3月央の取り壊し工事に先立って舞鶴実家に残された遺品類について、最後の整理を進めています。
その中でユニークなのが私製本の「水兵さんの遠洋航海 ー日露戦争直後のある青春ー」の大量の原稿です。
1978年(昭和53年)に、父が祖父の海軍舞鶴海兵団従軍中の日誌を13年かけて清書し、200部限定の私製本として出版しました。祖父の13回忌の法要を1977年(昭和52年)に行った際に祖父の記念に印刷し親族に配ることを決めた経緯がありました。
祖父は、明治36年(1903年)に20歳のときに五等水兵で入団し、大正4年(1915年)に一等兵曹で満期除隊するまで、11年3か月を軍務に服しました。その中で1362日分の日誌を書き残したそうで、それらのほぼ前半431日分を編集したのが、この冊子(B5版350ページ)でした。二等巡洋艦「千歳」で日露戦争(1904~1905年)に参戦し、その後通報艦「千早」、戦艦「阿蘇」に乗艦しています。
その内容は、日露戦争後の遣外艦隊として新編成された南清艦隊旗艦の乗員として上海方面に航行した折の「南洋の偲」(1906年)、初の遠洋航海を記録した「航欧日誌」、「航米日誌」(ともに1907年)、演習模様を記した「舞鶴海軍鎮守府演習中日誌」(1909年)、その間の休暇での遠足などの様子を綴った「冬期休暇中日誌」(1910年)など、7編が含まれています。
もともと祖父が記載した和紙綴じ8冊、ノート4冊の日記原稿を、父が400字詰めの原稿用紙に清書して、印刷したようです。日記を丹念につけた筆まめな祖父とそれをまた清書した父の執念には、身内のことながら、驚くばかりです。
発刊当時には、地元新聞の文化欄で何度か報道されたようで、その記事の切り抜きが冊子に挟まれています。そのひとつには、清書を始めた頃、「最初は当時高校生だった木下さん(父のことです)の長男(私のことです)が写し始めたが、すぐに投げ出し、静岡で高校の先生をしていた木下さんの弟にバトンタッチした…」の記載があり、当時、私が清書作業に全く貢献できなかったことをあらためて想い出しました。旧仮名遣いと右上がりの祖父の独特の筆跡には手を焼いた記憶があります。
2024年3月4日月曜日
「水兵さんの遠洋航海」発刊のための(日誌)原稿の(清書)原稿
父の清書原稿です。
祖父の日誌原稿(オリジナル)
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