2025年6月5日木曜日

京橋で紫陽花

 6/2午後には、7月の写真展への出展作のプリント色合わせのために、Fフォトギャラリー銀座を再度訪ねました。
その帰路には、銀座の隣町の京橋に出て、JR東京駅まで歩きました。途中、銀座中央通りと首都高速の交差点で、街中で咲き始めたばかりの紫陽花を見かけました。
ここは、江戸期には江戸湾にそそぐ京橋川が流れ京橋が架かっていました。水害などで橋は何度か造り替えられたそうですが、明治期(明治8年)と大正期(大正11年)の2つの親柱が残されました。その後、昭和34年(1959)に、京橋川の埋め立てによって橋も撤去され、二つの親柱跡だけが京橋の碑としてその名残をわずかにとどめています。大正期に建てられた橋の親柱には照明設備がついており、その形はすぐ近くにある銀座一丁目交番のデザインの元にもなっているようです。すぐ隣りには警察博物館があり、これもなにか由縁を感じます。
これまで、このコースはな何度か通っていますが、あらためてゆっくり訪ねてみると新しいものがいろいろと目に入ります。

この日は、7,800歩コースでした。


首都高速下で健気に咲いていました。

大正8年に架けられた京橋の
親柱。照明設備付きです。

銀座のがス灯(左)は今も灯ります。(注)

明治8年に架けられた京橋の親柱。所謂、
擬宝珠欄干 (ぎぼし、 ぎぼうしゅ) です。当時
石造りは珍しかったとか。両脇には紫陽花も。

大正期の親柱をモデルにしたような銀座
一丁目交番。横には紫陽花も。


(注)1872年(明治5年)の東京大火の後、当時の東京府知事 由利公正は罹災し全焼した銀座を不燃性の建物で再建することを決断し国費を投入して、防火のため銀座煉瓦街がアーケード式で建設され銀座の名物となりました。 街路照明のためのガス灯は、銀座では明治7年から街路沿いに設置されました。煉瓦建ての建物とガス灯はモダン銀座の始まりであり、近代文明国家日本のシンボルでした。(銘板、関連記事から引用・編集)

2025年6月3日火曜日

横浜開港記念日と横浜開港祭2025

 6/2は、1859年に日米修好通商条約(注)により横浜が開港されたことを記念する横浜開港記念日で、市内の小学校は休校でした。これに因んで5/31-6/2には横浜開港祭2025が臨港パークを中心にみなとみらい21地区ほかで行われ、様々なイベントに多くの子供連れで賑わいます。今年が第44回だそうで横浜市や横浜開港祭協議会など地元の支援企業・団体もかなり力が入っていました(参加者には57ページのガイドブックが配布されます)。
イベントの一つとして、近くに住む孫の通うダンス教室の発表会も開港祭会場内で行われるとのことで、会場の臨港パークにでかけました。これまで横浜開港祭は報道では見聞きしていましたが、海沿いの広々とした敷地(新港の埋立地)にきちっと整備された後の臨港パークに来るのは初めてでした(長く工事中でした)。
発表会が終わった後に臨港パークの海岸沿いに出ると、海上保安庁の放水艦「ひりゅう」と横浜市消防局の消防艇「よこはま」が沖に揃って停泊していました。後でわかったのですが、「官公庁艇パレード」イベントとして、放水のデモンストレーションや海難救助の公開訓練(不審船捜索でした)の開始直前で、たまたまでしたが幸運でした。
この日は、11,500歩コースでした。

なお、昨年2024年5~6月の横浜開港月間でのハマフェスについては、当ブログに下記のような記事をアップしていました。

ハマフェスY165


放水デモ中の横浜市消防局の消防艇「よこはま」。
岸までしぶきが届きます。虹も見られました。
子供達はかかる飛沫に「塩っぱい!」と大喜び
でした。

放水デモ中の海上保安庁放水艦「ひりゅう」

海上捜査艇の海難救助デモ。左奥が双胴船
構造の伸縮式放水塔を搭載した放水艦
「ひりゆう(FL-01)」


「ひりゅう」(左)と「よこはま」ほか官公庁艇が
勢揃いです。中央奥はベイブリッジ、右奥が
本牧ふ頭で旧積載機ハンマーヘッドも
見えます。

ブラジル移民100周年記念碑。最初の移民船は
横浜から出たそうです。

「リマちゃん」と神妙に握手。日ペルー友好の
記念碑です。

ペルー移民100周年記念碑「リマちゃん」。
リマ市にはお姉さんの「さくらちゃん」像が
建立されているそうです。ペルーへの
最初に移民船も横浜から出向したとのこと。

正面舞台では、横浜市消防音楽隊が演奏中でした。

臨海パークの海岸線。中央奥の高い建物が
ホテルパシフィコ横浜、その手前が国際展示場
で、海岸線の突端に浮かぶのが「ぷかり桟橋」
です。

(注)日米修好通商条約と横浜開港について
最初に調印された日米修好通商条約では、1859年7月4日に米国に開港することになっていましたが、結局米、蘭、露、英、仏の5か国に対して旧暦7月1日(新暦6月2日)に開港することになりました。もともと、神奈川が開港の候補地とされていましたが、東海道沿いで神奈川宿にも近いことから外国人とのトラブルが予想されたため、当時、辺鄙で取締りやすい横浜の地が選ばれました。横浜は水深も十分で港として優れていたため、開港後は急速に発展しました。当年の開港当日には特に祝賀行事は行われませんでしたが、1年後の万延元年6月2日に、山車や手踊りで街中あげて開港を祝ったのが、開港記念日の始まりです。(ガイドブックから引用、編集)

2025年5月30日金曜日

一節切尺八の対談と演奏会

 5/30には、一節切尺八(ひとよぎり)の対談と演奏会「一節切尺八を知る!コンサート」に、江東区のティアラこうとう小ホールで参加してきました。地下鉄半蔵門線の住吉駅から歩いて5分程のところにあります。駅の傍の猿江恩賜公園(さるえ)(注1)の中にあります。
一節切尺八は、長さ30㎝、直径2.5cmほどで、筒の真ん中の少し上(歌口側)に一節だけを含む真竹で作られた小さな5孔の縦笛です。平安期に雅楽楽器から分かれ、宮廷以外でも吹ける普及版として広がり室町期には僧や武家に好まれ、江戸期には庶民にも普及したそうです。今でいうと、篠笛を縦笛にしたような外形です。今も米澤上杉家や薩摩島津家には現物が残っているそうです。この会場でも、島津家の13代当主でもある島津義秀氏が薩摩琵琶と一節切尺八を演奏され、米澤新田藩第9代当主の上杉孝久氏が先祖より伝わる一節切尺八を紹介されていました。信長公、謙信公、信玄公、一休和尚、琵琶法師ほか、戦国武将は一節切尺八を愛奏したそうです。その後、江戸中期に現在の一尺八寸の尺八の原型として定着したとか。

一節切尺八の歴史に関する対談や伝わる5種の調子(管の長さ)での古曲演奏(注2)も、いつもの尺八演奏会とは違って、楽器の由来を知り、一節切尺八に近い雅楽尺八、三節切、普化尺八の音色を聴き、聴き比べ、調子の違いを感じる場で、珍しく教育的な企画でした。
今年が一節切尺八の中興の祖大森宗勲の没400周年にあたり、今回の企画はそれを記念するイベントシリーズの一環で、この日が京都に次いで2回目とのこと。今回の企画が「庶民的で子供にも扱いやすい楽器 一節切尺八をこの時代に再度蘇えらせて尺八文化を子供世代で盛り上げたい」との主旨で関係者が集ったとのこと。素晴らしいことだと思いました。
大分前私も30~40歳代で横浜杉田の教室に通った三橋先生の発案、企画、制作だそうで、旺盛な創作意欲にはいつもながら感心します。この日も対談に演奏にと、元気一杯でした。
そこで、一句、

一節切古曲奏でる夏木立

この日は、電車移動が長く、6,500歩コースでした。

開演前ののティアラこうとう小ホール

会場のティアラこうとう
会場のある猿江恩賜公園入口

この日のチラシから

この日のチラシから(2)

(注1)猿江恩賜公園について
猿江恩賜公園は、東京都江東区にある都立公園で、歴史的に貯木場としての役割を持っていました。江戸時代には徳川幕府の貯木場として使用され、その後明治政府の御用達の貯木場となりました。
公園の南園部分は、昭和天皇(当時の皇太子裕仁親王)の成婚を記念して、1924年に東京市に下賜され、1932年に猿江恩賜公園として開園しました。戦後、北園部分は貯木場として使用されていましたが、1972年に廃止され、1981年に追加開園されました。
また、猿江恩賜公園は東京大空襲の際に犠牲者の仮埋葬地となった歴史も持っています。現在では、広場や野球場、テニスコートなどの施設が整備され、地域の憩いの場として親しまれています。  (公園HPから引用・編集)
(注2)一節切尺八の5調子
当初は、壱越、平調、双調、黄鐘、盤渉の5種類の調子の一節切尺八が存在し使い分けていましたが、後世には黄鐘管だけに集約されることになりました。つまり各調子の曲を黄鐘管一管で吹き分ける必要が生じたと考えられています。このために第一孔と第三孔の位置が曖昧な形になったと推測されています。今の尺八では2オクターブの音域が出せますが一節切尺八は1.5オクターブと限られ単独演奏とともに歌曲の伴奏として使われていたそうです。

2025年5月27日火曜日

旬の花鯛とバイ貝

 5/26夕には野毛で写真仲間と会うことになり、昼過ぎに散歩も兼ねて出かけました。会場に行く前に、JR桜木町の駅前にあり、いつも立ち寄る魚屋で、この日は和歌山産の花鯛と神奈川産の黒鯛を見かけました。鯛は夏の産卵期に合わせて今が脂ののる時期だそうで、形もいいし見るからに活きもいい品でした。迷いましたが、この日は花鯛2匹を買っていくことにしました。自宅での塩焼き用と煮付け用です。結果的に、十分正解でした。
その後、動物園通り沿いにあり、地元でも魚が評判の小さな立飲み店で待ち合わせ、会食を楽しみました。なかでもバイ貝の旨煮が絶品でした。バイ貝はほぼ通年で(9~6月)獲れるそうですが、いまが抱卵期で旬だそうです。名前の「バイ」が「倍」に通じる、縁起の良い貝とのこと。
この日は、久々に山海の旬を堪能しました。いつかこのサイズの鯛を釣ってみたいものだと思いながら、重い手土産をぶら下げて、初夏の夜雨の中帰路につきました。
この日は、7,800歩コースでした。


バイ貝の旨煮。素材も調理も絶品でした。
縁起のいい名前にあやかりたいものです。
串で難なく尻尾まですっと取り出せ、
卵とはらわた丸ごといただけます。

和歌山産の花鯛。いい形です。大漁だった
ようで割安でした。
この日の「おすすめ」でした。最近よく見る
メニュー用の独特の書体です。
神奈川産の黒鯛。大ものです。


往く途中にご近所の庭で
オランダカイウ(海芋)を見かけ
ました。こちらもまた旬でした。

2025年5月24日土曜日

地元「いたち川」の由縁

 地元の横浜南西部(栄区、港南区)には、この辺りでは一番高い円海山を水源として、相模湾沿いの鎌倉に流れる柏尾川(かしお)と横浜港沿いの桜木町に流れる大岡川があります。さらに柏尾川の南側の支流として「いたち川」、大岡川(上流は日野川とも呼ばれます)の支流として笹下川(ささげ)が、それぞれ流れています。
いまでは、いずれも街中を流れる川として治水が整備され、柏尾川、大岡川はともに両側の堤防に長く桜が植えられて花見の場所として親しまれています。いずれの川も、沿道は私の散歩道にもなって四季を楽しませてくれています。
「いたち川」については、以前からちょっと変わった、(子供にも)覚えやすい名前の川だな、と思いつつ、文字通り、その昔動物のいたちが近くに多く棲んでいたのかな、くらいに勝手に想像していました。
最近、地元新聞で、「鎌倉時代、この地域は、鎌倉から北の相模、武蔵の国に通じる鎌倉街道が通る交通の要所であり、軍事戦略上も重要な場所でした。そのため、旅人が「いざ出立」として安全を祈る儀式を行ったことから、「イデタチ川」と呼ばれていたそうです。それが時を経て「いたち川」に変化したと考えられています。室町時代の記録によると、関東公方が武蔵方面へ出征する際に「いたち川の宿」で昼食をとり、安全を祈る習慣があったとも伝えられています。」と知り、遅まきながら、名前の由来に納得した次第です。
たまたま、5/24にもいたち川沿いを歩いていると、写真のような看板を見かけました。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した吉田兼好(1283~1352年頃、京都生まれ)もここを訪ね、「いたち川」の名を詠み込んで以下のような風流な歌を残しているそうです。兼好法師もこの川の名前に興味をもったのかもしれません。

かにわが ちにしひより りのきて
ぜだにねやをらはざるらん

  
私が旅に出てからだいぶ日がたったけれど
  私の寝室にもさぞかしほこりが積もっているだろうな
  風が吹き払ってくれることもないだろうし  (詩碑より引用)


この川が700年前から地元の人々の生活、祈りや旅の記憶に関わっていたことがうかがえ、日頃から何気なく通るところにも生い立ち、由縁を感じたところです。
この日は、10,000歩コースでした。


吉田兼好の詩碑です。

ここには多くの鯉が定住しています。
確か、近くにはカワセミの巣も
ありました。

いたち川。中央右奥は栄区役所です。今年も
そろそろこの河原では半夏生が見られます。

因みに、いたち川については、これまでにも以下のような記事を当ブログにアップしていました。
2024年6月には、  ヤマモモの季節
2022年7月には、  初夏の雨日和

2025年5月21日水曜日

カンガ展@本郷台あーすぷらざ

 5/21には、いつもの句会のために本郷台に行った折に、会場のあーすぷらざ(注1)で丁度開催中の「 東アフリカの布 “カンガ” を知ろう!展 」を観てきました。カンガは、東アフリカで子供から老人まで幅広く使われているカラフルな図柄の万能生活敷布です(注2)。ユニークなのは、その布の中央っちょっと下に、スワヒリ語の格言などのメッセージ「カンガセイイング」が小さく描かれていることです。アフリカの人々はカンガをまとったり贈ったり飾ったりすることで、心の中にあるメッセージを伝えるそうです。今年8月に横浜で開催される第9回アフリカ会議(TICAD9)に合わせた企画だとか。
カンガのメッセージとして「しゃべってばかりいないで、しっかり仕事をしなさい」、「この世は常に試される場所」、「お母さんに言い返しちゃダメ」など、を見かけました。展示されたカンガひとつひとつの下に置かれた小さな銘板にメッセージが翻訳されて貼り出されています。
メッセージツールを兼ねた布を身に着け発信しているとは、今どきのSNSによる個人的なメッセージ発信にも通じる面白い習慣だと思いました。
そこで、一句、

初夏の風カンガの布のメッセージ
薫風や赤道からのメッセージ

この日は、5,800歩コースでした。体調維持にはもう少し歩く必要があります。



カンガは日常生活から儀式まで幅広く
使われているようです。

カンガとメッセージ「カンガセイイング」

カンガは被服として全世代で使われている
そうです。

カンガ展の全景

(注1)正式には「神奈川県立地球市民かながわプラザ」で、指定管理者が公益財団法人青年海外協力協会となっています。桜の頃の関連記事を当ブログの下記にアップしていました。

「栄彩会展」と本郷 「あーすぷらざ」の桜並木

(注2)カンガについて
カンガは、東アフリカの文化を象徴する色鮮やかな布で、特にケニアやタンザニアで広く使われています。その歴史は19世紀に遡り、ザンジバルやモンバサの女性たちがハンカチ用の布を縫い合わせて大判の布として利用し始めたことが起源とされています。
カンガの特徴的な点は、中央に配置された「カンガセイイング」と呼ばれるスワヒリ語の格言やことわざがプリントされていることです。これにより、着用者の気持ちやメッセージを表現する手段としても使われてきました。
現代では、カンガは衣服としてだけでなく、赤ちゃんのおくるみ、テーブルクロス、壁掛けなどのインテリアとしても活用されています。また、特別な儀式や式典で着用されることもあり、東アフリカの人々の生活に密接に結びついています。
さらに、カンガはグローバルなファッションの舞台でも注目されており、世界中のデザイナーにインスピレーションを与えています。その独特なデザインと文化的意味合いが、伝統と現代性を融合させる素晴らしい例として評価されています。(紹介記事とCopilotを引用・編集)


2025年5月19日月曜日

バラ園と「さつき盆栽展」

 5/18には、近くの横浜市立こども植物園のバラ園と丁度園内で開催中の「さつき盆栽展」を観てきました。バラ園は前日の風雨でかなり花弁は散っていましたが、係(注1)の方によると、花のまだ元気な部分、これから咲く部分が残ったようで、ある意味では掃除された面もあるそうです。なかなかうまい言い方があるものだと思いました。とまれ、園内では、まだまだ見応えがある植栽が並び、匂いも格別でした。
管理棟で開催中の「さつき盆栽展」は、地元の「横浜さつき愛好会」の方々の力の入った企画でした。たまたま会場で丁寧に説明してもらった方が、盆栽の鉢の前に添える草を育てた小さな鉢「下草(したくさ)」(注2)の愛好家の方で、いろいろと教えてもらってきました。主役の盆栽の引き立て役だそうで、目立ちそうで目立たないのが下草には丁度良いそうです。なんとも微妙なバランス感覚でわび、さびに近いのかもしれません。茶会や書道展などにも出品されるそうで、下草それだけでも展示会があるほど、種類も多く、育て方も様々で、日々の丹念な世話が端的に表れて面白い趣味だそうです。盆栽が比較的乾燥した風情ですので、下草は対照的に水分を含んだ潤った感じのものが多いようです。やはり、盆栽は男性の、下草は女性の愛好家が多いとか。メインの盆栽をまずは単独で楽しむのは勿論ですが、メインと脇役の下草の取り合わせも盆栽の魅力、楽しみ方の一つとのこと。松や紅葉の盆栽を多く見てきましたので、盆梅とともに、華やかなさつきの盆栽もまた一興です。
バラとサツキ盆栽の協演は、ただ、両方ともいまが旬で、たまたま時期が同じだっただけとのこと。
ここで、一句、

バラ園の花弁散らす青時雨
下草に引き立てられしさつきかな
えごの花下向き顔の残りけり

こども植物園には、京急井土ヶ谷駅から市営バスで15分行くと入口まで行けます。
この日は、7,700歩コースでした。
因みに、昨年5月にも、ここを訪ねて下記のような記事を当ブログにアップしていました。

こども植物園のバラ園とアンネのバラ







エゴノキも開花時期でした。前日の
風雨で、花弁は大方散っています。

バラ園の全景

メインの樹木に加えて手前の下草との
取り合わせも盆栽の面白さとのこと。

花の咲く盆栽も華やかです。

強い風に打たれて育ったかを思わせます。


下草を集めての展示です。下草にも多くの
種類があるようで、花を付けているのも
あります。

会場入口から

(注1)指定管理者の公益財団法人横浜市緑の協会の方でした。こういう施設はこのケースが多いようです。
(注2)下草
盆栽に添えられる草の鉢は「下草(したくさ)」と呼ばれます。これは、盆栽の主役である樹木を引き立てるための名脇役として配置されるものです。下草は単独で鑑賞することもありますが、一般的には盆栽や掛け軸、水石などと組み合わせて飾られます。
その目的は、盆栽の世界観をより豊かにし、自然の風景を縮景として表現することにあります。例えば、山野草やシダ類などが使われることが多く、季節感を演出したり、盆栽の樹木との調和を生み出したりする役割を果たします。また、床の間に飾る際には、掛け軸や添え物との調和も求められるため、全体のバランスを考えて配置されます。(関連HPから引用・編集)

2025年5月14日水曜日

大網少年

 5/5には、最寄りの市営地下鉄 上大岡駅で、大きな網(タモ)を担いだ釣り少年を見かけました。竿や体つきに比べても大きな網で、自分の上半身が入るくらいです。いわば「大網少年」でしょうか。
大物を狙う気持ちがよく現れた素直な格好に、微笑ましさを覚えました。これからもこの心意気で腕を磨いて、釣り大好きな、大物狙いの大人になってほしいと思います。
ちょうどこの日は子供の日でした。


「大網少年」

2025年5月13日火曜日

初めてのトルコ旅行 その10 ー隊商の宿とTV再放送「シルクロード」

 少し遡りますが、4/25には、NHK「時をかけるテレビ」の一環で、1980〜1984年(昭和55〜59年)に30回に亘って放送された連続ドキュメンタリ「NHK特集 シルクロード 第2部」のひとつ「第15集 キャラバンは西へー再現・古代隊商の旅ー」を再放送していました。はじめて放送された時期にも番組の存在やシルクロードブームのことは憶えていますが、当時はあまり興味をもたず通り過ごしていました。そういうと舞鶴の実家にもこの番組のDVDが残っていました。両親も晩年の海外旅行でシルクロードにどこかで触れたのかもしれません。

番組では、シルクロード西側のバグダッドからユーフラテス川西側を北西に500Km程移動したところにあるシリア砂漠周辺の都市 ドゥラ・ユーロポス(隊商を守る城塞都市だったそうです)から砂漠中央にある隊商宿パルミラ サライに至るまでの230Kmの区間を地中海に向けて西に、古代から続いた隊商のスタイルで移動する、という古代隊商の再現番組でした。(キャラバン)サライは「隊商の宿」を意味します。半径500Kmの円形のシリア砂漠の約半分をラクダ212頭で隊商を編成し8日かけて移動します。

この再放送に興味をもったのは、この3月に経験したトルコ旅行の途中、トルコのアナトリア半島中央にある旧都コンヤで、かつての隊商宿跡を垣間見たことからでした。番組に出てくるパルミラサライはシリア砂漠の真ん中にあるものの、そのイスラム風の門壁などはトルコ旅行中コンヤで見たスルタンハヌ・ケルヴァンサライ(注)のものとそっくりでイメージが重なりました。

番組からうかがえる当時の隊商のイメージは以下のようなものでした。

・撮影当時では、ラクダは殆どが食肉用に飼育されており、すでに運搬用は皆無に近く、その40年前の1940年代にほぼ消滅していた。これは、自動車の普及とともに、ラクダを運搬用に使うと食肉としての肉質が劣ることにもよる。NHK取材・学術調査班(10人)はラクダを保有するベドウィンに隊商の再現を無理に頼み込んだとか。
・当時再現された隊商の構成は、先頭で200Kg/頭の荷物を担ぐオスのラクダ、それに続いて、そのほぼ二倍近くの数のラクダが連なって移動する。後続のラクダは、ほぼオスと同数のメスと同じく同数の子供のラクダ、それに続いて補充・訓練用のオスラクダで構成される。よく映像で映るのは先頭のオスラクダの隊列だけの場合が多いが、実際はラクダ家族の大規模な集団移動となる。途中でラクダを売買することもあった。
・移動中に隊列を整えるために牧童13人も歩いて加わる。従って、移動速度も人間並みになる。砂漠の中の移動では、牧童の誘導もあって、ラクダが慣れてくると、山登りと同様に、移動の効率性から自然と一列になる。(それにしても牧童の負担は大変なものだと思います。)
・ラクダは途中で草を食べられるようにラクダを繋ぐ綱は付けない。これによってラクダの移動中の餌は運ばない。このために途中で隊列が乱れないように牧童が歩いて随行する。ラクダは見かけによらず臆病で何か衝撃があるとすぐチリヂりに離散する習性がある。寝る時にもリーダ役のラクダだけは前足を縛る。
・メスの乳液は子ラクダにも随行する人間にも移動中の大事な水分源にになる。また、ラクダの糞も大切な燃料になる。
・歩幅の大きいオスには前後の足をロープで縛り周りの速度に合わせる工夫をしている。
・隊商は、5~6Km/時の速度で移動し、一日に5~6時間ほど、約25~36Km程移動する。このため、この間隔で大小の隊商宿(サライ)がある。(江戸時代の宿場町のようなもの。)
・ラクダには4~5日に一回水を飲ませる必要があり、ラクダは1回にドラム缶一個ほどの量を飲む。ラクダの移動距離に合わせて、砂漠の中でも100Kmの間隔で井戸が掘られている。中にはローマ時代のものもある。深さは25m程度でロバで繰り返し水を汲み上げる。井戸を守るために井戸ごとにその周辺にベドウィン家族がテントで住み、集落がある。  上記()は私の感想です。

お陰で、シルクロード、隊商や宿場のイメージが具体化し、いまさらながら現実味を帯びてきた次第です。4年かけてシルクロードを横断して映像化した世界ではじめての企画だったそうで、なかなか貴重な、骨太の映像だと思いました。以降の日本でのシルクロードブームの火付け役になったそうです。いまから思うと、この番組が初めて放送された1984年頃を想うと、バブル期ならではの番組だったのかもしれません。ふんだんな時間と費用がかかっています。
ただ、パルミラの遺跡は、後にIS(イスラム国)によってかなりが破壊されたそうで、その意味でも映像の価値は上がっているようです。

コンヤ訪問については、今年3月のトルコ旅行の下記の記事に様子を書いてアップしていました。

初めてのトルコ旅行 その3ーセルジューク朝旧都コンヤとシルクロード隊商宿跡



コナン市街にあるスルタンハヌ・ケルヴァンサライ
の門壁

(注)スルタンハヌ・ケルヴァンサライ
トルコの旧都コンヤにある歴史的なキャラバンサライのひとつで、特に有名なのがスルタンハヌ・ケルヴァンサライです。このサライは1229年に建設され、オスマン朝以前のセルジューク朝時代の隊商宿で、なかでも最大規模のもの。コンヤと主要都市アクサライを結ぶ幹線上に位置し、交易の要所として重要な役割を果たした。
このサライは、厚い外壁に囲まれた堅牢な構造を持ち、中庭には礼拝所があり、周囲には食堂や宿泊施設、ラクダをつなぐ場所などが設けられている。(トルコサライ紹介HPから引用・編集)

2025年5月12日月曜日

新橋古本まつりと古切符と「ガード下街」の今

 5/12午後には、写真仲間でこの7月に予定している写真展のプリント入稿をFフォトギャラリー銀座で済ませた後に、久々に銀座一丁目から銀座八丁目まで、そして新橋までゆっくり歩いてきました。
途中、新橋駅西口前のSL広場では、この日から「新橋古本まつり」が開催中でした。得意分野の違う20店ほどの古書店がテントを張って並び、土地柄でしょうか、主に通りがかりのサラリーマン向けを狙ったような面白そうな本が並んでいます。聞くと、年に4回、各回1週間の予定で行われるそうで、早速に開催日の案内名刺をいただきました。回るうちに思いつくまま、単行本1冊、文庫本6冊を買っていました。家族から本は今から増やさないように、とは常々言われてはいるのですが、ついつい…。衝動買いでした。
変っていたのは、古い鉄道切符が、本棚の横で、「切符(硬券、軟券他)」として大きな籠に入れられて大量に販売されており、人だかりができていたことです。ここが、明治5年の鉄道発祥の地で、すぐ近くには蒸気機関車が今もおかれ、近くの線路反対側の東新橋には最近できた「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」もある、鉄道所縁の場所とはいえ、誰が古切符を買うのかとしばらく見ていました。20〜60歳代の男性が殆どで鉄道ファン(「切鉄(キッテツ)」とでもいうのでしょうか)のようでした。廃線になった駅までの切符などが人気だそうで、開催初日ということもあったかもしれません。自分の行った駅の切符くらいは記念にと保管していますが、これからは買えない珍品とはいえ、マニア(好き者)にはなかなか追いつけません。

また、新橋から有楽町の鉄道の下の長い通路(「ガード下街」(ガードシタガイ)と言っていました)もいつの間にかすっかり様変わりしていました。昭和の後半〜平成の前半には両脇の全てが飲食街でしたが(仕事帰りによく利用しました)、いまは綺麗に改装され、有楽町側は屋台風の居酒屋の集まる飲み屋街に(「○△横丁」など)、新橋側はおしゃれな洋装品店街に変わっています。時間が早かったこともあり、そんなには混んでいませんでした。
かつての「サラリーマンの聖地」も今流に形を変えていました。
この日は、11,500歩コースでした。

因みに、銀座〜新橋界隈には昨年6月の山王祭のときに見物に訪れていました。
当ブログに下記のような記事をアップしています。

6年ぶりの日枝神社山王祭の神幸祭


新橋古本祭り。左に機関車が置かれています。
粒ぞろいのなかなか面白そうな本が安く
買えます。

新橋駅西口(西新橋)のSL広場のシンボルです。
これは前から変りません。

ガード下街新橋側の洋装品店街。ここは
大きく変わりました。

京橋で紫陽花

 6/2午後には、7月の写真展への出展作のプリント色合わせのために、Fフォトギャラリー銀座を再度訪ねました。 その帰路には、銀座の隣町の京橋に出て、JR東京駅まで歩きました。途中、銀座中央通りと首都高速の交差点で、街中で咲き始めたばかりの紫陽花を見かけました。 ここは、江戸期には...