2025年3月17日月曜日

初めてのトルコ旅行 その3ーセルジューク朝旧都コンヤとシルクロード隊商宿跡

 3/8には、アルメニア半島のほぼ中央の山間部にある、かつてセルジューク朝(注1)の首府だったコンヤに移動し、夕方には巨大奇岩の町カッパドキアにたどり着きました。コンヤへは、前泊のパムッカレから東へ430Km、バスで約6時間、コンヤからカッパドキアまではさらに東へ220Km、バスで約3時間の、いずれも相当な長旅で、いわば移動日でした。
コンヤでは、メヴラーナ博物館を訪ねました。コンヤにはセルジューク朝、オスマン帝国の拡大とともに広く普及したイスラム神秘主義教団(注2)のひとつメヴラーナ教団の総本山があり、ここは教団の教祖、名僧や後継者を祀るもとの霊廟とのこと。1923年のトルコ共和国発足で教団は解散され、いまは「メヴラーナ博物館」として公開されています。今でもコンヤは宗教色の強い旧都だそうです。イスラム神秘主義は、仏教でいう「密教」にあたるようです。
メヴラーナ博物館のすぐ隣には、オスマン帝が建てた大きなセミリエ・ジャミィ モスクがあり、メヴラーナ教団を庇護するとともに、先のセルジューク朝の旧都に目を光らせているようです。
また、ここはシルクロードの終点近くのルート上にあり(終点はイスタンブール〜ローマでした)、市内に隊商宿跡の一つケルバンサライに寄りました。40Km間隔にこのような「宿場町」があったとか。

旅行中、幾つかのエコシステムの存在を感じました。まずは、オリーブのエコシステムです。トルコでは、オリーブは、①食用、②油加工、③燃料(種や枝葉)、に使われるそうです。また、今回の国内移動でも多く見かけましたが、オリーブ畑には多くの羊が飼われており草をのんびりと食んでいました。その羊の革が伝統的に薄く加工され、羊皮紙やカバンや薄い上着などの革製品として加工されているようです。コーランもはじめは羊皮紙に書かれていたそうで、今でも一定量流通しているとか。
また、綿花の栽培も山間部でのトルコ絨毯の製造と歴史的につながっているようです。平屋建ての家屋では絨毯製造を請負っているところが多いとか。絨毯製造では屋根で天日に干す工程があるそうです。因みに、絨毯の織り方は、トルコが本家でペルシャに伝えられた、とのことでした。また、絨毯の原価は人件費が主で、月7万円/人で計算するそうです(10か月かかった製品では70万円が原価)。
さらに、一般家屋でのソーラパネルの普及度は高く、低い山には風力発電用風車も多く建てられています。
この日は、8,400歩コースでした。朝6:30から650Km,9時間の大移動でしたから歩数は少な目です。


メヴラーナ博物館(もとのメヴラーナ教団教祖
・名僧・後継者霊廟)。セルジューク朝宮殿跡の
一部に建てられています。

メヴラーナ博物館は元の霊廟で69体の霊を祀る
場として精細な装飾もあります。



舞踏を通じて神との一体化を求める舞踏教団
での旋回舞踊(セマー)の教育風景(よくできた
人形です)
教団指導者の会合風景(よくできた人形です)

メヴラーナ博物館。モスクの装飾です。
メヴラーナ博物館全景

セミリエ・ジャミィ モスク。1572年にオスマン
帝国せリム二世によって建立。オスマン帝国も
教団を庇護していたようです。

セミリエ・ジャミィ モスク外観。16世紀
オスマン帝国当時の典型的なモスク様式
だそうです。

シルクロードの隊商宿ケルバンサライ

シルクロード隊商宿の立派なゲートです。

ピザはトルコ発祥だそうですが、日常的な
定番食材のようです。

(注1)セルジューク朝
セルジューク朝は、トルコ人として最初にアナトリアで活躍し、この地をトルコ化しトルコ人の地として基盤を作り上げるとともに、さらに、オスマン帝国の前の中世、ビザンツ帝国や十字軍と戦いながらアナトリアやペルシャの大部分を支配し大帝国を成した王朝です。
セルジューク朝は、中央アジアを発祥の地とし中東に渡来したトルコ人が建国した歴史上最初の王朝であり、トルコ民族とペルシャ人の伝統を受け継ぎ、支配地域をトルコ化した国家でした。また、トルコ民族とペルシャ人の文化が溶け合うことにより、アナトリアへ進出すると共にアナトリアへペルシャ文化を持ち込んで反映させた王朝でもありました。
セルジューク朝は、1037年に建国され1157年に滅亡するまでの120年と短い間で、東はアフガニスタンのヒンディークシュ山脈から西はトルコのアナトリアのほぼ全域、北はアラル海近辺から南はペルシャ湾まで約390万平方Kmを包括する帝国を作り上げました。後継王朝となったルーム・セルジューク朝の最盛期の支配領域は、現在のトルコ共和国とほぼ同等です。⇒第一次世界大戦後の終戦処理では、戦勝国がオスマン帝国成立の前のトルコの国土まで戻し、国土的には600年を遡ったことになります。
短期間のうちに勢力を拡大してイスラム世界を支配したセルジューク朝は、ビザンツ帝国との戦いに勝利してアナトリアへの扉を開き、十字軍運動のきっかけを作りました。セルジューク朝自体は1157年に滅亡しますが、アナトリアに進出して独立したルーム・セルジューク朝はコンヤを首府として1308年まで存続し、その後のオスマン帝国誕生へとつながりました。(関連記事から引用・編集)

(注2)イスラム神秘主義教団
イスラム教の広がりとともに生まれた神との一体感を求める民衆的な信仰。8世紀ごろにはじまり12世紀頃から神秘主義教団が生まれ、イスラム教の各地への拡大の原動力となったといわれる。
イスラーム教の拡張とともに8世紀の中頃にはじまり、9~10世紀に流行した、踊りや神への賛美を唱えることで神との一体感を求める信仰形態および思想を神秘主義(スーフィズム)という。スーフィズムは、修行者が贖罪と懺悔の徴として羊毛の粗衣(スーフ)を身にまとって禁欲と苦行の中に生きていたスーフィーからきたと考えられている。その思想は、自我の意識を脱却して神と一体となることを説き、形式的なイスラム法の遵守を主張するイスラム法学者(ウラマー)の律法主義、形式主義を批判することとなり、より感覚的で分かりやすいその教えは都市の職人層や農民にも受け容れられていった。神秘主義は宗派ではなく信仰の形態として庶民に受け入れられた。
はじめスーフィーはきわめて少数であり、彼らは世俗を離れて修行していたが、次第に聖者としてあがめられるようになって弟子や崇拝者が集まるようになり、各地に「スーフィー修養所」が作られた。そのような聖者崇拝はいくつかスーフィー修道会に発展し、神秘主義教団を生み出していった。彼らは民衆の願望に答え、知識や規則ではなく、感覚で神と一体となる方法を広げながら、教団を拡大していった。(関連記事から引用・編集)

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