3/5〜3/12にはトルコ西側を巡ってきました(機中泊2泊の5泊8日でした)。羽田からイスタンブールへはトルコ航空直行便21:45発で13時間40分(時差-6時間)航行し、到着が翌3/6 早朝5:25です。久々の長時間移動で長い一日でした。年齢とともに時差には鈍感になるそうですが、このところ、そんな感じはします。
今回、行き残しを減らす海外旅行の中でトルコ(注1)を選んだのは、以下のようなことがありました。現在の中東問題の原因の一つには、第一次世界大戦の戦勝国となった英仏国の中東での委任統治の結果、地元勢力を必ずしも反映しない新たな国境が設定されたことがあります。その後、国民国家主義の広がりとともに、国境設定の矛盾が民族間、国家間の紛争を起こしています。ただ、第一次大戦での敗戦国のオスマン帝国は、自身は中央アジアから渡来した遊牧民でイスラム教徒でありながら、大戦前600年間、ルーツが同じユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗派(イスラム教では「啓典の民」というそうです)を平等に共存させ大きな問題もなく統治してきた(オスマン主義)、といわれています。このオスマントルコの今を、遅まきながらその一端でも直に覗ければと、この旅を選びました。
身内の不幸もあり何回か繰り延べていましたが、今回は、トルコの位置するアナトリア半島の西半分を西端から左回りに5つの世界遺産を巡る、なかなか印象的な旅でした。
(1)チャナッカレ
イスタンブール空港から専用バスで6時間半、280Km南西方向に移動します。途中、欧州地区の最南端のゲリボリ半島を南下しダーダネルス海峡にかかる「チャナッカレ1915橋」を渡りアジア地区の最西端のチャナッカレにたどり着きました。トルコでは、他にも、ボスポラス海峡を渡る「マルマラ0715橋」という記念碑的なネーミングの橋もあるようです。また、トルコでは鉄道網の整備が遅れているようで、高速列車YHTが首都アンカラの南北にだけ運航しているそうです(イスタンブールーアンカラーコンヤ間)。従って、国内線空港も多く高速道路も整備されていて、長距離の国内移動は飛行機かバスでの移動になります。今回のツアーでは最終日のイスタンブールへの戻りだけが国内航空便でした。
この地域は、第一次大戦中の1915〜1916年に、イスタンブール占領を目指した英連邦(オーストラリア軍とニュージーランド軍が中心でした。英海軍大臣のチャーチルが立案したとか)と仏の連合国軍の上陸作戦のあった「チャナッカレ戦争」(注1)の現場です。ここで、同盟国の、末期のオスマン帝国とドイツが迎え撃ち、連合国に勝利しました(チャーチルは失脚したそうです)。しかし、結果的には、同盟国は大戦の敗戦国になります。その後の終戦処理のなかで(ローザンヌ条約)、チャナッカレ戦争での戦果を契機・原動力とした祖国解放戦争(1919〜1922年)によって、トルコは長期的な国土の占領、分割を免れ、オスマン帝を廃位し(1922年)、トルコ人によるトルコ共和国を樹立(1923年10月29日。建国記念日とのこと)しています。一連の戦いを、後にトルコ共和国の初代大統領になるムスタファ・ケマル・アタテュルクが指揮しています(アタテュルクは「トルコの父」の意味の敬称だそうですが、訪問中もよく耳にしました)。このような意味でも、チャナッカレ戦争は、双方で25万人の戦病死者をだす、現代のトルコ人にとっては重要な大戦争だったようです。また、この戦争は陸・海・空三軍の総力がを結集した大規模上陸作戦として世界初だったとか。
チャナッカレからみダーダネルス海峡。
対岸はトルコの欧州エリアで手前は
アジアエリアです。右奥先がマルマラ海、
その先がにボスポラス海峡になります。
マルマラ海の中央にあるマルマラ島では
大理石が多く獲れるそうで、神殿や家屋に
多く使われています。地元でも高価だ
そうです。
トルコで初めての昼食。タイのソテイとのこと。
今回の旅行中、魚が肉になったりはしますが、
他にコメのオリーブ炒め、揚げたりペーストに
したポテト料理、ソーセージやチーズなどの
添え物がつくというパターンは同じでした。
この前に出るスープもマメ、野菜、コーンなど
多彩でした。比較的軽い昼食習慣のようです。
(注1)トルコの国連での呼称変更
トルコ政府は、国名表記を「Turkey(ターキー)」から「Türkiye(テュルキエ)」に変更するよう国連に要請、国連がこれに同意し、2022年6月1日に国連における国名表記が変更された。
(注2)チャナッカレ戦争(西欧では、ガリポリ作戦)
ダーダネルス海峡に臨む港ガリポリ(現ゲリボル)は,クリミア戦争時に要塞が築かれて以来,軍事的要衡であった。第一次世界大戦中の1915年4月と8月,イギリス,フランスの艦隊がこの地に上陸し,ドイツ,オスマン軍を攻撃した。激しい攻防戦が繰り広げられたが,オスマン軍の守りは堅く,英仏軍は16年1月に撤退した。(山川 世界史小辞典より引用)
(2) トロイ遺跡とトロイの木馬
そこからエーゲ海沿いに30分程南下しトロイ遺跡を訪ねました。トロイ遺跡の歴史は下記(注3)の通りですが、ホメロス(ギリシャ生れではなくアルメニア人(トルコ人渡来前)の抒情詩「イリアス」に出てくる伝説上の都市が1870年にドイツのシュリーマンの執念によって発見されたという異色の遺跡です。しかも、紀元前3000年から3500年の間に、都市の盛衰が繰り返され9つの時代の都市層(第1〜9市層)が重なっていることが発見されたそうで、これまたユニークです。今回ツアーで最初の、歴史と重量感のある世界遺産でした。チャナッカレ戦争から5000年程年代を遡るところがこれまた一興です。
遺跡に着くと入口に大きな「トロイの木馬」が建っています。これはギリシャ神話で語られるトロイ戦争の伝説にでてきます。トロイ戦争は、紀元前1200年にギリシャ連合軍とトロイア王国の間で20年間に亘り行われました(注4)。 因みに、ツアーガイド(トロイ生れで地元のチャナッカレ大学出身だそうです)によると、今でもギリシャとトルコは、宗教や領土で対立してきており、近年のキプロス問題も含めて長年難しい関係だとか。静かなエーゲ海も、近くで見聞きすると、思った以上に波高しのようです。
当時、トロイア軍と戦っていたギリシャ軍がトロイア市内に巨大な木馬を持ち込ませ、ボース島に退却したあとに残した木馬の中にまさか敵兵が潜んでいるとはトロイア軍は疑わず、夜襲を受けて陥落したそうです。
今では「トロイの木馬」というと、情報セキュリティの畑では、攻撃対象のコンピュータに常時潜ませるタイプのウィルスを意味しますが、分かりやすいよいネーミングとあらためて思いました。
この日は、バス移動が多く、9,800歩コースでした。
トロイア軍は気づいてもよさそうなものですが。
この辺りは赤松が多く植えられています。
この木馬もイダ山オリンホスの森の松の木で
作られたとされるそうです。松林ではいまも
ヤギが飼われ松茸栽培や養蜂も行われているとか。
(注3)トロイ遺跡
トロイ遺跡は、トルコの北西部に位置する歴史的な遺跡で、ギリシャ神話のトロイア戦争の舞台となった。紀元前3000年頃から西暦500年頃までの9層にわたる古代都市の遺跡が発見されている。トロイ遺跡は、1870年にドイツの考古学者シュリーマンによって発掘された。彼は私財を投じてトルコのヒサルルクの丘を掘り起こし、都市遺構や数々の財宝を見つけ出した。遺跡の入口には、トロイの木馬のレプリカが置かれている。(紹介記事から)
(注4)トロイ戦争とトロイの木馬
トロイ戦争は、ギリシャ神話における有名な戦争で、紀元前12世紀頃に起こったとされていまる。この戦争は、ギリシャ連合軍とトロイア王国の間で10年間に亘り行われた。その原因は、ギリシャ スパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーがトロイアの王子パリスに誘拐されたことにあった。ヘレネーは絶世の美女であり、彼女を巡る争いが戦争の引き金となった。
「トロイの木馬」伝説では、戦争の最終局面で、ギリシャ軍の知将オデュッセウスが考案した「トロイの木馬」の策略が成功したとされる。巨大な木馬の中に兵士を隠し、トロイア市内に持ち込ませることで、ギリシャ軍退却後の夜襲でトロイアを陥落させた。トロイア王国はギリシャ連合軍に敗北し、都市は破壊された。
トロイ戦争は、ホメロスの叙事詩「イリアス」や「オデュッセイア」に詳しく描かれており、古代ギリシャの文学や文化に大きな影響を与えた。(紹介記事から)
0 件のコメント:
コメントを投稿