャナッカレ戦争での戦果を契機・原動力とした祖国解放戦争(1919〜1922年)によって、トルコは長期的な国土の占領、分割を免れ、オスマン帝を廃位し(1922年)、トルコ人によるトルコ共和国を樹立(1923年10月29日。建国記念日とのこと)しています。一連の戦いを、後にトルコ共和国の初代大統領になるムスタファ・ケマル・アタテュルクが指揮しています(アタテュルクは「トルコの父」の意味の敬称だそうですが、訪問中もよく耳にしました)。このような意味でも、チャナッカレ戦争は、双方で25万人の戦病死者をだす、現代のトルコ人にとっては重要な大戦争だったようです。また、この戦争は陸・海・空三軍の総力がを結集した大規模上陸作戦として世界初だったとか。


  チャナッカレからみダーダネルス海峡。
対岸はトルコの欧州エリアで手前は
アジアエリアです。右奥先がマルマラ海、
その先がにボスポラス海峡になります。
マルマラ海の中央にあるマルマラ島では
大理石が多く獲れるそうで、神殿や家屋に
多く使われています。地元でも高価だ
そうです。
北を向いていて対岸はヨーロッパです。

トルコで初めての昼食。タイのソテイとのこと。
今回の旅行中、魚が肉になったりはしますが、
他にコメのオリーブ炒め、揚げたりペーストに
したポテト料理、ソーセージやチーズなどの
添え物がつくというパターンは同じでした。
この前に出るスープもマメ、野菜、コーンなど
多彩でした。比較的軽い昼食習慣のようです。

昼食レストランの階段で見かけました。トロイの
木馬と必死で戦うトロイア戦士の絵でしょうか。

 (注1)トルコの国連での呼称変更
トルコ政府は、国名表記を「Turkey(ターキー)」から「Türkiye(テュルキエ)」に変更するよう国連に要請、国連がこれに同意し、2022年6月1日に国連における国名表記が変更された。
(注2)チャナッカレ戦争(西欧では、ガリポリ作戦)
ダーダネルス海峡に臨む港ガリポリ(現ゲリボル)は,クリミア戦争時に要塞が築かれて以来,軍事的要衡であった。第一次世界大戦中の1915年4月と8月,イギリス,フランスの艦隊がこの地に上陸し,ドイツ,オスマン軍を攻撃した。激しい攻防戦が繰り広げられたが,オスマン軍の守りは堅く,英仏軍は16年1月に撤退した。(山川 世界史小辞典より引用)

(2) トロイ遺跡とトロイの木馬
そこからエーゲ海沿いに30分程南下しトロイ遺跡を訪ねました。トロイ遺跡の歴史は下記(注3)の通りですが、ホメロス(ギリシャ生れではなくアルメニア人(トルコ人渡来前)の抒情詩「イリアス」に出てくる伝説上の都市が1870年にドイツのシュリーマンの執念によって発見されたという異色の遺跡です。しかも、紀元前3000年から3500年の間に、都市の盛衰が繰り返され9つの時代の都市層(第1〜9市層)が重なっていることが発見されたそうで、これまたユニークです。今回ツアーで最初の、歴史と重量感のある世界遺産でした。チャナッカレ戦争から5000年程年代を遡るところがこれまた一興です。
遺跡に着くと入口に大きな「トロイの木馬」が建っています。これはギリシャ神話で語られるトロイ戦争の伝説にでてきます。トロイ戦争は、紀元前1200年にギリシャ連合軍とトロイア王国の間で20年間に亘り行われました(注4)。 因みに、ツアーガイド(トロイ生れで地元のチャナッカレ大学出身だそうです)によると、今でもギリシャとトルコは、宗教や領土で対立してきており、近年のキプロス問題も含めて長年難しい関係だとか。静かなエーゲ海も、近くで見聞きすると、思った以上に波高しのようです。
当時、トロイア軍と戦っていたギリシャ軍がトロイア市内に巨大な木馬を持ち込ませ、ボース島に退却したあとに残した木馬の中にまさか敵兵が潜んでいるとはトロイア軍は疑わず、夜襲を受けて陥落したそうです。
今では「トロイの木馬」というと、情報セキュリティの畑では、攻撃対象のコンピュータに常時潜ませるタイプのウィルスを意味しますが、分かりやすいよいネーミングとあらためて思いました。
この日は、バス移動が多く、9,800歩コースでした。


トロイ遺跡入口にあるトロイの木馬。このくらい
大きいと当時にも木馬の中に敵兵がいそうだと
トロイア軍は気づいてもよさそうなものですが。
この辺りは赤松が多く植えられています。
この木馬もイダ山オリンホスの森の松の木で
作られたとされるそうです。松林ではいまも
ヤギが飼われ松茸栽培や養蜂も行われているとか。

トロイ遺跡。第6市層。紀元前1900〜1300年の
石積みの城壁。今も発掘中だそうです。

第8〜9市層の遺跡。正面奥が北東の塔城、
右奥が水槽で、左奥がアテナ神殿跡。

第7-a市層のメガロン式宮殿と住居

紀元前3000〜2600年の最古の第1市層。
シュリーマンが発見当時、掘り進めてしまった
結果、上にあった何層もの遺跡が破壊された
とも言われるそうです。

聖域。第8市層で紀元前900〜350年に神々に
供物の祭事、生贄の儀式の場とか。アレク
サンダー大王もここで供物を捧げたとか。



最も新しい地層の第9市層のオデオン。紀元前
350〜400年の音楽会場、劇場、会議場。
当時は木製の屋根がついており音響も良かったと
されているとか。トロイ遺跡の中で最も保存状態が
良い遺跡とのこと。

チャナッカレの街中「木馬の広場」には米国
映画「トロイのヘレン」のロケで使用された
トロイの木馬のセットも保存・展示されて
います。こちらの方が映画用だけあって
リアルで様になっています。


(注3)トロイ遺跡
トロイ遺跡は、トルコの北西部に位置する歴史的な遺跡で、ギリシャ神話のトロイア戦争の舞台となった。紀元前3000年頃から西暦500年頃までの9層にわたる古代都市の遺跡が発見されている。トロイ遺跡は、1870年にドイツの考古学者シュリーマンによって発掘された。彼は私財を投じてトルコのヒサルルクの丘を掘り起こし、都市遺構や数々の財宝を見つけ出した。遺跡の入口には、トロイの木馬のレプリカが置かれている。(紹介記事から)
(注4)トロイ戦争とトロイの木馬
トロイ戦争は、ギリシャ神話における有名な戦争で、紀元前12世紀頃に起こったとされていまる。この戦争は、ギリシャ連合軍とトロイア王国の間で10年間に亘り行われた。その原因は、ギリシャ スパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーがトロイアの王子パリスに誘拐されたことにあった。ヘレネーは絶世の美女であり、彼女を巡る争いが戦争の引き金となった。
「トロイの木馬」伝説では、戦争の最終局面で、ギリシャ軍の知将オデュッセウスが考案した「トロイの木馬」の策略が成功したとされる。巨大な木馬の中に兵士を隠し、トロイア市内に持ち込ませることで、ギリシャ軍退却後の夜襲でトロイアを陥落させた。トロイア王国はギリシャ連合軍に敗北し、都市は破壊された。
トロイ戦争は、ホメロスの叙事詩「イリアス」や「オデュッセイア」に詳しく描かれており、古代ギリシャの文学や文化に大きな影響を与えた。(紹介記事から)

2025年3月3日月曜日

町内会の横須賀巡り

 3/2には、地元の南台町内会で恒例のバス旅行があり、参加してきました。一昨年は静岡の掛川城ツアーでしたが(注)、今年は近場で横須賀巡りでした。37名の参加で家族向けの企画が好評だったようです。天気も翌日から荒れる予報で、この日までの好天に恵まれました。このところ、こういった町内会行事にはできるだけ出るようにしていまして、常連の顔見知りも増えてきました。会長さんによると、今回はバス1台がほぼ満席でしたが、かつては2台だったこともあったそうです。
最初は長井地区にある「ソレイユの丘」の菜の花畑を訪ね、次いで、すぐ近くの嘉山農園でイチゴ狩り、三崎港に出て三崎館でマグロ料理の昼食、横須賀軍港巡りとなかなか盛りだくさんで賑やかなメニューでした。途中に立ち寄った地元農産物の直売店「すかなごっそ」(「横須賀ご馳走する店」の意味だとか。直ぐに覚えられる面白い命名です。JAよこすか葉山の運営です)では、野菜、キャベツの値上がりで、開店前から長い行列ができて中に入れないくらい一杯でした。買い物は断念し、外から見るだけで次に向かうというハプニングもありました。これもご時世でしょうか。

因みに。横須賀の「須賀」は砂浜を意味するそうで、横に長く続く砂浜、といった意味とのこと。
長く横須賀に通っていてもなかなか行けないコースメニュで、日頃おろそかにしている近所付き合いを含め、一日ゆっくりと楽しめました。
この日は、10,000歩コースでした。バス旅行にしてはよく歩きました。物珍しい所巡りは余り歩数は気になりません。

(注)一昨年2023年11月の掛川城ツアーは当ブログの下記に記事をアップしていました。
町内会バス旅行ー掛川城と掛川花鳥園ー

老舗のマグロ料理店「三崎館本店」。これは
絵になります。食事はこのすぐ右隣の新館 三崎館
支店「香花」ででした。
米軍横須賀基地。左奥が第7艦隊旗艦「ジョージ
ワシントン」です。寄港中もイージス艦がミサ
イル攻撃から旗艦周辺を防護しているとのこと。
海から見るのは初めてでした。だいぶ前、旗艦が
「ブルーリッジ」(中型の貨物船のような通信艦
でした)の頃に内部を見学したことがありました。

海上自衛隊横須賀基地。潜水艦隊は、横須賀と
呉だけに所属しているそうです。この日は、
標的艦や海自唯一の迎賓艦も珍しく停泊中
でした。

2025年3月1日土曜日

これからの古書店

 先日2/25には、近くのミニシアタ シネマ・ジャック&ベティで、今どきの古書店事情の一面を捉えた映画「本を綴る(つづる)」を観てきました。映画にでてくる書店のロケにも実在する古書店が使われているとか。いまは苦戦する古書店ですが、次第に古書店のネット化が進み古本の所在が横断的に検索できるようになり、それをネットで取り寄せる、というスタイルが始まろうとしています。これからは、ある意味で、公立の図書館とは別に「草の根の分散型の図書館」とでもいうのでしょうか。この映画が目に留まったのは、これからの古書店の一端をのぞいてみたいと思ったことがありました。
この映画は、2021年に東京都書店商業組合が開設したYouTubeチャンネル「東京の本屋さん 街に本屋があるということ」で、全国の書店への取材を基に製作した配信ドラマ『本を贈る』をベースに、その後を描いた2024年のロードムービーでした。
全国の本屋を回ってその良さを紹介するコラムや本の書評の執筆を生業にする小説家を描いています。ダム建設が一旦決まっていながら途中で工事が中止となったために廃村になったままの福井県の村をモデルにした自分のベストセラー小説のために、モデルになった村民からの強い反発を受け、その後小説を書けなくなった小説家が、書店の旅、本屋を介した人との繋がりや再会を通して、書けなくなった理由に向き合い、立ち直っていく様が軽妙に描かれています。那須の山中の書店で見つけた古本に挟まれたまま送られなかった恋文をきっかけに、京都、高松、品川などを巡る旅行紀でもあります。
主人公の小説家がはじめたのが、書店の廃業などで居場所を失った本を扱う、ワンボックスカーを使った「移動古本店」でした。また、この小説家が書き始めたのが、本屋を兼業する気候変動に強い野菜農家など環境問題をテーマにした小説と絵本でした。この帰結も作品の冒頭に暗示されています。(注)
新刊本ではなく古本でしかない、本の繋がり、それによる人のつながり、がうまくコンパクトに表現されたよい作品と思いました。そういうとサブテーマも「本の居場所。人の居場所」でした。また、スポンサも東京都書店商業組合で、古書文化の応援作品でもありました。
因みに、このシネマ・ジャック&ベティでは、館内修繕のためのクラウドファンディングで目標額(3,000万円)を達成したそうで、心なしか館内随所が整備され綺麗になっていました。
この日は、帰りに伊勢佐木町を関内までゆっくりと回り、7,500歩コースでした。

(注) 詳しくは、映画.comやこの映画の公式サイトで紹介されています。

 本を綴る

映画「本を綴る」公式サイト

ポスター画像


ミラーレスカメラZ30の新調

 4月末にいつもカバンに入れて持ち運ぶ小型のカメラを新調しました。これまでコンデジ( コン パクト デジ タルカメラ)のA1000を何度もNIKONに修理に出しながらも長く愛用していました。その前のA900を使っていた期間を含めると15年は使っています。コンデジでありながらRAW...