2025年9月11日木曜日

烏森神社@新橋に立ち寄り

9/10には虎ノ門で用があり、帰りには新橋まで歩きました。
久々に新橋駅前の西南側のビルの谷間にある烏森神社(からすもり)を訪ねました。新橋界隈の店の商売の神様という風情は今も変わらず、門前で礼をして通り過ぎる人も見かけますし、お参りする人も地元の方が多いようです。古くから地元に根差し大事にされてきた神社と感じます。(注)
また、神社前の小路は以前には「(烏森)神社横丁」と呼んでいたと思いますが、余り変わっていませんでした。1980年(昭和55年)代の頃には、日比谷、虎ノ門や神谷町での仕事の後に、この横丁に仲間と立ち寄ったことがよくありました。10席ほどしかないような小さな飲み屋が沢山並んでおり、満席であれば次々とはしごして探した記憶があります。その頃このあたりは「サラリーマンの聖地」と言われ賑わっていました。
神社とともにこの横丁も、変わり映えしない再開発に流されず、リフレッシュする場として残ってほしい場所のひとつです。その頃には、川崎の駅前にあった「望郷横丁」、横浜の屋台街も同じような雰囲気の飲み屋街でしたが、ともに大分前になくなりました。
この辺りには、かつての花街の雰囲気が残っており、いまも明治期創業の料亭「古今亭」や「多㐂本(たきもと)」など、新橋芸妓組合が存在していた名残が見られるとか。
この日は、10,000歩コースでした。


参拝者が続く静かな一角です。新橋駅から
歩いて2分の場所とは思えません。

この神社前の小路は、「(烏森)神社横丁」と呼ばれ
ていました。様子は大きくは変わっていません。
背後に2分戻ると鉄道公園を経て新橋駅烏森口です。

ちょっと変わった鳥居です。昭和46年に
できたモダン造りだそうです。

(注)烏森神社について
・創建は平安時代・天慶3年(940年)平将門の乱の際、鎮守府将軍・藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国の稲荷神社で戦勝祈願をしたところ、白狐が現れ白羽の矢を授けたという伝説があります。その後、夢に現れた白狐の導きで「神鳥(烏)が群がる場所」に神社をここに創建したのが烏森神社の始まりとされています。
・江戸時代には「江戸三森」の一社として崇敬椙森神社(日本橋)、柳森神社(神田)と並び、稲荷信仰の中心として賑わいを見せました。初午の稲荷祭では江戸で一二を争うほどの盛り上がりだったと伝えられています。
・明暦の大火(振袖火事)を免れた奇跡の社で、江戸市中が焼け野原となった中、烏森神社だけが類焼を免れたことから、神威の強さが信仰をさらに高めました。
・カラフルな御朱印や「心願色みくじ」など、現代的な感性を取り入れた授与品が人気で御朱印ブームの火付け役とも言われています。
(神社HPなどから引用・編集)

2025年9月8日月曜日

八景島シーパラダイスでの海の夏物撮影


 9/7には、横浜・八景島シーパラダイス(地元では「シーパラ」と言われます)をイルカ、クラゲなど、今年最後の夏物の撮影に近くの写真仲間と訪ねました。
八景島は、京急金沢八景駅からモノレールの横浜シーサイドラインに10分弱乗り八景島駅から海沿いを歩いて10〜15分の所にあります。ここを訪ねるのは久々で、10年程前に島内のアジサイ園の撮影に来て以来です。この日は、この島の水族館施設にあたるアクアミュージアムなどを初めて観てきました。ここは、全国でいくつもの水族館がグループとなって経営をしているようで(品川、仙台、上越、名古屋、沖縄、台湾…)、きちんと管理されています。他にも、ヨットハーバー「八景島マリーナ」、遊園地や海釣り(釣り堀)施設なども併設されています。また、展示生物の育成には東大の三浦臨海試験場も協力しているようです。また、エサ造りや魚の養生など、バックヤードも見せてくれます。
水面でジャンプなどして大きく動き回るイルカも直近の水槽で不規則に動くクラゲや熱帯魚など魚類も、撮影には捉えずらい被写体です。最近では、カメラ側で追跡してピント合わせをする機能などが色々と出てきていますが、この日はこれらをたまには思い出しながら使うトレーニングの場でもあります。
帰りには、金沢八景の駅前でクールダウンを兼ねてしっかりと反省会をして、この日の撮影での気づきの交換を思いつくままにしてきました。

この日は、15,200歩コースでした。結構歩きました。


シンクロしたパフォーマンスです。

お馴染み、海水浴の嫌われ者の赤クラゲです。

ここの主役です。

保護色でしょうか。

ここの名物ステージだそうです。シロイルカと
気の合ったダンスを見せてくれています。

おばけクラゲというそうです。笠の大きさは
30㎝程はあります。

5頭のバンドウイルカのシンクロ演技です。



アクアミュージアム正面。大きな三角屋根が
八景島のシンボルでもあります。

往路、八景島の岸壁で小学生に
ハマギスが釣れていました。
得意気でした。

激流の中をボートでくぐり
抜けるアクアランド

背景左側は平潟湾越しの住友重機横浜工場で、
同右側の山は野島(のじま)です。
シーパラダイス入口には、懐かしいメリーゴウ
ランドも活躍中でした。馬の表情が面白い。

平潟湾越しの野島(正面奥)。右には海の砂浜
公園があります。親子3代で釣りに来られて
いましたが、大人は暑さでテントに籠り
子供が頑張っていました。(笑) エサは
ジャリメとのこと。舞鶴にいた頃にはこの
時期砂浜海岸で私もよくキス釣りをしました。

平潟湾。金澤八景駅に向かう帰りのシーサイド
ライン車中から。右側ビルの奥に野島が見え
ます。この入江はハゼの釣り場でもあります。

2025年9月5日金曜日

不忍池の蜂巣

 先日、つくばで用があり、帰路に、枯蓮(黒花托、蜂巣とも呼ばれます)の様子を観れればと不忍池に立ち寄りました。
この日には、まだ花をつけている株もパラパラ見かけましたが、花弁が散り、殆どは黒花托ないしは黒になる前の一部に緑~茶色の残る花托に変化していました。地下では、これから冬に向けて蓮根が大きくなるそうです。
蓮池の初秋を感じさせてくれます。
この夏には、近くの旧岩崎邸庭園で撮影会があったこともあり、3回ここを訪ねました。お陰で撮影ポイントも段々とわかってきた気がします。
因みに、初回7/21に訪ねた折の記事を、当ブログの下記にアップしていました。様変わりです。

台風一過の上野 不忍池のハスと風鈴

 

不忍池の蓮池全景。背景は寛永寺の辯天堂です。

2025年9月4日木曜日

今年の初秋刀魚

 9/4には、最寄駅前にある行きつけの店での会食で初秋刀魚を楽しみました。隣席で賑やかに食べているのに誘われて、我々もついつい焼きを注文してみました。
今年の秋刀魚は、全国の漁獲量が前年同期比5割多いと報じられ、著しい不漁だった前年までと比べると大型で安めと聞いていましたが、実際に関東でも、その通りであることを実感しました。サイズはここ10年くらいは小型化し(注1)、私の場合には、ここ数年はサイズが小さすぎて塩焼きを諦めることが続いてきました。これとともに秋刀魚刺しも見かけることが減っていたように思います。
この日の秋刀魚は北海道 道東の、釧路と根室の中間にある厚岸(あっけし)産でしたが(注2)、サイズ、ボリュームとも小型化前とさほど変わらない印象で、値段も格安でした。周りを見ても、皆さん焼き秋刀魚を注文しているのには驚きました。
秋刀魚は、はじめは根室沖で漁穫が始まり、三陸、福島、茨城と徐々に魚群が南下して太り脂ものってくるそうですので、これからも楽しみです。ただ、これまでも繰り返してきた収穫のし過ぎにも注意し、長く続いた不漁期の苦い経験を活かしたいところです。
そこで、一句、

秋刀魚焼くビルの隙間に弾む声
形もよし今年の秋刀魚久しけり
秋刀魚焼く久し振りかなフルサイズ


なかなか良い形の塩焼きです。

店頭では氷水の中に大型の秋刀魚がおかれ
販売中でそのまま持ち帰りもできます。

厚岸(あっけし)というと牡蛎の産地と聞いて
いましたが(注2)、秋刀魚やアサリ、シマエビ、
毛ガニなどの漁獲もあるようです。

(注1) 秋刀魚などの浮遊魚の小型化について、当ブログの下記の記事にコメントをアップしていました。

ビッグなアジと魚の小型化

(注2) 厚岸の牡蠣
厚岸は「牡蠣の町」として全国的に有名で、通年で生食用牡蠣を出荷できる日本唯一の地域です。冷涼な海水が牡蠣の成長をゆっくりにし、旨味が凝縮されるのが特徴です。(厚岸町のHPから引用)

2025年8月30日土曜日

大徳寺納豆一久のこと

 8/25には、残暑払いの会食の折にかつての同僚から大徳寺一久(いっきゅう)の「大徳寺納豆一久」を戴きました。大徳寺の塔頭 真珠庵を開祖した一休宗純禅師から直伝の製法が500年以上にわたって代々継承されてきたとのこと(「一子相伝」と家族で継承してきたそうです)。屋号の「一久」もこれに因んでいるとか。
大徳寺納豆は、京都の大徳寺の門前に構える老舗「一久」ほかで作られてきた大豆の発酵食材です。寺院で保存性のよい貴重な蛋白源として長く利用されていたそうで、「寺納豆」とも呼ばれます。もともとは中国四川・広東地方の「豆鼓(とうち)」を鑑真和尚や留学僧が伝えた食材とのこと。
製法をみると、大徳寺納豆は、蒸した大豆にはったい粉(炒り大麦の粉)をまぶし「麹菌+塩」で数ヶ月〜1年以上発酵させる乾燥系・塩辛系の納豆です。一般的な「糸引き納豆」とは、無塩で納豆菌を使うことと発酵期間が数日〜1週間であるところが違うとか。また、大徳寺納豆は、真夏の土用の時期に仕込まれ自然発酵させ、天日干しと撹拌を繰り返すことで保存性と旨味を高めます(一年物という意味で、この季節の旬の食材です)。製法は、味噌、醤油に近いとか。
できた食材としては、色は真っ黒の粒粒ですが(元々黒大豆を使いますが)、食べてみると発酵味が強く香ばしく大豆の風味があとに残ります。調味料や食材、特に酒肴として好まれるそうです。私も日本酒のつまみとして、歴史を感じながらしばらく楽しめそうです。
因みに、「はったい粉」では、郷里の舞鶴にいた祖父の実家が福井で、私が子どもの頃福井の親戚の粉屋さんから毎年はったい粉が大量に贈られてきていました。祖父が湯でかいて美味しそうに毎日食べていたことを思い出します。今思うと、老人向きの健康食だったようです。自家での味噌造りのときもこれを使っていましたので、製法のルーツは同じかも知れません。


大徳寺納豆。風味が残ります。はったい粉が
まぶしてあるため粒の大きさはまちまちです。
 
    栞に歴史と製法が記されています。
 
大徳寺納豆一久

2025年8月27日水曜日

ドローン映画「ランド・オブ・バッド」から

 先日には、この夏に観ておきたいと思っていたドローンをテーマにした映画「ランド・オブ・バッド」を猛暑の中でしたが、横浜で観てきました。
この映画は、フィリピン沖の島に立てこもるテロリスト集団に拉致されたCIAエージェントの救出任務に、米軍特殊部隊デルタフォースの3人で編成されたチームが当たります。実在する戦闘ドローン「MQ-9リーパー」(注2)の支援を受けて、多くの抵抗と損害を受けながらもぎりぎり救出し脱出するという、半分リアルな戦争アクションでした。
知りたかったのは主人公の演じる「航空支援連絡官(JTAC:Joint Terminal Attack Controller/統合末端攻撃統制官)」の存在と役割です。この映画では、JTACは米空軍所属の下士官(軍曹)でしたが、米軍では空軍・海兵隊・海軍などがそれぞれ専門の訓練施設でJTACを養成しているとか。自衛隊からも要員を送り込んでいるそうです。
JTACは、「精密攻撃」の中で地上部隊とドローンによる近接航空支援をつなぐ重要な役割を担っていて、前線の眼であり、誤爆を防ぐ戦闘の声だそうです。映画でも、彼らの存在が戦術の要としてある作戦事例を通してリアルに描かれることに驚きました。(注1)
最近、ドローンをテーマにした映画が幾つか公開されています。ドローンにも興味のあるいち映画ファンとしては、これまでなんとかフォロウしてきています。思いつくところでは、以下があります。

・『ドローン・オブ・ウォー』。
戦場にいない兵士の遠隔操作による現代の戦争の倫理的ジレンマを描いた作品でした。
・『エンド・オブ・ステイツ』。群状に編隊飛行するドローンによる爆撃が物語の鍵を握るアクション映画。現実の戦争技術とのリンクも話題になりました。
・『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』。ドローン攻撃の是非を巡る軍事サスペンス。少女の命とテロリスト排除の間で揺れる決断が描かれていました。
『DRONE/ドローン』。連続殺人鬼の魂がドローンに乗り移るという異色ホラー映画でしたた。

進化するドローンは単なる無人航空機にとどまらず、地上前線のJTACとの連携(
戦場で航空機に対して「どこを、いつ、どう攻撃するか」を直接指示する近接航空支援とともに攻撃の最終的な許可と中止の判断をするクリアランスコールの役割ももちます)により、現場の人間の精密な判断力をもった”遠隔有人”航空機になろうとしているように思いました。ドローンの進化とともにドローン映画の進化も期待したいところです。
また、映画を通して、JTACとドローンの関係は、これからの人間と生成AIとの係わりを示しているようにも思いました。
この日は、映画と暑さもあって(言い訳ですが) 5,200歩コースでした。

(注1)映画「ランド・オブ・バッド」のあらすじ
舞台は、イスラム過激派の拠点となっている南アジア・スールー海の孤島。
米軍特殊部隊デルタフォースは、拉致されたCIAエージェントの救出任務に乗り出します。
その部隊に加わったのが、航空支援連絡官(JTAC)として初任務に臨むキニー軍曹(リアム・ヘムズワース)。
しかし、目的地到着直後に反政府ゲリラの襲撃を受け、部隊は壊滅寸前に。
孤立したキニーが頼れるのは、遠く離れた空軍基地からMQ-9リーパー無人機を操るベテラン操縦官(元空軍パイロット)、グリム大尉(ラッセル・クロウ)のみ。
通信とドローン映像を通じて、ふたりは「空の眼」で戦場を俯瞰しながら、脱出と任務遂行に挑みます。(映画.comから引用)

(注2)「MQ-9リーパー」の機能
中高度・長時間滞空型(MALE型)、固定翼形式の遠隔操縦形UCAV(Unmanned Combat Aerial Vehicle:無人戦闘航空機)。最大飛行高度は約 15,200メートル、通常の監視運用高度はおおよそ 6,000〜12,000メートル。これは地上からの視認や射程を避けつつ、センサ性能を活かせるバランスの取れた高度。昼夜、曇の有無を問わず高倍率ズームカメラにより中高度からでも人物や車両を識別できる。
 MQ-9にステルス性はなく、大型でプロペラ音もあるため中高度での運用を基本とし、地上からは肉眼で見えず、音も届きにくい空域で活動する。「隠密性」よりも「持続的な監視と精密攻撃能力」に重きを置いた設計となっている。20時間以上の滞空能力をもつ。操縦は空軍基地内の地上ステーションにて2名(操縦+センサ操作)で行われる。
「リーパー(Reaper)」は「刈り取る者(収穫者)」の意味から転じて「任務を完遂する者」「成果を収穫する者」の意味とともに、黒いローブをまとい大鎌を持った死の象徴としての「死神(Grim Reaper)」の意味も含まれるとされる。
日本では、2022年に鹿児島県の海上自衛隊鹿屋航空基地で米軍により運用されていたが、その後、沖縄・嘉手納基地へ移転し洋上監視任務などに活用。 今後の導入も計画されている。(関連HPから引用、編集) 

2025年8月26日火曜日

五反田で暑気払い

3/25には、以前の職場の同僚と五反田で暑気払いをしてきました。立秋が過ぎても猛暑日が続くこの頃にはピッタシの企画でした。
西五反田にあったかつての職場のオフィスビルに近い居酒屋「多吉」がこの日の会場だったため、若干早めに到着し周辺を久々に歩くことができました。
まず驚いたのは、かつて通ったオフィスビルがこの5月からの解体工事中だったことです。2026年3月には取壊しが終了する予定で、その後33階の高層マンションビルの建設が予定されているとか。このビルには2015年から6年程通いましたが、思い出も多いビルです。ここは、1989年に建てられ元々万年筆のパイロットさんも上層階に入居されていたそうで(当時は「パイロット第一生命ビル」と呼ばれていたとか)、その後クラウド会計の会社などが入居し同居していました。
山手線五反田駅西口を出て北に5分程行ったところで目黒川と山手線の間の繁華街の一角にありました。便利な割に地域のオフィス賃貸料は目黒、大崎周辺ほど高くはない、とのことでした。確かに、東急池上線、都営浅草線と山手線がクロスします。少し歩きますが東急目黒線の不動前から通う人もいました。このためか周辺には地域ブランドを気にしないIT関係のベンチャ企業が集まっているそうで、米国のシリコンバレーよろしく「五反田バレー」などと報道されたこともありました。この意味では、「渋谷ビットバレー」が先行していましたが。
春には、目黒川の桜並木には近くよく目黒まで川沿いを職場仲間と何度も花見をしました。また、ビルの5階にいましたがすぐ下も商店街沿いに桜通りが走り、開花時期には、真上から花見ができる珍しい場所でした(よくある、下から、横から見るのとはまた違う光景です)。よく耳にしたのは、五反田は、山手線の駅の中でも、大学(近くに立正大学、清泉女子大などがあります)、オフィス街、居住街、繁華街が駅周辺にコンパクトに集まったのが特徴的、ということでした。好みにもよるのでしょうが、ある意味では、働きやすい、住みやすい町、親しみやすい町、だったのかもしれません。
五反田駅前はかつては山手線沿いでも有名な歓楽街でしたので、その名残もあってか、昼食や夜の会食の場所には、ピンからキリまで、和洋中と苦労することもありません。
同僚とよく使った、近くの店が「多吉」とオフィㇲの道路向いにあった「かね将(かねしょう)」でした。多吉は何も変わらず健在でしたし、かね将は当時から地元の人気店でしたが、いつの間にか道路真向かいに2号店を出していて繁盛している様子でした。
懐かしい仲間6人も皆元気で、暑さを忘れて、久々にじっくりと懐かしい話や近況の情報交換などができました。
この日は、6,800歩コースでした。
因みに、2022年5月には「かね将」について当ブログに以下の記事をアップしていました。

五反田「かね将」


暑気払い会場の「多吉」さん。店構えも、
料理長も仲居さんも変わらずでお元気でした。

地域でも人気の「かね将」の2号店。地下
1階に出来たばかりでまだ試していません。
コロナ禍を乗り越えられたようです。

一時は入居した12階のオフィスビルは
解体中でした。右奥には学研本社が
あり、左右の通りは「学研通り」と
呼ばれていました。

2025年8月22日金曜日

映画「雪風 YUKIKAZE」を観て

 8/21には、最近話題の映画「雪風  YUKIKAZE」をTOHOシネマズ川崎で観てきました。
8/15の80年目の終戦の日に東宝から公開された映画です。
多くの海戦に参戦しながら幸運にも生き延びた「雪風」という珍しい駆逐艦があったとは聞いていましたが(注1)、詳しい生い立ちなどは知らなかったものですから、上映館を探してたまたま川崎で上映中であることを知り、興味をもって鑑賞してきました。
結果的には正解で、史実に基づいて脚色された映画で、単なる戦記物ではなく、1942年以降米国に押され劣勢を続ける南方戦線での駆逐艦艦上の戦闘と国内の苦難の様子がえがかれ、「生きて帰る」、「生きて還す」を主題に戦前、戦後そして現代を通じて人間ドラマ化されています(映画には、1970大阪万博や3.11東北震災のシーンも含まれます)。さらには、戦争を生き延びた人々へ「失敗した戦争経験を無駄にしないでくれ」という思いを託す、というメッセージ(珍しくそういうシーンも映画の最後にありました)を込めています。(注2) 
駆逐艦はその機動力から、艦隊の 先鋒 として魚雷、水雷を放って敵艦隊、潜水艦の勢いを止める先制攻撃、近接する敵小艦の駆逐や戦闘機への高射砲攻撃などによる大型艦の護衛、上陸支援、物資輸送など様々な役割で機能しますが(「艦隊のなんでも屋」だそうです)、この映画では、上記に加え、沈没した他艦乗員の救助活動にも目を向けています。
また、終戦直前には郷里の軍港舞鶴に寄港していて、その後7月30日に近くの宮津に停泊中に米機による空襲により損傷して伊根近くに移動して終戦を迎えていたことを知りました(注3)。
余談になりますが、私が舞鶴にいる頃、祖父が食事のときなど、海軍の戦艦、巡洋艦、駆逐艦の役割や艦隊勤務について、よく話してくれていました。祖父は、 二等巡洋艦「千歳」で日露戦争(1904~1905年)に参戦し、その後通報艦「千早」、戦艦「阿蘇」に乗艦しています。 その頃の艦上任務の話などが思い出されるシーンが映画中いくつもありました。
父が編集した祖父の従軍日誌については、当ブログの下記記事にアップしていました。

「水兵さんの遠洋航海」発刊のための(日誌)原稿の(清書)原稿


映画パンフレットより

(注1) 駆逐艦「雪風」について
1939年に佐世保で進水。基準排水量2033トン、全長118.5メートル。最大速力は約36ノットで、230人以上が乗り組んだ。太平洋各地を巡り、空母などを失ったミッドウェー海戦では後方で輸送船団を護衛した。インドネシアのスラバヤ沖海戦、ガダルカナル島攻防の第3次ソロモン海戦、フィリピンのレイテ沖海戦のほか、戦艦大和が沖縄に向かった坊ノ岬沖海戦にも参加した。
戦後は復員船として13,000人の復員輸送の任務を果たしている。その中に、フィリピンラバウル島から浦賀に復員した水木しげる氏も含まれていた。雪風は、氏の作品『駆逐艦魂』に登場する「旋風(せんぷう)」のモデルになったとされる。
その後は戦後賠償船として中華民国(台湾)に引き渡され、台湾海軍の旗艦「丹陽」としても使われた。その後、1971年に解体され、主錨と時計が江田島に残されている(映画にも出てきます)。(関連HPから引用)

(注2) 映画「雪風  YUKIKAZE」のあらすじ
太平洋戦争中に実在した駆逐艦「雪風」の史実をもとに、戦中から戦後、さらに現代へとつながる激動の時代を懸命に生き抜いた人々の姿とその運命を、壮大なスケールで描く。さまざまな資料を基に映画オリジナルの登場人物として生み出された「雪風」艦長の寺澤一利を竹野内豊、乗員を代表して艦長との間をつなぐ「先任伍長」を玉木宏が演じる。(映画では「先任伍長」による艦内での風通しのよさのような役割が、負傷者が少なく無事な帰還を繰り返す要因として、強調されています。)
太平洋戦争下、数々の激戦を最前線で戦い抜き、ほぼ無傷で終戦を迎えた駆逐艦「雪風」。軽量で機動性に優れていることから、艦隊の先陣を切って魚雷戦を仕掛け、対空戦闘によって戦艦や空母といった主力艦を護衛するのが駆逐艦の役目であり、「雪風」は任務を果たしながら、幾多の戦場を生き抜いていく。そして、最後まで戦場に留まり、沈没する僚艦から海に投げ出された仲間たちを救助して帰還することも多く、時には敵兵にも手を差し伸べた。「雪風」は戦うために出撃しながらも、最後は必ず人を救って戻ってくることから、「幸運艦」「不沈艦」と称された。
「雪風」は80年前の夏、京都府北部の伊根湾で終戦を迎えた。太平洋戦争中の戦闘では出撃して沈むことなく帰還し、多くの戦闘で海に投げ出された兵員らの救助にもあたり、戦後も数奇な運命をたどり多くの命を救った。(映画.comより引用)

(注3) 終戦時の「雪風」
雪風は終戦直前の頃、舞鶴に寄港し、天橋立に面した宮津湾に停泊。7月30日、米軍による宮津空襲に遭い、近くにいた駆逐艦「初霜」は大きな被害を受けて座礁した。損傷した雪風は、潜水母艦「長鯨」が襲撃された湾北側の伊根町沖に移動。そのまま終戦を迎えた。
雪風は太平洋戦争の主力駆逐艦38隻の中で唯一終戦まで生き残った。(読売新聞評より引用)

2025年8月17日日曜日

故郷での宴席とふるさと納税

 8/15には、午前中の初盆供養、午後の姉宅での会食、地元での所用巡りなどの後、夕方には親族で地元白鳥にある魚料理店「魚里(うおり)」 で宴席をもちました。魚料理には定評のある人気店だそうで昼食が中心の店のようです。新鮮な魚と酒をいろんな料理で楽しめました。大きな岩ガキのフライは初めてでした。
滞在したホテルの部屋には、ふるさと納税のPR情報が置かれています。魚加工品や地元万願寺地区で栽培される万願寺トウガラシなどの野菜、そして買物ポイント(ふるさと納税とも絡んでいます)などがウリのようです。
とまれ、この日は朝から夜まで盛りだくさんの一日で、いささかくたびれました。
8/16の移動はお盆明けのために避け(舞鶴‐京都間のバスが満席でした)、8/17に帰路につきました。往路もそうでしたが、復路も京都までの高速バス、京都-新横浜間の新幹線ひかり、ともに座れ、長いお盆休みで移動が分散したこととともに、お盆の移動も多くがスケジュール化(予約乗車)されてきたように感じました。この時期、のぞみは全席指定だそうで、お盆にしてはホームが混んでいません。以前の帰省では、京都-新横浜間ののぞみ自由席では乗車率が100%を大幅に超え混み合う中で立ちっぱなしということもよくありましたが。

この日は、7,000歩コースでした。

 
まずは舟盛から
一つひとつ別の模様を手書きするそうです。
実際に描くところを見てみたいものです。
「うおり」は店名の魚里です。
 
岩ガキのフライ。生でもよいのにと、ちょっと
もったいない食べ方ですが(甥が注文してくれ
ました)、岩ガキの分厚い身を凝縮した味と
食感です。ソース皿の上の模様が変わって
宴席の帰りに酔い覚ましにと東舞鶴港を
ゆっくりと歩きました。小樽行フェリー
ポートの夜景です。多分、出港間近です。

ホテルにはしっかりとふるさと
納税を推奨するプラケースが
置いてあります。
同寄付額と税控除額のリストも。
市もホテルも力が入っています。

2025年8月16日土曜日

舞鶴得月寺での施餓鬼会法要

 8/15には、弟の初盆供養と先祖の追善供養に得月寺での特別施餓鬼会(せがきえ)に参列してきました。
ここに参列するのは主に親族に初盆を迎える世帯が対象ですが、いつになく参列者が多く50世帯近くは参加していました。このところの猛暑や高齢化も関わるのでしょうか。4人の僧で行われました。うち一人は住職さんの息子さんです。ここでも世代交代です。
そこで、一句、

初盆や居心地を訊く施餓鬼棚 

灯篭や影が回りて仏間揺れ


得月寺本堂での特別施餓鬼会会場。
法要が始まる前にはここが満席になりました。

施餓鬼棚

施餓鬼棚のバックヤード

本堂

本堂裏の庭園。いつもは苔の綺麗な庭でしたが
様子が変わってきています。

先祖の墓です。近く墓じまいを考えています。

得月寺山門から本堂

寺川に面した山門

烏森神社@新橋に立ち寄り

9/10には虎ノ門で用があり、帰りには新橋まで歩きました。 久々に新橋駅前の西南側のビルの谷間にある烏森神社(からすもり)を訪ねました。新橋界隈の店の商売の神様という風情は今も変わらず、門前で礼をして通り過ぎる人も見かけますし、お参りする人も地元の方が多いようです。古くから地元に...