2022年6月29日水曜日

叔母さんの「疎開日記」1945

 
先日の舞鶴帰省の折に、実家母屋での資料整理の中で見つけ、気になって横浜に持ち帰った資料に叔母さんの書かれた「疎開日記」がありました。出版後に義兄である私の父親に贈られたものと思われます。

まえがきによると、昭和16年4月(1941年)に女学校に入学された叔母さんは、同年12月8日の宣戦布告の詔勅が下ると太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまり、戦時下の耐乏生活を東京都目黒区で経験されました。昭和19年頃には、学徒動員で、警戒警報や空襲警報におびえながら、防空頭巾をもって兵器を作る軍需工場に通い働かれました。昭和20年3月には女学校の4年生を修了すると、急遽5年生とともに繰り上げ卒業となり、小学校の先生になることを希望されていた叔母さんは臨時教員養成所に入り、その後、母校の鷹番国民学校に奉職されたそうです。その時すでに学童の疎開は始まっており、そこでの教員不足から児童に付き添って甲府市湯村町での疎開生活が始まりました。
この日記は、終戦を挟んだ5月5日から10月16日までの疎開先の野良湯寮での日常業務と朝昼夕の献立の日誌です。このときの叔母さんは、今でいうと高校2年生(16歳)の時だったそうです。
その後、目黒区の資料室にこの日誌を残したいとの話があり、「何分にも私の個人的なことなので躊躇しましたが、この日記を読み返す時がくるとも考えず、不安の極致で書いたことを、戦争体験者の少なくなった今、読んで頂くことも意味のある事と思い、協力させて頂くことにしました」と出版の動機を記されています。日記には、主には先生同士のやり取り、両親からの手紙の嬉しさ、一時帰京の楽しみ、終戦での現場の混乱の模様(再疎開も話題になったそうです)、など、16歳の先生が、初めての赴任地での疎開生活を、不安のなかに好奇心もある目で見た行動記録がきちんと綿々と綴られています。ついつい読み込んでしまいました。
献立日誌の冒頭には、
  山の月を待つべし、散る花を追うことなかれ
  たとえ一粒たりとも、天地人の三徳によりて生ず
と書かれており当時の教えを表しています。
昨今のウクライナ戦争の報道を知るにつけても、もうこのような事態を起こしてはならないと、強く感じます。
叔母さんは10年程前に亡くなられましたが、明日には、叔母さんの長男(従弟)の方にお会いする機会があり、この日記を身内に里帰りさせるつもりです。


「疎開日記」装丁


まえがき1
まえがき2

業務日誌
献立日誌

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