2022年6月30日木曜日

善光寺御開帳と松代

 先日6/27~28には、長野善光寺で6/29まで実施中の御開帳を、初めて参拝してきました。最終日直前でしたので、境内、参道は大変な人出でした。御開帳は飛鳥時代白雉5年(はくち、654年)来7年ごとに行われ、当初昨年春の開催の予定でしたが、コロナ禍で1年延期になり、3密回避で期間も通常より1か月延ばして、今回は4/3~6/29に行われました。

6/27には、昼過ぎに長野市に隣接する須坂市にお住まいの先輩と合流し、地元の目線での参拝に同行させてもらいました。
まず、参道、仁王門を通って境内に入り、本堂と山門の間に建てられた45㎝角、高さ33尺(10m)の回向柱(えこうばしら)に触れてきました。前立本尊(まえだちほんぞん)の右手中指から回向柱に繋がれた「善の綱」を通じて、柱に触れる参拝者と縁が結ばれ、仏の慈悲が伝わるそうです。その後、本堂内手前の外陣(げじん)で本尊をに参拝しました(「外陣参拝」というそうです)。その後、本堂奥の150畳の欄間「内陣」での参拝「内陣参拝」と本尊が置かれている内々陣の床下にある暗闇の回廊を巡る「お戒壇巡り」(おかいだんめぐり)に進みましたが、混雑で90分待ちと聞いてこの日は諦め、翌朝に回すことにしました。
この日は、その後、善光寺周辺にある、6771巻の経書 一切経を収めた、回転する経蔵(輪蔵)、天台宗の本坊 善光寺大勧進、浄土宗の本坊 善光寺大本願、先輩の檀家寺 寛慶寺、を巡ったあと、長野オリンピックでスケート会場となったエムウェーブを経由して、先輩の須坂のご自宅を20年ぶりに訪ねました。ご夫婦でいつも使われている散歩コースから周囲の山々の眺めを楽しんだ後、自宅横の茶室で奥様による裏千家の茶席を経験し、夕食をいただきながら久々の想い出話や近況で深夜まで歓談できました。
翌日6/28には、早めにホテルを出て、早朝5時過ぎには善光寺本堂におもむきました。早朝のためスムースに内陣に入ることができ(先着350人が座れるそうです)、5時半頃から始まる「お朝事」(おあさじ、毎日日の出とともに本堂で始まる、善光寺全山の僧侶が出仕して勤める法要とのこと)のなかでご開帳された本尊 一光三尊阿弥陀如来像 を拝謁し祈願する内陣参拝のあと、お戒壇巡りを経験し、暗闇の回廊途中で「極楽の錠前」に触れてきました。その後、経堂の奥にある、これまで7代の回向柱の納所(往くゆくはそのまま土に還ります)を拝観し、境内を出ました。
門前では、善光寺と所縁の深い西方寺(善光寺が火災の時には社務をここで代行したそうです)、僧侶や参拝者が宿泊する宿坊(門前に39坊あるそうです)、酒造「西之門よしのや」、古い町並み、をゆっくりと回りました。

その後。隣接する城山公園にも立ち寄り、長野県立美術館・東山魁夷館では、魁夷が「私の作品を育ててくれた故郷」とした長野県に生前に寄贈された1000点の絵を順に展示していました。この時は、唐招提寺の襖絵「濤声」や「山雲」の下絵(小さなサイズから段々と大きなサイズの下絵になります)や「白い馬の見える風景」シリーズが多く展示されていました。素晴らしい所蔵品で、これだけでも再訪したくなります。

その後、長野電鉄で長野駅に戻り、そこからバスで30分程にある松代町を訪ねました。松代藩は、善光寺本堂の火災焼失・再建(1707年)の際に普請奉行だったという縁から、それ以降、ここ300余年の間、回向柱の供給産地だそうです。今回の回向柱を切り出した原木が「寄進奉納 回向柱 離材記念木」として町の中心部に披露されていました。松代では、丁度今年が、上田から移封された真田信之(真田幸村の兄です)が松代に入部して400年になるそうで、真田宝物館や真田邸、藩校文武学校、松代城(海津城)跡では7月からの様々な企画の設営中でした。時間が足りず、興味のあった佐久間象山資料館、象山神社、松代象山地下壕(終戦まで軍中枢、政府機関の移転先として舞鶴山他の下で掘削を進めた地下壕)などは見逃してきました。

6/27.6/28は、それぞれ13,800,20,600歩コースでした。

暑い中の短期間の旅でしたが、この時期にしか観れない、ここでしかできないことの多い、印象の深い旅でした。


善光寺御開帳での回向柱と善の綱 

山門から回向柱と本堂

歴代回向柱納所

6/28早朝5時の回向柱

本堂

善光寺大勧進前の放生池から山門と本堂

山門_信州山善光寺

仁王門の三宝荒神像(高村光雲・米原雲海作)

参道から仁王門

長野県立美術館・東山魁夷館

先輩の散歩道から善光寺方面を
望む山並み(須坂から西方向)
松代の真田邸_9代藩主幸教の母の隠居屋敷
真田10代の松代城(海津城)跡
長野駅_大庇・大列柱
(おおひさし・だいれっちゅう)

2022年6月29日水曜日

叔母さんの「疎開日記」1945

 
先日の舞鶴帰省の折に、実家母屋での資料整理の中で見つけ、気になって横浜に持ち帰った資料に叔母さんの書かれた「疎開日記」がありました。出版後に義兄である私の父親に贈られたものと思われます。

まえがきによると、昭和16年4月(1941年)に女学校に入学された叔母さんは、同年12月8日の宣戦布告の詔勅が下ると太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまり、戦時下の耐乏生活を東京都目黒区で経験されました。昭和19年頃には、学徒動員で、警戒警報や空襲警報におびえながら、防空頭巾をもって兵器を作る軍需工場に通い働かれました。昭和20年3月には女学校の4年生を修了すると、急遽5年生とともに繰り上げ卒業となり、小学校の先生になることを希望されていた叔母さんは臨時教員養成所に入り、その後、母校の鷹番国民学校に奉職されたそうです。その時すでに学童の疎開は始まっており、そこでの教員不足から児童に付き添って甲府市湯村町での疎開生活が始まりました。
この日記は、終戦を挟んだ5月5日から10月16日までの疎開先の野良湯寮での日常業務と朝昼夕の献立の日誌です。このときの叔母さんは、今でいうと高校2年生(16歳)の時だったそうです。
その後、目黒区の資料室にこの日誌を残したいとの話があり、「何分にも私の個人的なことなので躊躇しましたが、この日記を読み返す時がくるとも考えず、不安の極致で書いたことを、戦争体験者の少なくなった今、読んで頂くことも意味のある事と思い、協力させて頂くことにしました」と出版の動機を記されています。日記には、主には先生同士のやり取り、両親からの手紙の嬉しさ、一時帰京の楽しみ、終戦での現場の混乱の模様(再疎開も話題になったそうです)、など、16歳の先生が、初めての赴任地での疎開生活を、不安のなかに好奇心もある目で見た行動記録がきちんと綿々と綴られています。ついつい読み込んでしまいました。
献立日誌の冒頭には、
  山の月を待つべし、散る花を追うことなかれ
  たとえ一粒たりとも、天地人の三徳によりて生ず
と書かれており当時の教えを表しています。
昨今のウクライナ戦争の報道を知るにつけても、もうこのような事態を起こしてはならないと、強く感じます。
叔母さんは10年程前に亡くなられましたが、明日には、叔母さんの長男(従弟)の方にお会いする機会があり、この日記を身内に里帰りさせるつもりです。


「疎開日記」装丁


まえがき1
まえがき2

業務日誌
献立日誌

2022年6月26日日曜日

ドナルド・キーン展

 6/25には、今は信州須坂に住んでおられる先輩に同行して「生誕100年 ドナルド・キーン展ー日本文化への一筋の道ー」を、港の見える丘公園南端にある県立神奈川近代文学館に訪ねました。生い立ちから生前最後のインタビューまで丁寧に一生を綴る展示会でした。大学卒業後(成績優秀で学費、留学費全て奨学金だったそうです)従軍を経て、当時の英語圏での日本文学論と現実との違いの大きさに動かされ日本文学の国際化を目指す決意をした心境や外国人として初めて「日本文学史」を書くときの予想される反発との葛藤、東日本大震災を機に日本国籍を取得され「キーン ドナルド」(通称 鬼怒鳴門)となられた経緯など、当時の手紙などのやり取りを通じて示されており、興味をそそられました。英語、日本語の著作の多さも圧倒的で、日本文学への傾倒ぶりが伝わってきます。2008年には、外国人として初めて文化勲章も受賞されていました。就中、当時の文学者との交流が面白く、川端康成、谷崎潤一郎、大岡昇平、三島由紀夫、安部公房、司馬遼太郎、鶴見俊輔、小田 実、他との手紙のやりとりが直筆で披露されており、キーンさんの日本語の達筆さとともに、多くの作家の肉筆もみられ目新しく感じました。また、新潟に養子のキーン誠己さんがおられることも知りました。コンパクトですがなかなか収穫の多い充実の展示会でした。
この日は、14,800歩コースでした。



県立神奈川近代文学館
山下公園と神奈川近代文学館を結ぶ霧笛橋
霧笛橋_神奈川近代文学館内の喫茶
「芸亭(うんてい)茶房」から2019.5

港の見える丘公園から横浜ベイブリッジ

2022年6月23日木曜日

親父の旅行記1988

 先日の舞鶴帰省の折に、実家の母屋で資料類の整理をするなかで、両親が欧州6か国を巡った旅行記「ヨーロッパ六か国走り抜け十二日間の旅」(1988.5.17~5.28)を見つけて、ついつい読み込んでしまいました。また、表紙には、その半年前に、いつも机上で使っていた文鎮を描いたスケッチが含まれていました。以下に、表紙、1ページ及び最終8ページをアップします。
シベリア経由でロンドンに入り、マドリッド、ローマ、スイス、ハイデルベルグ、ライン河、パリを巡りアンカレッジ経由で帰国しているようです。全9ページの短い紀行文ですが、当時の見方が偲べます。また、表紙の絵をみて、当方のスケッチ画(最後にアップしてみました)も無意識のうちにも影響されているなとあらためて感じた次第です。


表紙1987_父


先頭ページ

最終ページ

目黒不動尊龍泉寺2018_きのけん

2022年6月21日火曜日

楽写会写真展

 属する写真の会「楽写会」で毎年企画しています第7回写真展「瞬(ときめき)のとき」を大崎駅前にある品川区立O美術館(オー)で6/17~22に開催しました。会場立会い当番のあとにも来ていただいた方々と近くで講評などを聞きながらゆっくりと懇談できるのも楽しみのひとつです。今回、隣の会場で書道展や絵手紙をルーツとする「絵と言葉の輪舞展」も併設でした。そこの主宰者や当番の方々とも話ができ畑は違っても趣味を楽しむ者同士で交流できました。


今回の出展は「おしゃべり中」(鎌倉長谷寺)
でした。

会場の入口




2022年6月19日日曜日

「日常野放図絵」展

 先日、大阪本町にあるギャラリー「楓」で「山縣寛子展ー日常野放図絵」を観てきました。
日常生活のくつろいだ雰囲気を残したまま住人がすっといなくなったときの風景を、アクリル絵の具を使い、薄い布を貼ったキャンバスに、長く画かれています。4年前には、私の新しい書斎にも、同じ趣旨で制作お願いしました。
今回の個展では、コロナ禍もあり周りの事物を見直したとのことで、モチーフの幅を広げておられるようにみえました。
個展のタイトル「日常野放図絵」も「日常  野放図  絵」と「日常の  ほうづえ(頬杖)」をかけいているそうで、作風をよく表しています。


案内状から

落ち着いたレトロな会場でした

ビル街の中の古民家風のギャラリー「楓」

自宅書斎の絵「くつろぎのとき」

2022年6月18日土曜日

3年振りの舞鶴帰省

 6/12~16には、3年振りに東舞鶴に帰省しました。
いつもは新幹線で京都まで行き、京都から綾部まで山陰線、綾部から東舞鶴まで舞鶴線で帰りますが、今回は大阪から入り福知山まで宝塚線(しばらく前まで「福知山線」でした)、福知山から綾部まで山陰線、綾部から舞鶴線でした。7~8年前までは品川~東舞鶴間の深夜バス「シーフィールド号」(京急バスと京都交通の共同運航でした)が毎日運行され、出張や旅行のための利用者には旅程が車中泊で1日節約できて便利でした。ところが、運転手不足という理由でしたが運行休止になり、いまも続いているのが残念です。運行開始の頃からずっと帰省には殆どこれを利用する常連客でした。
今回感じましたのは、京都からのルートより大阪からの便の方がバス便を含めて便数が多く便利になっていることでした。このルートの交通量が増えていることと高速道路が整備され便利になったことで、いずれ短期的にはメインがバス便に置き換わるようにも感じます(所要時間は若干バス便が長いですが費用は大幅に安く設定されているようです)。一方、JRは、しばらく前に収支の厳しい地方路線(「限界路線」と報じられていました)として上記京都-東舞鶴間の運行ルートをあげていましたから。長い目で見た鉄道便では、北陸新幹線の延長で首都圏から福井県の敦賀までが新幹線利用で便利になれば、だいぶ先の話ですが、流れは変わるかもしれません。
とまれ、帰省中は、久々の親族、友人の墓参り、親族や旧友との3年ぶりの再会(この間親族はZoomでは何度かリモートで会っていましたがやはり違います)、実家の整理の準備、先代蔵書の図書館への寄贈、舞鶴市の空き家・空き地施策や再開発計画の確認など、現地でしておきたかったあれやこれやをなんとかこなしてきました。


寺川河口から青葉山(左端のこの近くで
一番高い山693mです)

海上保安庁第八管区巡視船「天洋」と舞鶴湾。
奥にはクレインブリッジ(鶴の橋)も見えます。

小樽-舞鶴便フェリーポートから自衛隊教育隊
奥左の峰は青葉山です。
海上自衛隊総監部と自衛艦「ひゅうが」。
右奥は造船所(ジャパンマリンユナイテッド
舞鶴事業所)

友人の墓参りの途中で(泉源寺)

甥の釣果 アコウ(さばき済、
煮付けでいただきました)
街中を流れる興保呂川(よおろがわ)

実家のある浜地区の氏神さま 白糸浜神社。

白糸浜神社本殿。今回は宮司さんにも
お会いできました。

檀家寺の得月寺(とくげつじ)山門。
今回は住職さんとも久々にお話しできました。

平安時代から続く舞鶴地区の
氏神さま 大森神社

2022年6月17日金曜日

大阪鶴見緑地公園でのアジサイと蓮と晴


大阪を発つ 6/12には、中之島のNCBホテルを早めに出て、大阪でいまアジサイが評判と聞いた鶴見緑地公園に立ち寄りました。京阪中之島駅から京橋に出て大阪メトロ長堀鶴見緑地線で鶴見緑地駅まで行くと、ここはその駅前近くにあります。大阪市の東側で鶴見区と守口市にまたがるとか。鶴見緑地は、1990年4~9月に開催された「国際花と緑の博覧会(通称・花の万博、花博)」のメイン会場で、いまでは「花博記念公園鶴見緑地」と通称で呼ばれるそうです。花博での記念設備も、咲くやこの花館、いのちの塔(展望塔)など、多く残されています。アジサイは公園中央部の「花の谷」エリアに数100mにわたる小径に沿って植えられていて丁度見頃でした。また、来週は近くの蓮もよい時期です。また、土地柄、河内地車囃子保存会の方々による祭り囃子のパフォーマンスで会場を賑やかに盛り上げていました。昨日とは逆の晴天下のアジサイを楽しめました。ここは、花博前から保存されているオランダ風の風車がポイントだそうですが、残念ながら見逃してしまいました。次の機会にしたいと思います。
この日は、15,700歩コースでした。広大な敷地で結構歩きました。
はやいもので、この投稿が昨年8月から始めたこのブログの100件目の投稿になるようです。はじめた頃からは記事の内容、書き方も随分と変わってきたように自分ながら感じます。もうしばらくは続けてみたいと思っています。

花の谷のガクアジサイ
咲くやこの花館の前の蓮
初夏の強い日差し
中央噴水_ボクも浴びたいな
花の谷入口

河内地車囃子保存会の祭り囃子

蓮池_涼しそうです
いのちの塔(花博の展望塔)

「京橋の碑」と紫陽花

 6/2午後には、7月の写真展への出展作のプリント色合わせのために、Fフォトギャラリー銀座を再度訪ねました。 その帰路には、銀座の隣町の京橋に出て、JR東京駅まで歩きました。途中、銀座中央通りと首都高速の交差点で、街中で咲き始めたばかりの紫陽花を見かけました。 ここは、江戸期には...