2025年6月13日金曜日

新富町の三叉橋 「三吉橋」


 6/10には、関係する産業用ドローンのユーザ団体の定時総会が新富町の銀座ブロッサム中央会館であり、午後から雨天の中 出掛けました。
ここには団体の事務所も近くにあることから、これまで何度も通ってきましたが、中央区役所と銀座ブロッサムの間にある妙に幅広い陸橋「三吉橋」(みよし)に少々違和感は持っていたのですが、全体の形や造られた経過をあらためて見ることなく毎回通り過ぎてきました。
今回、たまたま、橋の袂に石碑があり、立ち止まってみたところ、三吉橋が、歴史のある、いわくつきの橋だったことを知りました。
もともと、ここには、江戸城築城期からの埋立地に開削された運河である築地川にかかる橋のひとつとして、築地と新富町を結ぶ「合引橋」(若い世代に人気の場所だったとか)が架かっていました。当時のこの川には築地への物流の船に加えて屋形舟も通う風流な場所だったようです。
しかし、関東大震災で一変し、震災の復興事業としてあらたに楓川・築地川連絡運河が開削され、これまで区役所前で折れ曲がったL字型の水路がT字型となったために新たに架けられたのが三吉橋だったとか。それも当時では珍しい三叉路のY字型の橋であったことを知らされました。(注) 地域の分断を回避するためとはいえ、T字型の水路に3つの一般的な橋を架けるより三叉橋が経済的だったのでしょうか。工事の難易度やコストは高まりそうですが、震災後の世相を盛り上げるためにあえて話題性を狙ったかもしれません。それは当たったようです。
その後、昭和37年(1962)に川は埋め立てられ首都高速が走り、当時の面影は想像するしかありませんが、この橋を通して、遅まきながら、江戸期からの風情や震災の頃の惨状をあらためて思い起こさせられました。
この日は、8,000歩コースでした。

(注)三吉橋について
三吉橋は、関東大震災の復興事業の一環として、昭和4年に架けられた橋です。震災前は「合引橋」が築地と新富町を結んでいましたが、復興の過程で新たな運河が開削され(築地川のL字型に屈曲した地点に、利便性のため隣の楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が造られ、川がT字型の三叉の形となりました)、周辺地域の分断を避けるためにY字型の三叉橋として三吉橋が建設されました。当時、築地川が流れており、舟運が盛んでしたが、高度成長期に入ると川は埋め立てられ、昭和37年(1962)には首都高速道路が通る陸橋へと変わりました。現在の三吉橋は平成5年(1993)に改修され、架橋当時の鈴蘭燈を再現するなど、歴史を感じさせるデザインが施されています。
築地・銀座と新富町、八丁堀を結ぶこの橋には、震災復興の歴史や都市の変遷が刻まれています。形式は「三股型単純鋼板桁橋」とのこと。(「三吉橋」石碑等から引用・編集)


現在の三叉橋「三吉橋」。銀座ブロッサムから。
下を左右に走る首都高速。見えませんが右上端に
中央区役所があります。中央奥が新富町で、
手前先が八丁堀になります。(関連HPから引用)

現在の三吉橋陸橋。正面は中央区役所。
昭和4年(1929)の初代三吉橋。T字型の川の
上の架けられています。正面は当時の
中央区役所。右奥が銀座・築地、左手前が
新富町、右先が八丁堀です。手前下先が
連絡運河です。合引橋は左側の水路に架かって
いました。(京橋図書館所蔵写真を引用)

三吉橋の石碑から

三吉橋の在りし日を伝える石碑。
三島由紀夫も作品に書いているそうです。

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