1/30午後には、知覧町の武家屋敷をも巡ってきました。江戸期の薩摩藩で採られていた外城制度(とじょう)の一端を観ることができました。地元に移住してきた女性の市会議員さんの案内でした。
薩摩藩は、領地を外城と呼ばれる113の地区(地区は3~5の村からなります)に分けて、地頭や領主の屋敷である御仮屋(おかりや)を中心に麓(ふもと:後に郷と言われたとか)と呼ばれる武家集落をつくり、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせました。知覧もその外城の一つでした。このため、藩主のいる鹿児島の鶴丸城(内城、鹿児島城)は簡素な造りでした。一方で、武士(郷士)は半農半士が多かったそうです。今でいうと、複業の武士集団による地域分散統治社会ということになります。
このため他藩に比べ武士の人口比率が高かったそうです(薩摩藩26%,全国平均は6%)。幕府からも一国一城の方針に反し睨まれていたようですが(幕府の外様制度は、外城制度の全国版です)、薩摩藩は「武士の多さと南九州の土地の生産性の低さ」を理由に弁解しているとのこと。武士が多いのは「かつて島津氏が九州を制覇した頃の武士人口をその後薩摩藩に引き入れた。一箇所に住めないので分散して居住している」としたそうです。城は無くしても軍事組織はそのまま残し、「人をもって城となす」という政策をとったとか。
この外城制度は、対外的には、中央政権との対決に備えるもの、対内的には、農民統治、一揆対策、琉球や奄美などの大きな離島の統治などに役目を果たした、そうです。
これも、ゆくゆく薩摩藩が思想的、政治的、軍事的、人材的に倒幕のエネルギーを自律的に備蓄する一因になったように、あらためて思いました。歴史小説でも、薩摩藩の郷では、子どもの頃から先輩が後輩を指導する習慣が根付いていた、という話は記憶にあります。
今も残る7つの武家屋敷には、立派な庭があり、一般市民がいまも生活されているそうです。大変な地域貢献だと思いました。
短い小旅行でしたが印象深い旅でした。これで、奄美大島に次いで、またひとつ行き残しを減らしたように思いながら、鹿児島空港から帰路につきました。
これも、ゆくゆく薩摩藩が思想的、政治的、軍事的、人材的に倒幕のエネルギーを自律的に備蓄する一因になったように、あらためて思いました。歴史小説でも、薩摩藩の郷では、子どもの頃から先輩が後輩を指導する習慣が根付いていた、という話は記憶にあります。
今も残る7つの武家屋敷には、立派な庭があり、一般市民がいまも生活されているそうです。大変な地域貢献だと思いました。
短い小旅行でしたが印象深い旅でした。これで、奄美大島に次いで、またひとつ行き残しを減らしたように思いながら、鹿児島空港から帰路につきました。
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