先日6/27~28には、長野善光寺で6/29まで実施中の御開帳を、初めて参拝してきました。最終日直前でしたので、境内、参道は大変な人出でした。御開帳は飛鳥時代白雉5年(はくち、654年)来7年ごとに行われ、当初昨年春の開催の予定でしたが、コロナ禍で1年延期になり、3密回避で期間も通常より1か月延ばして、今回は4/3~6/29に行われました。
6/27には、昼過ぎに長野市に隣接する須坂市にお住まいの先輩と合流し、地元の目線での参拝に同行させてもらいました。
まず、参道、仁王門を通って境内に入り、本堂と山門の間に建てられた45㎝角、高さ33尺(10m)の回向柱(えこうばしら)に触れてきました。前立本尊(まえだちほんぞん)の右手中指から回向柱に繋がれた「善の綱」を通じて、柱に触れる参拝者と縁が結ばれ、仏の慈悲が伝わるそうです。その後、本堂内手前の外陣(げじん)で本尊をに参拝しました(「外陣参拝」というそうです)。その後、本堂奥の150畳の欄間「内陣」での参拝「内陣参拝」と本尊が置かれている内々陣の床下にある暗闇の回廊を巡る「お戒壇巡り」(おかいだんめぐり)に進みましたが、混雑で90分待ちと聞いてこの日は諦め、翌朝に回すことにしました。
この日は、その後、善光寺周辺にある、6771巻の経書 一切経を収めた、回転する経蔵(輪蔵)、天台宗の本坊 善光寺大勧進、浄土宗の本坊 善光寺大本願、先輩の檀家寺 寛慶寺、を巡ったあと、長野オリンピックでスケート会場となったエムウェーブを経由して、先輩の須坂のご自宅を20年ぶりに訪ねました。ご夫婦でいつも使われている散歩コースから周囲の山々の眺めを楽しんだ後、自宅横の茶室で奥様による裏千家の茶席を経験し、夕食をいただきながら久々の想い出話や近況で深夜まで歓談できました。
翌日6/28には、早めにホテルを出て、早朝5時過ぎには善光寺本堂におもむきました。早朝のためスムースに内陣に入ることができ(先着350人が座れるそうです)、5時半頃から始まる「お朝事」(おあさじ、毎日日の出とともに本堂で始まる、善光寺全山の僧侶が出仕して勤める法要とのこと)のなかでご開帳された本尊 一光三尊阿弥陀如来像 を拝謁し祈願する内陣参拝のあと、お戒壇巡りを経験し、暗闇の回廊途中で「極楽の錠前」に触れてきました。その後、経堂の奥にある、これまで7代の回向柱の納所(往くゆくはそのまま土に還ります)を拝観し、境内を出ました。
門前では、善光寺と所縁の深い西方寺(善光寺が火災の時には社務をここで代行したそうです)、僧侶や参拝者が宿泊する宿坊(門前に39坊あるそうです)、酒造「西之門よしのや」、古い町並み、をゆっくりと回りました。
その後。隣接する城山公園にも立ち寄り、長野県立美術館・東山魁夷館では、魁夷が「私の作品を育ててくれた故郷」とした長野県に生前に寄贈された1000点の絵を順に展示していました。この時は、唐招提寺の襖絵「濤声」や「山雲」の下絵(小さなサイズから段々と大きなサイズの下絵になります)や「白い馬の見える風景」シリーズが多く展示されていました。素晴らしい所蔵品で、これだけでも再訪したくなります。
その後、長野電鉄で長野駅に戻り、そこからバスで30分程にある松代町を訪ねました。松代藩は、善光寺本堂の火災焼失・再建(1707年)の際に普請奉行だったという縁から、それ以降、ここ300余年の間、回向柱の供給産地だそうです。今回の回向柱を切り出した原木が「寄進奉納 回向柱 離材記念木」として町の中心部に披露されていました。松代では、丁度今年が、上田から移封された真田信之(真田幸村の兄です)が松代に入部して400年になるそうで、真田宝物館や真田邸、藩校文武学校、松代城(海津城)跡では7月からの様々な企画の設営中でした。時間が足りず、興味のあった佐久間象山資料館、象山神社、松代象山地下壕(終戦まで軍中枢、政府機関の移転先として舞鶴山他の下で掘削を進めた地下壕)などは見逃してきました。
6/27.6/28は、それぞれ13,800,20,600歩コースでした。
暑い中の短期間の旅でしたが、この時期にしか観れない、ここでしかできないことの多い、印象の深い旅でした。
(おおひさし・だいれっちゅう)