2025年10月31日金曜日

山手西洋館のハロウィン飾り2025

 10/30には、ハロウィン前日でしたが、柿展の後に関内に出て山下公園を東に移動し、山手地区にある西洋館のハロウィン飾りを駆け足で観てきました。西洋館は8つほどがこの地区に分散していますが、この日は、海に近い港の見える丘公園近くのイギリス館と山手68番館を訪ねました。
横浜市内で見るハロウィンとはちょっと違って、重々しくて、西欧流の静かでコミカルで手の込んだ入念な飾りつけがうかがえるところが気に入って、ちょくちょくこの時期顔を出しています。
毎年趣向がわずかずつ変わるのも楽しみです。
たまたまこの日は人手も少なくゆっくりと巡ってきました。
この日は、11,000歩コースでした。








イギリス館の裏庭。カスケードと
いわれる階段式水路です。下りた先が
日影棚です。

背景は日影棚(パーゴラ)というそうです。


イギリス館



イギリス館入口で骸骨がお出迎えです。

山手68番館

2025年10月30日木曜日

今年も柿展2025

 10/30には、横浜こども植物園の柿展と秋バラを訪ねました。
今年の猛暑で果実や野菜などの秋の実りが小型化していると聞きますが(栗、芋、コスモスなど)、柿についてはそのようなことはなさそうで、いつもの通りの実りでした。私にとっては身近で実りを実感するのは柿です。毎年果物の中でも一番に多く食べます。前に自宅では庭に植えた柿の木から多い時には80個ほど収穫した記憶があります。渋柿でしたので干し柿にして楽しみました。
横浜こども植物園も自宅からは1時間足らずで行け(京急井土ヶ谷駅前からバスで園のすぐ前までたどり着けます)、手頃な広さで人も少なく植栽も品種が多く飽きません。ユニークなのは全国の100種類ほどの柿が植えられていることで地方色もうかがえますし、渋が抜けるわけなど、孫向きのちょっとした耳学問も入ります。
この日は、8,800歩コースでした。
ブログ履歴によると、このところ例年2022、2023、2024年秋にはここを訪ねています。
因みに、20241029には、以下のような記事を当ブログにアップしていました。

秋バラと柿展2024








経験的に柿のこのような直獲りは危険です。
柿竿を使ってもらいたいところとです。
以前の自宅で収穫中に脚立を踏み外し、
転落して危ない思いをしましたので。



秋バラも満開でした。

サルビアはこれからでしょうか。

オキナワスズメウリ。毒性とか。

柿展の展示。中央は堅い樹質の黒柿の
調度品です。

植物園入口から

2025年10月29日水曜日

秋バラと氷川丸

10/28には、秋雨の続くなかの晴れ間をぬって、山下公園に散歩に出ました。丁度秋バラの時期です。臨海公園である山下公園の中央にあるこのバラ園は、氷川丸の係留桟橋の前に当たり、海沿いにある、珍しく開放的なバラ園で気に入っています。ここには、約160種1,900株ものバラが植栽されています。バラにとっては海風をもろに受けて過酷な環境かも知れません。
この日、秋バラはややピークを越えた頃にように見えましたが、枯れ花を摘んでいる係の方によると、秋バラは春バラに比べて咲く時期に幅があり長く楽しめるそうです。併せて係の人から春バラと秋バラは同じ茎に咲く品種もあるし、春、秋どちらか年一回しか咲かない品種もある、蔓バラは春しか咲かないとか。また、花形は秋が小さく地味だが香は格段に強いそうです。
山下公園は、1923年(大正12年)の 関東大震災 の瓦礫を埋め立てて造成され、1930年(昭和5年)3月に開園していますが、バラ園は開園当初からあったそうです。バラは横浜市の花にもなっているとか。外国人居留地での栽培が契機なって一般市民の庭にも広がっていて、瓦礫として持ち込まれ、埋めるに忍びずそれがここに集められた…、などと勝手な想像もできます。しかも「未来のバラ園」と命名されているのも当時に何らかの思い入れがあってのことのように思えます。
この日は、11,000歩コースでした。




日米ガールスカウト友好の像(日米
友好の像;The Girl with the Ship
横浜市とサンディエゴ市の姉妹都市
提携(1957年)を記念して両市に
建てられたそうです。



ここではバラの根元に小さな草花が多く
植えられそちらも楽しめます。これは
ネコノヒゲだそうで、園入口で目立って
いました。解毒剤、利尿剤になる薬草だ
そうです。名がよく体を表しています。





コキアもここでは変色中です。関東では
10月中旬が紅葉したコキアの見頃で
したので、ちょっと遅れています。
右奥が「日米友好の像」です。



2025年10月25日土曜日

葬送に関する言葉遣いのこと

 このところ実家の墓じまい(改葬・分骨)に当たって、墓地管理者である檀家寺 宗教法人得月寺のご住職(宗教法人の代表役員でもあります)、墓石の取壊し・遺骨の取出しを施工する石材店主、市役所の改葬許可の担当部署(舞鶴市では生活環境課でした)と話す機会が増えました。私は、墓地利用者(墓地の一区画を墓地管理者か借りて墓石を建てています)であり祭祀継承者ということになります。ここで祭祀継承者は、仏壇、仏具、位牌、墓石などの祭祀財産(先祖を祀るための財産) を受け継ぐ者、だそうです。これらは「墓地、埋葬等に関する法律」などの規定に遡るようです。
上記の関係者と話を進める中で、幾つか気になる言葉遣いがありました。「埋葬、埋蔵、収蔵」の使い分けもそのひとつです。一般には広い意味では埋葬と言われますが、それぞれ区別して使われていました。
埋葬は、遺体を棺などに納めて墓穴に埋める土葬を意味し、埋蔵が、火葬にされた焼骨を墓地に葬ることを指すとのこと。また、収蔵は遺骨を納骨堂などに安置すること、墓地の土中に埋めるのではなく、納骨堂や寺院内の骨壺収蔵施設などの施設内に納める行為を指すそうです。
一般に言う「お墓に遺骨を納める」のは「埋蔵」に当たり、関係者ではこの言葉が普通に使われます。また、分骨も、上記の「埋蔵」または「収蔵」と同様の取り扱いを受けるとか。
関係者と話したり関連書籍を読む中で他にもいろいろと私にとっての新語が飛び交います。関わってみないと分からないものです。ただ、埋蔵も、「埋蔵金」というとまた別の意味になりますが。

先に当ブログにアップした「本骨と分骨」 の下記の記事もそのひとつでした。

墓じまいでの本骨と分骨


檀家寺の得月寺本堂。臨済宗天龍寺派の
禅寺です。ここに位牌が収蔵されています。
本堂の左奥の墓地に先祖の遺骨が
されて
います。
 
  得月寺山門。10年前のお盆8/15 施餓鬼会の
ときに描いていました。

2025年10月23日木曜日

親父譲りの帽子

 このところ、年齢もあってか父親(大正6年生れ平成2年に73歳で永眠しました)の残した帽子をかぶることが増えました。
実家を整理した際に、6つほどの帽子を自宅に持ち帰りました。ハンチング帽(鳥うち帽)からクラウンの乗ったフェドラ帽まで、夏用のストローハットも残っていました。
はじめはかぶって出ることもなかったのですが、こちらの年齢とともに好みも変わり、また、手頃な秋の色の帽子が手元になかったことから段々と使うようになり、9月に大阪万博を訪ねたときや三渓園など近くの散歩のときにも使うようになってきました、今回親父ほかの先祖の墓じまい(改葬・分骨)の準備のために舞鶴に帰省する時もかぶってきました。 
なにか因縁を感じます。
今回使ったのはハンチング帽ですが、サイズもピッタリで気に入ってきました。


親父譲りのハンチング帽
  
内側は裏生地が使われていますが、大分傷んで
きています。が、サイズはピッタリです。

久々の舞鶴帰省

 10/22には、墓じまいの事前準備のために舞鶴に帰省しました。
檀家寺の得月寺にうかがい、改葬許可申請書の「墓地管理者(お寺さん)の証明」をいただき、その足で舞鶴市役所の生活環境課に提出し、若干の修正をしてなんとか受理されました。一週間くらいで、改葬許可証、分骨証明書が自宅に届くそうです。
翌日10/23には、朝からホテルの自転車を借りていつもの「散車」に出かけ海岸一帯を一巡しました。長年の定番コースです。前島では7~8㎝の小鯵がほぼ「入れ食い」状態でよく釣れていました。サビキ釣りで一回に2~5匹釣れます。皆さん唐揚げ用とのこと。羨ましい風景です。私もたまに夕飯のおかずになるくらい大量に釣って帰った記憶があります。
この日は前日とうって変わって好天でいつもの明るい静かな海岸風景です。
その後、墓石の取壊し工事を委託している石材店と墓地で打合せをし、今後の段取りを相談しほぼ固まりました。墓石の取壊し・遺骨の取り出しは一週間後の11/1に行うことになりました。
この日は、7,800歩コースでした。


七条海岸から東舞鶴港。右対岸には海上自衛隊
教育隊があります。

前島桟橋から東舞鶴市街の海岸沿い
 
前島に停泊中の水産庁の「みかさ」と
奥のクレインブリッジ(鶴の橋)。最近は女性、
家族連れの釣り客を多く見かけます。

中央はかつて「保安庁桟橋」と呼び魚釣りの名所
だった浮桟橋です。当時には第八管区海上保安
本部がここにありました(今は西舞鶴に移転して
います)。当時はボラ、サヨリ、アジがよく釣れ
ました。今は「自衛隊桟橋」となって一般人は
入れません。背景はジャパンマリーンユナイ
テッド(JMU)の主に自衛艦の修理工場です。
かつては砕氷船「しらせ」やタンカーを造る
造船所でしたが10年ほど前に造船事業から撤退
しています。
珍しい水産庁の「みかさ」

安政四年創業の御菓子司「勇貫堂」(ゆうかんどう)
も健在です。大門通り沿いにある舞鶴らしい名前です。
近く行う墓じまいに伴う先祖供養の法事の
引き出物を注文してきました。

市内敷島通りのハナミズキ並木も
すっかり色付いていました。

海上自衛隊舞鶴地方総監部と停泊中のイージス艦他。
この日はヘリ空母「日向」は出航中のようです。
背景右手の山は五郎ヶ岳(ごろうがたけ)で頂上に
いまは展望台が置かれています。戦前には長く舞鶴
軍港を守る砲台が置かれ今もその跡が残っています。

東舞鶴港の一部を埋め立てられてできた
前島の全景です。中央奥の山の先が若狭湾に
なります。20251024朝の様子です。
東舞鶴港全景。いつもの懐かしい風景です。

2025年10月19日日曜日

映画「ワルシャワ蜂起」

 10/19には近くの本郷台駅前にあるあーすぷらざ(正式には神奈川県立地球市民かながわプラザ)で映画「ワルシャワ蜂起」を観てきました。
ワルシャワ蜂起については、第二次世界大戦中のポーランドで起こった、当時のドイツ占領下でのレジスタンス運動、くらいしか知りませんでした。
この上映会を知ったのは、いつも通う句会があーすぷらざで行われ、その途中にある公益社団法人青年海外協力協会(JOCA:JICA海外協力隊のOB・OGが中心となり組織された団体。この施設の指定管理団体です)の事務所前の掲示板で、このドキュメンタリの上映会のビラをたまたま見かけ、気になっていました。
ワルシャワ蜂起は、第二次世界大戦末期の1944年8月1日から10月2日にかけて、ナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった大規模な武装蜂起です。西欧で劣勢になったドイツに対して連合国ソ連赤軍がワルシャワに侵攻する前に、ロンドンにあったポーランド亡命政府は、ドイツから自力で首都を解放し、亡命政府の支配下にあることを示す独立政権を樹立することで、戦後のポーランドの独立と主権を確保することを目指しました。(注)
結果的には、蜂起はドイツに鎮圧され、多くの人命を失いました。蜂起軍の兵士が約1万6千人、民間人が推定13万から25万人にも上りました。さらに、鎮圧後、約70万人の住民が市から追放されました。この一部がウクライナにも移住したそうです。
ワルシャワ蜂起は、自由と主権のために払われた途方もない犠牲であり、ポーランド人の国民的アイデンティティの核心をなす出来事として、現代まで強く記憶され、評価され続けている、とのこと。一方で、蜂起を始めたことに対して、敗戦後にはどこでも言われることですが「無駄な犠牲」論もあるようです。
この映画では、蜂起開始から一時期市内一部を解放するも、その後ドイツの反撃を受け大きな被害を被る様が、蜂起軍の撮影班の目で見た記録映像に、カラーと撮影班メンバの会話を付加して、リアルに映像化されています。

悲惨な映像が多いなかにも近くで撮影した現場の小さな出来事の映像もあり、戦時の映像としては幅広く様子を伝えるドキュメンタリになっています。いまのガザやウクライナを思わせる惨状は今もなにも変わっていないと思いましたし、依然として国土、主権一体の原則が守られていない様を目の当たりにし、隣国の占領がいかに悲惨なものかを見せつけられる思いでした。
上映会と同時に、ここでは併せて「ワルシャワ。灰の中から蘇る不死鳥」展が行われていて、戦後の復興の模様が詳細に展示されています。ワルシャワ市には「ワルシャワ蜂起博物館」があり、この企画はこの博物館の蜂起80年記念の企画の一環であったようです。
一連の上映会、企画展を通して、この蜂起がいまもポーランド人のアイデンティティの源泉になっているようにあらためて思いました。
ポーランドは、私にとって今からでも行けるものなら行ってみたい国のひとつでしたが、その思いをさらに強くしました。
この日は、7,800歩コースでした。


因みに、ここのあーすぷらざでは、しばらく前には、横浜で夏に開催された第9回アフリカ開発会議(TICAD9)のアピールをしていました。当ブログにもTICAD9直前の2025年5月に以下のような記事をアップしていました。

カンガ展@本郷台あーすぷらざ

もう一つ、あーすぷらざでは、木曜日に上映会が定常的に行われているようで(「木曜上映会」と呼ばれているとか)、興味のある映画予告もありました。今回は日曜日に行われた、その特別企画だったようです。映画好きの私には自宅近くの身近な新しいミニシアタとしてもこれから利用できそうです。


映画のチラシから

「ワルシャワ。灰の中から蘇る不死鳥」
展から。1944蜂起前後の年代順に
説明されます。


1944 蜂起兵の共和国
1945 ワルシャワ解放
「ワルシャワ。灰の中から蘇る不死鳥」展入口

「ワルシャワ。灰の中から蘇る不死鳥」
展のチラシから

同上その2

(注)ワルシャワ蜂起の背景、経過そして結果
背景: ポーランドは第二次世界大戦開戦時にドイツとソ連に分割占領され、国内にはロンドンに亡命していたポーランド亡命政府系の地下組織「国内軍(Armia Krajowa, AK)」が抵抗活動を行っていました。
目的: 国内軍は、東部から進撃するソ連赤軍がワルシャワに到達する前に自力で首都を解放し、亡命政府の支配下にあることを示す独立政権を樹立することで、戦後のポーランドの独立と主権を確保することを目指しました。これは、軍事的にはドイツと、政治的にはソ連と戦うという性格をもちました。
開始: ソ連軍がワルシャワ近郊にまで迫り、ドイツ軍が混乱しているタイミングと見て、1944年8月1日に蜂起が開始されました。国内軍は約4万人の兵力を動員し、当初は市内の一部を解放するなど優勢に進めました。
結果:  鎮圧と大損害: 蜂起は63日間に及びましたが、武器が不足し、連合国(特に期待されたソ連軍)からの支援がほとんど得られなかったため、ドイツ軍によって徹底的に鎮圧されました。人的被害: ポーランド側の犠牲者は膨大で、蜂起軍の兵士が約1万6千人、民間人が推定13万から25万人にも上りました。鎮圧後、約70万人の住民が市から追放されました。
ワルシャワの破壊: ドイツ軍は蜂起への報復として、ワルシャワ市街の徹底的な破壊を計画・実行しました。これにより、歴史的建造物を含むワルシャワの市街地はほぼ完全に廃墟と化し、文化遺産の多くが失われました。
政治的結末: 蜂起の失敗とソ連軍の進駐停止(傍観)は、亡命政府の勢力を弱め、その後ソ連が主導する共産主義政権がポーランドに樹立される決定的な要因の一つとなりました。また、ソ連による支援拒否は、ポーランド人の間に強い反ソ感情を植え付ける結果となりました。

ワルシャワ蜂起は、ポーランドの独立と主権を守ろうとした悲劇的な抵抗として、ポーランドの歴史において非常に重要な出来事とされています。
ワルシャワ蜂起での敗北は、ポーランド国民にとって悲劇的な敗北でありながら、同時に抵抗と独立の精神を象徴する英雄的な行為として、非常に複雑で重要な意味を持っています。

総じて、ワルシャワ蜂起は、自由と主権のために払われた途方もない犠牲であり、ポーランド人の国民的アイデンティティの核心をなす出来事として、現代に至るまで強く記憶され、評価され続けています。  (関連HPなどから引用、編集)

早春の取り合わせ風景―梅と菜の花のコラボー

 1/31には平塚の花菜ガーデンに久々に出かけました。この時期話題になる菜の花と梅の取り合わせをここで一見したいと思っての散歩コースの選択でした。菜の花と桜は同時期に咲くことが多いですが、梅と一緒に観るのは関東ではそう多くはありません。 結果的には正解で、白梅も菜の花も咲き始めた...