2025年6月24日火曜日

旧新橋停車場 鉄道歴史展示室

 6/24にはある株主総会に出るため赤坂見附にでかけ、その帰路に、気になっていた新橋汐留にある「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」に立ち寄りました。先日新橋に来た時には行きそびれた処です(注)。
日本の鉄道発祥の地 汐留にあるミニ博物館で、1872年に開業した日本初の鉄道ターミナル「新橋停車場」の駅舎を忠実に再現して2003年に作られた施設です。この遺構は、汐留地区の再開発による一連の工事で発掘されたそうです。
館内では、鉄道の黎明期からの歴史を、発掘された遺構や出土品、当時の資料などを通じてそう広くはないフロアですがしっかりとコンパクトに展示されています。床の一部はガラス張りになっており、開業当時の駅舎の場所に、積み上げられて基礎石もそのまま保存されています。
1階の一部には、いま海外でも人気なこともあるのでしょうか、サントリーさんの「お茶文化史展」も企画中で、企業の支援もあるようです。基本的には、(公財)東日本鉄道文化財団によって運営されています。
感心したのは、当時鉄道を開設するために英国から二人の技術者を招聘したそうですが、その一人エドモンド・モレルは当時29歳で1870年に来日し、開通直前に肺結核のため日本で30歳で亡くなられ、横浜の外国人墓地に夫婦で今も埋葬されています。鉄道創設で指導的役割を果たし(「日本の鉄道の恩人」とされています)、かなりのハードワークだったと思うと、当時の英国政府と英国人の強い意志とグローバルなフロンティア精神、技術者魂のようなものを感じます。それが大英帝国に繋がるのかもしれません。枕木として、英国ではオーク材が主流だったところを、彼は、日本の国情に合わせ栗の木にしたそうです。さらに驚くべきことに、彼の死後約12時間後には妻のハリエット夫人も急逝しています。彼女の死因は、看病による疲労と精神的ショックと伝えられています。夫妻が並んで埋葬されている横浜外国人墓地の墓所はいまも「鉄道記念物」に指定されているとのこと。壮絶な、余りにも短い二人の人生だったようです。
また、定期的に企画展も開催されているようで、現在は第66回目で「日本海縦貫線100年展」が開催中でした。展示室の裏手にはレールや全国の鉄道網の測量起点となる「0哩標識」(ゼロマイルポスト)、プラットホームも復元されており、日本の鉄道の原点を間近に感じられます。また次の機会に立ち寄るといつ来ても別な趣向が楽しめそうな、手軽で親しみのもてる施設と思いました。

たまたまですが、その後帰りに桜木町駅(元の(初代)横浜駅です)で市営地下鉄に乗り換える際に駅舎内の通路で1904年当時の横浜駅舎などの写真を見かけ、こんなこともあるものだと思わず苦笑いしました。ここに建てられた当時の横浜駅舎は、さっき見たばかりの再建された旧新橋駅舎と全く同型でした。多分、当時始発と終着駅を同型の駅舎にしたようです。今時の新橋-横浜間の珍道中でした。

この日は、11,800歩コースでした。赤坂見附から四谷まで、上智大学横の外堀土手の石垣を久々に歩きました。遊歩道になっており、緑陰のなかこの時期よい散歩道です。

(注)本年2025年5月12日に、新橋での記事を下記のように本ブログにアップしていました。

新橋古本まつりと古切符と「ガード下街」の今



旧新橋停車場。左奥に当時の線路とプラット
ホームの一部が再現されています。

正面階段から。背景はパナソニック汐留ビル

明治5年(1872)開業当時の駅舎の
基礎石が保存されています。


第66回企画展[日本海縦貫線100年展」
が開催中でした。北陸本線、信越本線、
羽越本線、奥羽本線が「日本海縦貫線」
として一本化され、大阪から青森まで
特急「白鳥」で繋がったそうです。郷里に
近い敦賀⁻福井間の電化祝賀の昭和37年の
写真(中央下の敦賀での写真)など懐かしく鑑賞
しました。この時には同時に北陸トンネルが
開通し郷里で見た当時のニュースをかすかに
覚えています。この頃東舞鶴₋金沢間直通の
急行「わかさ」も運行を開始しました。
その時、山陰の東舞鶴にいて世界が一気に
広がったように思った記憶があります。


旧新橋停車場跡の紹介。プラット
ホームも復元されています。


旧新橋停車場 鉄道歴史展示室入口。
大きなビルの前でも存在感があります。

以下、参考です。同日帰路に桜木町駅
(初代横浜駅)通路でたまたま見かけました。

(参考1)当時の横浜停車場。始発の新橋停車場と
全く同じです。

(参考2)当時の面影が偲ばれます。

(参考3)錦絵でも残っているようです。

梅雨晴れの總持寺

 6/23には、梅雨の合間に鶴見の總持寺(そうじじ)を久々に訪ねました。6/27にここで吟行会が予定されており、その下見を兼ねていました。
曹洞宗には。総本山が福井(永平寺)と横浜(ここ總持寺)に2つあるとは聞いていましたが(注)、總持寺はJR鶴見駅のすぐそばの広大な敷地に多くの伽藍をもつ古刹です。ここはだいぶ前に友人に誘われて座禅を初めて経験した場所でもあります。夏でしたが心静かにするなかで境内の静寂さと風の音を肌で感じたことを思い出します。境内では修行中と思われる何人かの若い僧の姿を目にしました。修行の場としても機能しているようです。
そこで、一句、

梅雨晴間光る廊下や窓の影
梅雨の朝鐘の音響く禅の寺
梅雨晴れや一筋昇る太祖堂

この日は、11,000歩コースでした。


回廊の廊下です。よく掃除されて
ピカピカです。なにやら若い僧が
バタバタと駆け抜けていきました。

佛殿。アジサイもそろそろピークを過ぎた
感じでした。

中雀門越しの向唐門。門中門です。



香積台

今どきの佛殿
         
雲水群像。右手前の銘板には「相承」(そうしょう)
と記されています。師から弟子へ仏の教えや法脈を
伝えることを指し、仏法では「師資相承」や
「付法相承」とも呼ばれるとのこと。

太祖堂。太租 瑩山禅師を祀ります。

太祖堂内の千畳敷の間。撮れていませんが
左右にもっと広がっています。ここの本堂は
珍しく撮影可でした。

大灯篭と太祖堂

三門。右側には鶴見大学があります。参道の
手前には石材屋さんがずらりと並んでいます。

(注)曹洞宗の「両大本山制」
曹洞宗に大本山が二つあるのは、宗派の歴史と深く関わっています。
曹洞宗では、道元禅師を「高祖」、瑩山禅師(けいざん)を「太祖」として「両祖」と呼び、どちらも宗派の発展に欠かせない存在とされています。道元禅師は中国から禅の教えを持ち帰り、1244年に福井県に永平寺を開きました。一方、瑩山禅師はその教えを広め、1321年に石川県に總持寺を開創しました。
このように、道元が教えを伝え、瑩山が教団を拡大したという役割分担があり、両者の功績を等しく重んじるため、曹洞宗では永平寺と總持寺の両方を「大本山」として位置づけています。現在、永平寺は修行の厳しさで知られ、總持寺は横浜市に移転後も国際的な禅の拠点として機能しています。 
なお、総持寺の横浜鶴見移転の経緯については、以下の通りだそうです。

總持寺が石川県能登から横浜・鶴見に移転した主な理由は、1898年(明治31年)に発生した大火災です。この火災により、能登にあった伽藍の大部分が焼失してしまいました。この出来事をきっかけに、曹洞宗内では「交通の便が良く、布教や教団運営に適した場所」への移転を望む声が高まりました。特に、東京に近い場所であれば、全国の檀信徒が参拝しやすく、宗門の発展にもつながると考えられたのです。
最終的に選ばれたのが、現在の横浜市鶴見区。ここは当時、自然環境に恵まれ、京浜地区のの交通の要所でもありました。また、地元の成願寺(今も總持寺境内に隣接して存在します)が移転先として土地を提供したことも大きな決め手となりました。1911年(明治44年)、總持寺は正式に鶴見に移転し、現在に至ります。ちなみに、能登の旧地には別に「總持寺祖院」として再建され、今も大切に守られています。    (関連HPから引用・編集 )

2025年6月18日水曜日

上郷あじさいの丘で紫陽花を堪能

 6/16には、隣の栄区にある「上郷あじさいの丘」を訪ねました。大船から上之(かみの)方面へバスで15分程行った桂台地区にある、最近地元ではよく耳にする鑑賞地です。丁度「第8回上郷あじさい祭り」期間中で賑わっていました。
10年間で斜面に3000株を育てられてきたと栄区「紫陽花の会」の方が地元誌で回想されていました。始めたのは、会長さんが転居する友人から大量の紫陽花の株を譲り受けたことが切っ掛けだったそうです。現在は120人以上が所属するとか。丹念に多くの種類の紫陽花の面倒を見てこられたことに頭が下がります。会発足10周年の写真集を出されており早速に入手してきました。A4 72 ページにもなる力作で、会員の撮影した写真をテーマ別に編集した写真集です。手づくり感とともに日頃からこの丘を手入れする中で常々見つめてきた目線での写真としてなかなか味があります。
この日は丁度見頃で、紫陽花の咲き振りをいろんな角度からゆっくりと堪能できました。
この日は、7,000歩コースでした。

「珍客」

「海南風」

「花舞台」その1



「木漏れ日」その1



シロアジサイ



「花舞台」その2

「夏木立」その1

「木漏れ日」その2

「花街道」

「梅雨晴間」その1

「梅雨晴間」その2

「夏木立」その2

「梅雨晴間」その3

「紫陽花の会」創立10周年記念写真集

「上郷あじさいの丘」全景

2025年6月17日火曜日

半蔵門での写真展

 6/15には、半蔵門駅近くのJCIIビルで開催中の、写真仲間の属する教室の写真展を訪ねました。この日が最終日でした。
「散歩の合間に2025」とコンセプトの明確なレベルの高い写真展でした。3~4枚の組み写真で15名が出展されていました。絶妙のテーマで、作者のイメージするテーマが写真に具象化され、1枚ずつの出展より、多面的に強く伝わります。写真になにやら喋らせるのが写真撮影、現像・レタッチのテクニックだそうですから。なかなかその域まで行きませんが。
会場は、元(財)日本写真機検査協会(現(財)日本カメラ財団:JCII)の中の地下ホールでした。輸出カメラの検査を一手に引き受けて品質維持・向上をはかる団体の拠点でした。この団体では、検査のかたわら、1969年から日本の歴史的カメラを認定し、保存する事業も行ってきたそうです。1989年には、数千台を超える所蔵カメラをベースに隣のビルに「日本カメラ博物館」が設立されて一般に公開されました。この日は、昭和100年を記念した「昭和のカメラ物語ー第一部:1926-1954ー」展が開始中で、戦前、戦中、戦後の激動の時代をカメラでたどっていました。ライカに追いつけ、追い越せで技術開発を加速したようです。大いに参考になりました。次の企画タイトルは「なにがスゴイの このカメラーカメラのスゴイを展示ー」だそうです。今の展示も、なかなか密度の高い、よく考えられたしっかりした展示です。
また、ここでは、来る度にJCIIビル内に他の写真展も催されており、参考になります。この日には「片岡順一作品展 飛翔の詩」で、航空機の写真のオンパレードでした。片岡さんは幼少期から飛行機が大好きでJALのパイロットをされながらよい写真を多く残されたそうです。大型航空機の撮影は、それだけでも写真の一分野で、流し撮りなどのテクニックとともに重量感とスピード感、飛行中の空気の揺らぎ、などをどう表現するかがテーマです。
帰路、久々に内堀(半蔵濠)に出て皇居の半蔵門近くを巡ってきました。北に行くと桜の時期に来た千鳥ヶ淵になりますが、この日は南に御堀沿いを散歩しました。半蔵門への通路はゲートで閉じられています。ここは皇居の西端に位置し吹上御所に近いため、皇室の方々の通用門としてだけに使われているそうです。愛子様の通勤時には開門するとか。警備の警察官に聞くと、その方でさえ門内に入ったことはなく、内は宮内庁の警備になり警視庁の管轄外だそうです。

この日は、10,400歩コースでした。


写真展  第9回「散歩の合間に2025」

日本カメラ博物館入口。乾板式の原型。写真館で
昔使われていた、かすかな記憶があります。

日本カメラ博物館では「昭和のカメラ物語」
展を開催中でした。

半蔵門。通常は閉門中とのこと。手前には
装甲車が停車しています。

手前が半蔵濠です。ここから左に内堀沿いを
北に15分程歩くと千鳥ヶ淵になります。
左手前には広い敷地に英国大使館がありますが、
そのエリアが再開発中で大型クレーンが何台も
稼働中でした。

半蔵門全景

2025年6月16日月曜日

町内会のふれあい食事会

 6/14には、地元町内会主催のふれあい食事会がありました。年に2回ほど町内会館で行われ、このところできるだけ参加することにしています。この日は、落語2題で、出演は、前座がおばば乃たぬきさん、トリがこの会では定番の桂歌助さんでした。歌助さんは、近くの笹下釜利谷街道沿いにお住まいの地元の落語家で、同じくこの近く(南区真金町)生まれの故桂歌丸師匠のお弟子さんとのこと。地域で市民向けの落語講座を開催されたり、最近5年間地元小学校のPTA会長をされた経験もおもちでそれを芸に取り入れるなど、地元の人気芸人さんです。
おばば乃たぬきさんは、60歳くらいの女性の落語家見習いのようで、「必需品の布袋」に扇子と手ぬぐい、そして「あんちょこ」を持参され、それを片手に熱演でした。話は、まだ鏡が珍しい頃とのことで、故人を偲ぶために置かれた仏壇の箱に鏡が入っており、参拝者それぞれに箱を覗いて自分の顔が写るのをみて、息子は亡き父親の若いころと対面できたと思い、女房は不倫相手と思い怒り出し、なだめに訪れた尼僧は不倫相手が仏門に入ったと思うという、滑稽話でした。また、歌助さんは、小学校での落語講座で使った小話を連発されて喝采を浴びていました。ただ、いくつかの病を治療中とのことで、参加者で快復を祈りました。
落語の後、昼食が出て会食となるのですが、いつも通り会館のすぐ裏にある障害者支援施設で作る季節感のある手作り弁当でした。
ここで、一句、

梅雨晴れの町の落語や苦笑い

2023年2月20日に、ふれあい茶話会の模様を当ブログの記事として下記にアップしていました。

ふれあい茶話会



町内会館での特設高座。にわか作りとはいえ
手作り感に親しみが持てます。しかも年々
備品が整ってきました。ちょっと前まで後ろの
金屏風代わりの金の布幕も、めくり、踏み台も
ありませんでした。

会場に向かう途中近所のお宅の庭で、
見上げるような立派な百合を見かけました。
丁度今が見頃です。

2025年6月14日土曜日

横須賀しょうぶ園

 6/13午後には梅雨晴間をみて横須賀しょうぶ園を訪ねました。今年は6/10前後がピークと地元誌では報じられていました。
JR横須賀線衣笠駅からバスで15分程行った里山にあります。
ここは、藤と花菖蒲では地元で評判の、横須賀市の植物園です。丁寧に手入れされ、よく管理されて年々よくなってきています。とくに、開花期間中にも、菅笠に紺絣(こんかすり)の衣装で花殻摘みもきちんとされています。私には、適度な広さで、世間では余り知られていない、とっておきの名所だと思っています。
係の方の話では、今日が一番見頃です、といわれました。営業用の常套句かも知れませんが、この日は週末前の金曜日でもあり、ゆっくりと旬の菖蒲を満喫できました。思いのままについつい写真も180枚ほど撮ってきました。これからじっくりと選択、加工したいと思っています。
園内を一巡した後、休憩室で、年に一度ここでしか食べることもないソフトクリームを、今年も美味しくいただいてきました。地元横須賀にある関口牧場の牛乳を使っています。4時で閉店のところ私がその日最後の客で、「味が濃いいですよ!?」とか言われてきました。
この日は、10,500歩コースでした。


花殻摘みも最盛期のようでした。早咲きの花は
順番に枯れていきますが、ここではよく手入れ
されているのには感心します。

水車小屋も稼働中です。



園内を木製通路で巡ります。



園内では花菖蒲と紫陽花の競演です。


品種ごとに畝を分けて育成されています。



関口牧場のソフトクリームも
健在でした。


しょうぶ園入口から。ウッドデッキを巡ります。

旧新橋停車場 鉄道歴史展示室

 6/24にはある株主総会に出るため赤坂見附にでかけ、その帰路に、気になっていた新橋汐留にある「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」に立ち寄りました。先日新橋に来た時には行きそびれた処です(注)。 日本の鉄道発祥の地 汐留にあるミニ博物館で、1872年に開業した日本初の鉄道ターミナル「...