2025年6月30日月曜日

千葉公園の大賀ハスまつり

6/28には、開催最終前日の大賀ハスまつり( 6/21-29, 8-14時)を駆け足で観てきました。
ここのハスの開花時期は他よりは少々早く6 月下旬ですが、関東エリアでは7月中旬から8月初旬が多いようです。ハスのシーズン中に一度は行ってみたいと思っていた処です。JR千葉駅から千葉都市モノレールでひと駅目の千葉公園駅で降りると歩いて10分程の便利な立地です。
この日到着したのが12時半頃で、その日早朝に開いた花が閉じ始めた時間帯となり、開花初期の満開のハスには巡りあえず、蕾と開花4日の受粉後の黄色い花芯の花托が見え花弁が落ち始めた花を多く見かけました。これはこれで見所ですが、やはり、ハスは早朝の観蓮がベストです。会場の係の人も、11時頃から花は閉じ始めます…、とのこと。蕾の開閉を4回繰り返し、途中受粉して花托が緑から黄色になり、花弁を落とし花托だけを残します。
ここは戦後間もない1951年(昭和26年)に東大の大賀博士が縄文時代の古代ハスの種子をこの近くの千葉検見川で発見して、発芽させた株の一部が植えられた場所になります。3か所に分けて植えられたそうです。
そこで、一句、

白南風や花弁散らす古代ハス
浄土へと黄色く光る蓮華かな
波をうつ蓮の巻葉や蓮華亭

この日は、9,000歩コースでした。

本年4月30日にここを訪ねた折の記事は、下記の当ブログにもアップしていました。

千葉公園の大賀ハス園




背景は千葉都市モノレールの軌道です。
総営業距離は15.2kmで、懸垂式モノレールと
しては世界最長だそうです。ホームで
ギネス登録を見かけました。





背景は蓮華亭






千葉公園大賀ハス園。背景は蓮華亭です。

2025年6月29日日曜日

久々のAndante ハンドベルコンサート

 6/29には、久々に「アンダンテ(Andante) ハンドベルコンサート2025」に行ってきました。今回は、地下鉄東西線東陽町駅から10分程のところにある江東区文化センターでの開催でした。かつての職場の同僚が学生時代から長く続けています。団員(Ringersというようです)18名の中でもベテランの域だそうです。以前は、渋谷宮益坂にある青山学院大の礼拝堂で長く行われていました。私も、演奏を聴くのはコロナ前以来です。
澄んで響くベルの音色は勿論、ベルを操る様々な技法そして「振れば音が出る単純な楽器ならではの心を合わせて美しい響きを作り出す」チームワークが魅力で、耳と目で楽しめます。
今回も、クラシックから讃美歌、ゴスペル、ミュージカル曲、行進曲、映画曲まで13曲が演奏されました。
コロナ禍もあってしばらく休んだこともあったようですが、地域での演奏会活動をしっかりと復活され、世代交代とともに男性の参加も進んでいるようです。
下記のサイトに過去のコンサートの模様も掲載されています。

https://andante-handbell.com/index.html

指揮の小澤氏によると、アンダンテは1993年から活動を始め33年目になるそうです。設立以来、ハンドベルの澄んだ音で世界の平和を訴えたい、という主旨で活動され、選曲してきたそうで、今回の挨拶でも、今の世相を見るにつけも、各地の演奏活動などを通じて、この活動を継続したいと強く話されていました。同氏は、日本ハンドベル連盟の代表者をも務められているようです。
この日は、12,000歩コースでした。


会場の江東区文化センター。一階には立派な
鯉が飼育されていました。何か因縁つきかも知れ
ません。また、写真手前には防災センタの独立した
大きなビルがあり、土地柄もあり防災の危機意識が
高い自治体のようにも見えます。

チラシから。演奏では一人がこの
ような音階の違うベルを持ち替え
ながら両手で1〜6個ほどを巧みに
操り、見事です。

2025年6月28日土曜日

初めての吟行会@總持寺

 6/27には、鶴見の總持寺で吟行会に参加してきました。属する神奈川県現代俳句協会の4つの句会が主催する合同吟行会です。梅雨晴れにも恵まれ、52名の参加で、賑やかで和やかな会でした。
この日の投句のしばりは「嘱目2題」(しょくもく)で、これは即興的に目に入ったものを詠むことです。お題が定められた題詠(席題、兼題)ではなく、雑詠の一種だそうです。嘱目では、季語の制約に関わらず、目にしたものをその場で詠むという即興性を含むとのことでした。
午前中に、總持寺を自由散策して各自句を詠み、13時までに、会場の鶴見区公会堂内の会議室で出句します。それら全句104句を二枚に清書(清記といいます)して(投句者の筆跡がわからないようにします)、そのコピー(清記用紙)が参加者に配布されます。それを見て各参加者が良いと思う句3句を選句して選句用紙に記載し提出します。それを集めて、順に読み上げて(披講)、選ばれた句の作者は都度名乗ります。これが参加者にとっては楽しみなクライマックスのようです。すべての紹介が終わると点盛りが行なわれます。その結果によって、今回は高得点上位20名が顕彰されることになります。このような相互選(互選)によって非常に公平でオープンな手順で選ばれます。長く練られてきた日本的な方法だな、と感じました。この方法は短歌や狂歌、俳諧などでも同じだそうです。

また、集計中には、文藝春秋社「文學界」元編集長の雨宮さん(俳句結社「山河」を主宰)の講演「芥川賞、直木賞の選考会を巡る四方山話など」や来賓や役員20名ほどの方々から次々と自身の選句結果を中心に、どこが良かったかの講評もあり、盛り沢山です。同じ対象物を52人がそれぞれの目でみた同好の士同士の意見交換が行われ、意外な見方や表現も多く、大いに勉強になりました。

私からは以下を出句しましたが、前者が一人に選句されたくらいでした。因みに、今回一位の方の句は9人に選句されています。なにか共感の論理がありそうです。

梅雨の朝光る廊下や僧の影
梅雨晴間一筋昇る香炉かな

この日は、9,200歩コースでした。

因みに、先日、下見にここを訪ねた折の記事を下記にアップしていました。


待鳳館。「当本山の迎賓館」とのこと。

百間廊下。端から端を見ています。
この日もよく磨かれていました。
移動時間節約のためでしょうか、修行僧が
バタバタと走って行き来しています。

佛殿正面。総ヒノキ造りだそうです。この
すぐ裏が墓苑になります。

三松関(さんしょうかん)正面。總持寺の総門に
当ります。参道から訪れる参拝者が最初にくぐる
門です。

三松関裏側。「三松」は、總持寺の祖院が
ある能登にあった三本の龍のような松に
由来するとか。また、三松関は禅宗寺院では
珍しい高麗門様式だそうで、格式と
風格を感じます。

太祖堂奥には墓地があり、檀家に裕次郎さんも
おられるようです。墓処探訪は次回に回し
ました。

参道。左は千年の森です。

2025年6月24日火曜日

旧新橋停車場 鉄道歴史展示室

 6/24にはある株主総会に出るため赤坂見附にでかけ、その帰路に、気になっていた新橋汐留にある「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」に立ち寄りました。先日新橋に来た時には行きそびれた処です(注)。
日本の鉄道発祥の地 汐留にあるミニ博物館で、1872年に開業した日本初の鉄道ターミナル「新橋停車場」の駅舎を忠実に再現して2003年に作られた施設です。この遺構は、汐留地区の再開発による一連の工事で発掘されたそうです。
館内では、鉄道の黎明期からの歴史を、発掘された遺構や出土品、当時の資料などを通じてそう広くはないフロアですがしっかりとコンパクトに展示されています。床の一部はガラス張りになっており、開業当時の駅舎の場所に、積み上げられて基礎石もそのまま保存されています。
1階の一部には、いま海外でも人気なこともあるのでしょうか、サントリーさんの「お茶文化史展」も企画中で、企業の支援もあるようです。基本的には、(公財)東日本鉄道文化財団によって運営されています。
感心したのは、当時鉄道を開設するために英国から二人の技術者を招聘したそうですが、その一人エドモンド・モレルは当時29歳で1870年に来日し、開通直前に肺結核のため日本で30歳で亡くなられ、横浜の外国人墓地に夫婦で今も埋葬されています。鉄道創設で指導的役割を果たし(「日本の鉄道の恩人」とされています)、かなりのハードワークだったと思うと、当時の英国政府と英国人の強い意志とグローバルなフロンティア精神、技術者魂のようなものを感じます。それが大英帝国に繋がるのかもしれません。枕木として、英国ではオーク材が主流だったところを、彼は、日本の国情に合わせ栗の木にしたそうです。さらに驚くべきことに、彼の死後約12時間後には妻のハリエット夫人も急逝しています。彼女の死因は、看病による疲労と精神的ショックと伝えられています。夫妻が並んで埋葬されている横浜外国人墓地の墓所はいまも「鉄道記念物」に指定されているとのこと。壮絶な、余りにも短い二人の人生だったようです。
また、定期的に企画展も開催されているようで(年に3回企画を入れ替えているようです)、現在は第66回目で「日本海縦貫線100年展」が開催中でした。展示室の裏手にはレールや全国の鉄道網の測量起点となる「0哩標識」(ゼロマイルポスト)、プラットホームも復元されており、日本の鉄道の原点を間近に感じられます。また次の機会に立ち寄るといつ来ても別な趣向が楽しめそうな、手軽で親しみのもてる施設と思いました。

たまたまですが、その後帰りに桜木町駅(元の(初代)横浜駅です)で市営地下鉄に乗り換える際に駅舎内の通路で1904年当時の横浜駅舎などの写真を見かけ、こんなこともあるものだと思わず苦笑いしました。ここに建てられた当時の横浜駅舎は、さっき見たばかりの再建された旧新橋駅舎と全く同型でした。多分、当時始発と終着駅を同型の駅舎にしたようです。今時の新橋-横浜間の珍道中でした。

この日は、11,800歩コースでした。赤坂見附から四谷まで、上智大学横の外堀土手の石垣を久々に歩きました。遊歩道になっており、緑陰のなかこの時期よい散歩道です。

(注)本年2025年5月12日に、新橋での記事を下記のように本ブログにアップしていました。

新橋古本まつりと古切符と「ガード下街」の今



旧新橋停車場。左奥に当時の線路とプラット
ホームの一部が再現されています。

正面階段から。背景はパナソニック汐留ビル

明治5年(1872)開業当時の駅舎の
基礎石が保存されています。


第66回企画展[日本海縦貫線100年展」
が開催中でした。北陸本線、信越本線、
羽越本線、奥羽本線が「日本海縦貫線」
として一本化され、大阪から青森まで
特急「白鳥」で繋がったそうです。郷里に
近い敦賀⁻福井間の電化祝賀の昭和37年の
写真(中央下の敦賀での写真)など懐かしく鑑賞
しました。この時には同時に北陸トンネルが
開通し郷里で見た当時のニュースをかすかに
覚えています。この頃東舞鶴₋金沢間直通の
急行「わかさ」も運行を開始しました。
その時、山陰の東舞鶴にいて世界が一気に
広がったように思った記憶があります。


旧新橋停車場跡の紹介。プラット
ホームも復元されています。


旧新橋停車場 鉄道歴史展示室入口。
大きなビルの前でも存在感があります。

以下、参考です。同日帰路に桜木町駅
(初代横浜駅)通路でたまたま見かけました。

(参考1)当時の横浜停車場。始発の新橋停車場と
全く同じです。

(参考2)当時の面影が偲ばれます。

(参考3)錦絵でも残っているようです。右奥に
今の大桟橋、象の鼻桟橋が描かれています。

梅雨晴れの總持寺

 6/23には、梅雨の合間に鶴見の總持寺(そうじじ)を久々に訪ねました。6/27にここで吟行会が予定されており、その下見を兼ねていました。
曹洞宗には。総本山が福井(永平寺)と横浜(ここ總持寺)に2つあるとは聞いていましたが(注)、總持寺はJR鶴見駅のすぐそばの広大な敷地に多くの伽藍をもつ古刹です。ここはだいぶ前に友人に誘われて座禅を初めて経験した場所でもあります。夏でしたが心静かにするなかで境内の静寂さと風の音を肌で感じたことを思い出します。境内では修行中と思われる何人かの若い僧の姿を目にしました。修行の場としても機能しているようです。
そこで、一句、

梅雨晴間光る廊下や窓の影
梅雨の朝鐘の音響く禅の寺
梅雨晴れや一筋昇る太祖堂

この日は、11,000歩コースでした。


回廊の長い廊下です。「百閒廊下」(ひゃっけん)と
呼ばれ約164mあります。よく掃除されてピカピカ
です。なにやら若い僧がバタバタと駆け抜けてい
きました。

佛殿。アジサイもそろそろピークを過ぎた
感じでした。

中雀門越しの向唐門。門中門です。



香積台

今どきの佛殿
         
雲水群像。右手前の銘板には「相承」(そうしょう)
と記されています。師から弟子へ仏の教えや法脈を
伝えることを指し、仏法では「師資相承」や
「付法相承」とも呼ばれるとのこと。

太祖堂。太租 瑩山禅師を祀ります。

太祖堂内の千畳敷の間。撮れていませんが
左右にもっと広がっています。ここの本堂は
珍しく撮影可でした。

立派な石灯篭と太祖堂

三門。右側には鶴見大学があります。参道の
手前には石材屋さんがずらりと並んでいます。

(注)曹洞宗の「両大本山制」
曹洞宗に大本山が二つあるのは、宗派の歴史と深く関わっています。
曹洞宗では、道元禅師を「高祖」、瑩山禅師(けいざん)を「太祖」として「両祖」と呼び、どちらも宗派の発展に欠かせない存在とされています。道元禅師は中国から禅の教えを持ち帰り、1244年に福井県に永平寺を開きました。一方、瑩山禅師はその教えを広め、1321年に石川県に總持寺を開創しました。
このように、道元が教えを伝え、瑩山が教団を拡大したという役割分担があり、両者の功績を等しく重んじるため、曹洞宗では永平寺と總持寺の両方を「大本山」として位置づけています。現在、永平寺は修行の厳しさで知られ、總持寺は横浜市に移転後も国際的な禅の拠点として機能しています。 
なお、総持寺の横浜鶴見移転の経緯については、以下の通りだそうです。

總持寺が石川県能登から横浜・鶴見に移転した主な理由は、1898年(明治31年)に発生した大火災です。この火災により、能登にあった伽藍の大部分が焼失してしまいました。この出来事をきっかけに、曹洞宗内では「交通の便が良く、布教や教団運営に適した場所」への移転を望む声が高まりました。特に、東京に近い場所であれば、全国の檀信徒が参拝しやすく、宗門の発展にもつながると考えられたのです。
最終的に選ばれたのが、現在の横浜市鶴見区。ここは当時、自然環境に恵まれ、京浜地区のの交通の要所でもありました。また、地元の成願寺(今も總持寺境内に隣接して存在します)が移転先として土地を提供したことも大きな決め手となりました。1911年(明治44年)、總持寺は正式に鶴見に移転し、現在に至ります。ちなみに、能登の旧地には別に「總持寺祖院」として再建され、今も大切に守られています。    (関連HPから引用・編集 )

2025年6月18日水曜日

上郷あじさいの丘で紫陽花を堪能

 6/16には、隣の栄区にある「上郷あじさいの丘」を訪ねました。大船から上之(かみの)方面へバスで15分程行った桂台地区にある、最近地元ではよく耳にする鑑賞地です。丁度「第8回上郷あじさい祭り」期間中で賑わっていました。
10年間で斜面に3000株を育てられてきたと栄区「紫陽花の会」の方が地元誌で回想されていました。始めたのは、会長さんが転居する友人から大量の紫陽花の株を譲り受けたことが切っ掛けだったそうです。現在は120人以上が所属するとか。丹念に多くの種類の紫陽花の面倒を見てこられたことに頭が下がります。会発足10周年の写真集を出されており早速に入手してきました。A4 72 ページにもなる力作で、会員の撮影した写真をテーマ別に編集した写真集です。手づくり感とともに日頃からこの丘を手入れする中で常々見つめてきた目線での写真としてなかなか味があります。
この日は丁度見頃で、紫陽花の咲き振りをいろんな角度からゆっくりと堪能できました。
この日は、7,000歩コースでした。

「珍客」

「海南風」

「花舞台」その1



「木漏れ日」その1



シロアジサイ



「花舞台」その2

「夏木立」その1

「木漏れ日」その2

「花街道」

「梅雨晴間」その1

「梅雨晴間」その2

「夏木立」その2

「梅雨晴間」その3

「紫陽花の会」創立10周年記念写真集

「上郷あじさいの丘」全景

故郷での宴席とふるさと納税

 8/15には、午前中の初盆供養、午後の姉宅での会食、地元巡りなどの後、夕方には親族で地元白鳥にある魚料理店「魚里(うおり)」 で宴席をもちました。魚には定評のある人気店だそうで昼食が中心の店のようです。新鮮な魚と酒をいろんな料理で楽しめました。大きな岩ガキのフライは初めてでした...