6/2午後には、7月の写真展への出展作のプリント色合わせのために、Fフォトギャラリー銀座を再度訪ねました。
その帰路には、銀座の隣町の京橋に出て、JR東京駅まで歩きました。途中、銀座中央通りと首都高速の交差点で、街中で咲き始めたばかりの紫陽花を見かけました。
ここは、江戸期には江戸湾にそそぐ京橋川が流れ京橋が架かっていました。水害などで橋は何度か造り替えられたそうですが、明治期(明治8年)と大正期(大正11年)に造られた京橋の2つの親柱が残されました。その後、昭和34年(1959)に、京橋川の埋め立てによって橋も撤去され、二つの親柱だけが「京橋の碑」としてその名残をわずかにとどめています。大正期に建てられた橋の親柱には照明設備がついており、その形はすぐ近くにある銀座一丁目交番のデザインの元にもなっているようです。いまでは、京橋川の敷地には首都高速が走っているようにみえます。また、すぐ隣りには警察博物館があり、これもなにか由縁を感じますが、探るのは次の機会にしました。
これまで、このコースは何度か通っていますが、あらためてゆっくり訪ねてみると新しいものがいろいろと目に入ります。
この日は、7,800歩コースでした。
(注1)煉瓦銀座之碑について
1872年(明治5年)の東京大火の後、当時の東京府知事 由利公正は罹災し全焼した銀座を不燃性の建物で再建することを決断し国費を投じて、防火のため銀座煉瓦街がアーケード式で建設され銀座の名物となりました。 街路照明のためのガス灯は、明治7年から街路沿いに設置されました。煉瓦建ての建物とガス灯はモダン銀座の始まりでした。
碑には「経綸 公正」と大書されています。経綸(けいりん)は「国家の秩序を整え、治めること、またはその方策」を意味し、「経世済民」からきた「世を治め、民を救う」という「経済」とは対句だとか。当時の国つくりへの意気込みがうかがえます。(碑銘板、関連記事から引用・編集)
(注2)横浜馬車道のガス灯(参考)
先日、関内ホールに寄った折に馬車道で見かけました。
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