2025年6月24日火曜日

梅雨晴れの總持寺

 6/23には、梅雨の合間に鶴見の總持寺(そうじじ)を久々に訪ねました。6/27にここで吟行会が予定されており、その下見を兼ねていました。
曹洞宗には。総本山が福井(永平寺)と横浜(ここ總持寺)に2つあるとは聞いていましたが(注)、總持寺はJR鶴見駅のすぐそばの広大な敷地に多くの伽藍をもつ古刹です。ここはだいぶ前に友人に誘われて座禅を初めて経験した場所でもあります。夏でしたが心静かにするなかで境内の静寂さと風の音を肌で感じたことを思い出します。境内では修行中と思われる何人かの若い僧の姿を目にしました。修行の場としても機能しているようです。
そこで、一句、

梅雨晴間光る廊下や窓の影
梅雨の朝鐘の音響く禅の寺
梅雨晴れや一筋昇る太祖堂

この日は、11,000歩コースでした。


回廊の長い廊下です。「百閒廊下」(ひゃっけん)と
呼ばれ約164mあります。よく掃除されてピカピカ
です。なにやら若い僧がバタバタと駆け抜けてい
きました。

佛殿。アジサイもそろそろピークを過ぎた
感じでした。

中雀門越しの向唐門。門中門です。



香積台

今どきの佛殿
         
雲水群像。右手前の銘板には「相承」(そうしょう)
と記されています。師から弟子へ仏の教えや法脈を
伝えることを指し、仏法では「師資相承」や
「付法相承」とも呼ばれるとのこと。

太祖堂。太租 瑩山禅師を祀ります。

太祖堂内の千畳敷の間。撮れていませんが
左右にもっと広がっています。ここの本堂は
珍しく撮影可でした。

立派な石灯篭と太祖堂

三門。右側には鶴見大学があります。参道の
手前には石材屋さんがずらりと並んでいます。

(注)曹洞宗の「両大本山制」
曹洞宗に大本山が二つあるのは、宗派の歴史と深く関わっています。
曹洞宗では、道元禅師を「高祖」、瑩山禅師(けいざん)を「太祖」として「両祖」と呼び、どちらも宗派の発展に欠かせない存在とされています。道元禅師は中国から禅の教えを持ち帰り、1244年に福井県に永平寺を開きました。一方、瑩山禅師はその教えを広め、1321年に石川県に總持寺を開創しました。
このように、道元が教えを伝え、瑩山が教団を拡大したという役割分担があり、両者の功績を等しく重んじるため、曹洞宗では永平寺と總持寺の両方を「大本山」として位置づけています。現在、永平寺は修行の厳しさで知られ、總持寺は横浜市に移転後も国際的な禅の拠点として機能しています。 
なお、総持寺の横浜鶴見移転の経緯については、以下の通りだそうです。

總持寺が石川県能登から横浜・鶴見に移転した主な理由は、1898年(明治31年)に発生した大火災です。この火災により、能登にあった伽藍の大部分が焼失してしまいました。この出来事をきっかけに、曹洞宗内では「交通の便が良く、布教や教団運営に適した場所」への移転を望む声が高まりました。特に、東京に近い場所であれば、全国の檀信徒が参拝しやすく、宗門の発展にもつながると考えられたのです。
最終的に選ばれたのが、現在の横浜市鶴見区。ここは当時、自然環境に恵まれ、京浜地区のの交通の要所でもありました。また、地元の成願寺(今も總持寺境内に隣接して存在します)が移転先として土地を提供したことも大きな決め手となりました。1911年(明治44年)、總持寺は正式に鶴見に移転し、現在に至ります。ちなみに、能登の旧地には別に「總持寺祖院」として再建され、今も大切に守られています。    (関連HPから引用・編集 )

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