12/13午後には、郷里の舞鶴にある得月寺の墓地内の一区画の墓じまいの法要を本堂で親族が集まって行い、ようやく一区切りがつきました。
ここに至るまで3年ほどかかったように思います。墓じまいの一つの事例に過ぎませんが、手探りで直接に関わったことからその大まかな流れを振り返ってみました。
墓碑の生い立ちと墓じまいの経過は以下の通りです。
(1) 昭和3年(1928)5月、初代に当たる私の曾祖父の妻(曾祖母)の死去(昭和2年7月)に伴い二代目にあたる祖父により墓碑と休み石が建設されました。今年が建設97年目になります。
(2) 昭和40年(1965)5月、三代目にあたる父により、戦死した自身の弟の供養と先祖供養のための石灯篭2基とそれまでに埋蔵した霊を刻字した墓誌が建てられました。それまでお盆には、竹竿で四角の枠を組み木製で障子貼りの灯篭をぶら下げて使っていましたが、石燈篭に変わりました。
(3) その後、新たな逝去者が出るたびに遺骨を埋蔵し、墓誌にはその戒名等を逐次刻字してきました。この墓碑には、初代から三代目まで全部で10体の本骨が埋蔵されています。
(4) 令和5年頃から今後の墓碑の管理について現世代に合った墓碑の管理の仕方を親族で、また墓地管理者のご住職とも相談してきました。ご住職とは3度くらいこの件でお会いしました。その結果、令和7年11月、これまでの墓碑を墓じまいし、遺骨を得月寺永代供養墓(合同墓)に本骨として改葬することにしました。さらに、一部を分骨し、私の現住所に近い横浜市営 日野こもれび納骨堂にも12月末に納骨することにしました。 日野こもれび納骨堂は3年前の開設時に一区画を30年契約で賃借しています。
(5) この背景には、私や親族が年齢や居住地が遠いことで、持続的な墓碑の管理が難しくなってきたという檀家側の事情とともに、お寺さん側も、墓地が山の急斜面の中腹にあるため昨今の大雨でいつ崩れるかもしれないという恐れがあり、被害を事前に回避するために、代替わりや遠隔居住などの事情のある檀家については、別の場所への早目の改葬などを勧めておられるところでもありました。
(6)この墓じまいの考え方と段取りを存命の親族(すでに叔父叔母は逝去し従兄弟や甥姪になります)に訪問したり、書簡を通じて説明してきました。
(7) 関係者の了解を得て、令和7年10月に舞鶴市に改葬・分骨許可申請をし、2週間後の同月末に許可証が送付されてきました。申請には、墓地管理者である得月寺の承諾が必要になります。
(8) 許可を受けて、ご住職に紹介された地元の石材店により、11月1日に墓石の取壊し・撤去工事が行われ、納骨室(カロート)から先祖の遺骨を取出し、本骨と分骨に分けて2つの骨壺に収めました。石材店では、1週間ほどかけて乾燥させます。
(9) 令和7年12月に、親族が集まり今回の改葬・分骨に伴う先祖供養法要を得月寺で行いました。祭壇には2つの骨壺が並んで置かれます。
(10) 本骨は永代供養墓に近くご住職によって納骨されます。また、分骨は私が横浜の自宅に一旦持ち帰り、年末に日野こもれび納骨堂に家族で納骨します。
上記の段取りは、ご住職からも「今回は「フルコース」ですね」、と言われましたが、一般には同じ檀家寺あるいは別の寺への改葬だけ、分骨だけ、というのが多いようです。
郷里から離れて居住し、現世代もそうですが次の世代による墓守、墓参りが難しい場合の墓じまいの一つの事例かと思っています。
昨年令和6年6月には実家の取壊し・撤去工事を行いましたが、この墓じまいで長年の背中の荷物をひとつ下ろしたようなところです。
改装・分骨前の先祖の墓碑。いまは
更地になっています。
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