2025年6月18日水曜日

上郷あじさいの丘で紫陽花を堪能

 6/16には、隣の栄区にある「上郷あじさいの丘」を訪ねました。大船から上之(かみの)方面へバスで15分程行った桂台地区にある、最近地元ではよく耳にする鑑賞地です。丁度「第8回上郷あじさい祭り」期間中で賑わっていました。
10年間で斜面に3000株を育てられてきたと栄区「紫陽花の会」の方が地元誌で回想されていました。始めたのは、会長さんが転居する友人から大量の紫陽花の株を譲り受けたことが切っ掛けだったそうです。現在は120人以上が所属するとか。丹念に多くの種類の紫陽花の面倒を見てこられたことに頭が下がります。会発足10周年の写真集を出されており早速に入手してきました。A4 72 ページにもなる力作で、会員の撮影した写真をテーマ別に編集した写真集です。手づくり感とともに日頃からこの丘を手入れする中で常々見つめてきた目線での写真としてなかなか味があります。
この日は丁度見頃で、紫陽花の咲き振りをいろんな角度からゆっくりと堪能できました。
この日は、7,000歩コースでした。

「珍客」

「海南風」

「花舞台」その1



「木漏れ日」その1



シロアジサイ



「花舞台」その2

「夏木立」その1

「木漏れ日」その2

「花街道」

「梅雨晴間」その1

「梅雨晴間」その2

「夏木立」その2

「梅雨晴間」その3

「紫陽花の会」創立10周年記念写真集

「上郷あじさいの丘」全景

2025年6月17日火曜日

半蔵門での写真展

 6/15には、半蔵門駅近くのJCIIビルで開催中の、写真仲間の属する教室の写真展を訪ねました。この日が最終日でした。
「散歩の合間に2025」とコンセプトの明確なレベルの高い写真展でした。3~4枚の組み写真で15名が出展されていました。絶妙のテーマで、作者のイメージするテーマが写真に具象化され、1枚ずつの出展より、多面的に強く伝わります。写真になにやら喋らせるのが写真撮影、現像・レタッチのテクニックだそうですから。なかなかその域まで行きませんが。
会場は、元(財)日本写真機検査協会(現(財)日本カメラ財団:JCII)の中の地下ホールでした。輸出カメラの検査を一手に引き受けて品質維持・向上をはかる団体の拠点でした。この団体では、検査のかたわら、1969年から日本の歴史的カメラを認定し、保存する事業も行ってきたそうです。1989年には、数千台を超える所蔵カメラをベースに隣のビルに「日本カメラ博物館」が設立されて一般に公開されました。この日は、昭和100年を記念した「昭和のカメラ物語ー第一部:1926-1954ー」展が開始中で、戦前、戦中、戦後の激動の時代をカメラでたどっていました。ライカに追いつけ、追い越せで技術開発を加速したようです。大いに参考になりました。次の企画タイトルは「なにがスゴイの このカメラーカメラのスゴイを展示ー」だそうです。今の展示も、なかなか密度の高い、よく考えられたしっかりした展示です。
また、ここでは、来る度にJCIIビル内に他の写真展も催されており、参考になります。この日には「片岡順一作品展 飛翔の詩」で、航空機の写真のオンパレードでした。片岡さんは幼少期から飛行機が大好きでJALのパイロットをされながらよい写真を多く残されたそうです。大型航空機の撮影は、それだけでも写真の一分野で、流し撮りなどのテクニックとともに重量感とスピード感、飛行中の空気の揺らぎ、などをどう表現するかがテーマです。
帰路、久々に内堀(半蔵濠)に出て皇居の半蔵門近くを巡ってきました。北に行くと桜の時期に来た千鳥ヶ淵になりますが、この日は南に御堀沿いを散歩しました。半蔵門への通路はゲートで閉じられています。ここは皇居の西端に位置し吹上御所に近いため、皇室の方々の通用門としてだけに使われているそうです。愛子様の通勤時には開門するとか。警備の警察官に聞くと、その方でさえ門内に入ったことはなく、内は宮内庁の警備になり警視庁の管轄外だそうです。

この日は、10,400歩コースでした。


写真展  第9回「散歩の合間に2025」

日本カメラ博物館入口。乾板式の原型。写真館で
昔使われていた、かすかな記憶があります。

日本カメラ博物館では「昭和のカメラ物語」
展を開催中でした。

半蔵門。通常は閉門中とのこと。手前には
装甲車が停車しています。

手前が半蔵濠です。ここから左に内堀沿いを
北に15分程歩くと千鳥ヶ淵になります。
左手前には広い敷地に英国大使館がありますが、
そのエリアが再開発中で大型クレーンが何台も
稼働中でした。

半蔵門全景

2025年6月16日月曜日

町内会のふれあい食事会

 6/14には、地元町内会主催のふれあい食事会がありました。年に2回ほど町内会館で行われ、このところできるだけ参加することにしています。この日は、落語2題で、出演は、前座がおばば乃たぬきさん、トリがこの会では定番の桂歌助さんでした。歌助さんは、近くの笹下釜利谷街道沿いにお住まいの地元の落語家で、同じくこの近く(南区真金町)生まれの故桂歌丸師匠のお弟子さんとのこと。地域で市民向けの落語講座を開催されたり、最近5年間地元小学校のPTA会長をされた経験もおもちでそれを芸に取り入れるなど、地元の人気芸人さんです。
おばば乃たぬきさんは、60歳くらいの女性の落語家見習いのようで、「必需品の布袋」に扇子と手ぬぐい、そして「あんちょこ」を持参され、それを片手に熱演でした。話は、まだ鏡が珍しい頃とのことで、故人を偲ぶために置かれた仏壇の箱に鏡が入っており、参拝者それぞれに箱を覗いて自分の顔が写るのをみて、息子は亡き父親の若いころと対面できたと思い、女房は不倫相手と思い怒り出し、なだめに訪れた尼僧は不倫相手が仏門に入ったと思うという、滑稽話でした。また、歌助さんは、小学校での落語講座で使った小話を連発されて喝采を浴びていました。ただ、いくつかの病を治療中とのことで、参加者で快復を祈りました。
落語の後、昼食が出て会食となるのですが、いつも通り会館のすぐ裏にある障害者支援施設で作る季節感のある手作り弁当でした。
ここで、一句、

梅雨晴れの町の落語や苦笑い

2023年2月20日に、ふれあい茶話会の模様を当ブログの記事として下記にアップしていました。

ふれあい茶話会



町内会館での特設高座。にわか作りとはいえ
手作り感に親しみが持てます。しかも年々
備品が整ってきました。ちょっと前まで後ろの
金屏風代わりの金の布幕も、めくり、踏み台も
ありませんでした。

会場に向かう途中近所のお宅の庭で、
見上げるような立派な百合を見かけました。
丁度今が見頃です。

2025年6月14日土曜日

横須賀しょうぶ園2025

 6/13午後には梅雨晴間をみて横須賀しょうぶ園を訪ねました。今年は6/10前後がピークと地元誌では報じられていました。
JR横須賀線衣笠駅からバスで15分程行った里山にあります。
ここは、藤と花菖蒲では地元で評判の、横須賀市の植物園です。丁寧に手入れされ、よく管理されて年々よくなってきています。とくに、開花期間中にも、菅笠に紺絣(こんかすり)の衣装で花殻摘みもきちんとされています。私には、適度な広さで、世間では余り知られていない、とっておきの名所だと思っています。
係の方の話では、今日が一番見頃です、といわれました。営業用の常套句かも知れませんが、この日は週末前の金曜日でもあり、ゆっくりと旬の菖蒲を満喫できました。思いのままについつい写真も180枚ほど撮ってきました。これからじっくりと選択、加工したいと思っています。
園内を一巡した後、休憩室で、年に一度ここでしか食べることもないソフトクリームを、今年も美味しくいただいてきました。地元横須賀にある関口牧場の牛乳を使っています。4時で閉店のところ私がその日最後の客で、「味が濃いいですよ!?」とか言われてきました。
この日は、10,500歩コースでした。


花殻摘みも最盛期のようでした。早咲きの花は
順番に枯れていきますが、ここではよく手入れ
されているのには感心します。

水車小屋も稼働中です。



園内を木製通路で巡ります。



園内では花菖蒲と紫陽花の競演です。


品種ごとに畝を分けて育成されています。



関口牧場のソフトクリームも
健在でした。


しょうぶ園入口から。ウッドデッキを巡ります。

2025年6月13日金曜日

新富町の三叉橋 「三吉橋」


 6/10には、関係する産業用ドローンのユーザ団体の定時総会が新富町の銀座ブロッサム中央会館であり、午後から雨天の中 出掛けました。
ここには団体の事務所も近くにあることから、これまで何度も通ってきましたが、中央区役所と銀座ブロッサムの間にある妙に幅広い陸橋「三吉橋」(みよし)に少々違和感は持っていたのですが、全体の形や造られた経過をあらためて見ることなく毎回通り過ぎてきました。
今回、たまたま、橋の袂に石碑があり、立ち止まってみたところ、三吉橋が、歴史のある、いわくつきの橋だったことを知りました。
もともと、ここには、江戸城築城期からの埋立地に開削された運河である築地川にかかる橋のひとつとして、築地と新富町を結ぶ「合引橋」(若い世代に人気の場所だったとか)が架かっていました。当時のこの川には築地への物流の船に加えて屋形舟も通う風流な場所だったようです。
しかし、関東大震災で一変し、震災の復興事業としてあらたに楓川・築地川連絡運河が開削され、これまで区役所前で折れ曲がったL字型の水路がT字型となったために新たに架けられたのが三吉橋だったとか。それも当時では珍しい三叉路のY字型の橋であったことを知らされました。(注) 地域の分断を回避するためとはいえ、T字型の水路に3つの一般的な橋を架けるより三叉橋が経済的だったのでしょうか。工事の難易度やコストは高まりそうですが、震災後の世相を盛り上げるためにあえて話題性を狙ったかもしれません。それは当たったようです。
その後、昭和37年(1962)に川は埋め立てられ首都高速が走り、当時の面影は想像するしかありませんが、この橋を通して、遅まきながら、江戸期からの風情や震災の頃の惨状をあらためて思い起こさせられました。
この日は、8,000歩コースでした。

(注)三吉橋について
三吉橋は、関東大震災の復興事業の一環として、昭和4年に架けられた橋です。震災前は「合引橋」が築地と新富町を結んでいましたが、復興の過程で新たな運河が開削され(築地川のL字型に屈曲した地点に、利便性のため隣の楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が造られ、川がT字型の三叉の形となりました)、周辺地域の分断を避けるためにY字型の三叉橋として三吉橋が建設されました。当時、築地川が流れており、舟運が盛んでしたが、高度成長期に入ると川は埋め立てられ、昭和37年(1962)には首都高速道路が通る陸橋へと変わりました。現在の三吉橋は平成5年(1993)に改修され、架橋当時の鈴蘭燈を再現するなど、歴史を感じさせるデザインが施されています。
築地・銀座と新富町、八丁堀を結ぶこの橋には、震災復興の歴史や都市の変遷が刻まれています。形式は「三股型単純鋼板桁橋」とのこと。(「三吉橋」石碑等から引用・編集)


現在の三叉橋「三吉橋」。銀座ブロッサムから。
下を左右に走る首都高速。見えませんが右上端に
中央区役所があります。中央奥が新富町で、
手前先が八丁堀になります。(関連HPから引用)

現在の三吉橋陸橋。正面は中央区役所。
昭和4年(1929)の初代三吉橋。T字型の川の
上の架けられています。正面は当時の
中央区役所。右奥が銀座・築地、左手前が
新富町、右先が八丁堀です。手前下先が
連絡運河です。合引橋は左側の水路に架かって
いました。(京橋図書館所蔵写真を引用)

三吉橋の石碑から

三吉橋の在りし日を伝える石碑。
三島由紀夫も作品に書いているそうです。

2025年6月10日火曜日

棉の双葉

 今年は5月10日頃に庭先に種子を植えた棉(わた)の木が、5月末には芽を出し双葉の形をしてきました。昨年収獲した綿花を1昼夜温水につけて綿から取り出した種子を使います。
発芽率は1〜2割で限られた種子しか芽吹きません。ようやく双葉になればなったでだんご虫でしょうか若葉を侵食します。幾つかはこれで枯れていきます。なかなか厳しい生存競争です。言わば双葉にとっては「いくさ場」のなか、露地植えで3株、鉢植えで5株が今のところなんとか残ってくれています。
食べられて葉の1/3~2/3が欠けた最初の双葉の状態から、次第に、つやつやとした濃いい緑の新しい双葉が出てきました。葉っぱがやや厚手で虫に侵食されにくいようにも見えます。環境、状況に合わせているのでしょうか。去年のように、虫にも負けず、大きく丈夫に育ってほしいと思うばかりです。実は、去年は育つ途中で幹が折れ骨接ぎをしながらもよく育ち豊作でした。(注)

そこで、一句、

棉蒔や欠けた双葉のいくさ時

先日の句会では、芳しい選句はいただけませんでした。
俳句を作り始めて知りましたが、棉や綿に関する季語が多くあります。日本人の日常の生活との関りが季節を通じて多かったようです。また、棉の木を表す時は「棉」を、また、綿花を表す時は「綿」を使い、字体を分けています。
棉蒔 夏5月
棉の花 夏7月
棉摘、棉取、草棉(わた) 秋10月
綿帽子 綿 綿子 綿打 冬12月
綿雪 冬1月


棉の双葉。一枚の葉の直径は2~3cmです。

(注)昨年2024年7月26日に、骨接ぎに関する記事を当ブログにアップしていました。

棉(わた)の木の異変と骨つぎ

2025年6月5日木曜日

「京橋の碑」と紫陽花

 6/2午後には、7月の写真展への出展作のプリント色合わせのために、Fフォトギャラリー銀座を再度訪ねました。
その帰路には、銀座の隣町の京橋に出て、JR東京駅まで歩きました。途中、銀座中央通りと首都高速の交差点で、街中で咲き始めたばかりの紫陽花を見かけました。
ここは、江戸期には江戸湾にそそぐ京橋川が流れ京橋が架かっていました。水害などで橋は何度か造り替えられたそうですが、明治期(明治8年)と大正期(大正11年)に造られた京橋の2つの親柱が残されました。その後、昭和34年(1959)に、京橋川の埋め立てによって橋も撤去され、二つの親柱だけが「京橋の碑」としてその名残をわずかにとどめています。大正期に建てられた橋の親柱には照明設備がついており、その形はすぐ近くにある銀座一丁目交番のデザインの元にもなっているようです。いまでは、京橋川の敷地には首都高速が走っているようにみえます。また、すぐ隣りには警察博物館があり、これもなにか由縁を感じますが、探るのは次の機会にしました。
これまで、このコースは何度か通っていますが、あらためてゆっくり訪ねてみると新しいものがいろいろと目に入ります。

この日は、7,800歩コースでした。


首都高速下でひっそりと健気に咲いて
いました。

「京橋の碑」その2。大正8年に架け
られた京橋の親柱。照明設備付きで、
屋根のデザインもユニークです。

煉瓦銀座之碑とガス灯。銀座の
がス灯(左)は今も灯ります(注1)。
横浜馬車道のガス灯もほぼ同型です
(注2)

「京橋の碑」その1。明治8年に架けられた京橋の
親柱。所謂、擬宝珠欄干 (ぎぼし、 ぎぼうしゅ) 
です。当時石造りは珍しかったとか。両脇には
紫陽花も。

大正期の親柱をモデルにしたような銀座
一丁目交番。横では紫陽花も見頃でした。
Fフォトギャラリー銀座は背景のビルの
4階にあります。


(注1)煉瓦銀座之碑について
1872年(明治5年)の東京大火の後、当時の東京府知事 由利公正は罹災し全焼した銀座を不燃性の建物で再建することを決断し国費を投じて、防火のため銀座煉瓦街がアーケード式で建設され銀座の名物となりました。 街路照明のためのガス灯は、明治7年から街路沿いに設置されました。煉瓦建ての建物とガス灯はモダン銀座の始まりでした。
碑には「経綸 公正」と大書されています。経綸(けいりん)は「国家の秩序を整え、治めること、またはその方策」を意味し、「経世済民」からきた「世を治め、民を救う」という「経済」とは対句だとか。当時の国つくりへの意気込みがうかがえます。(碑銘板、関連記事から引用・編集)
(注2)横浜馬車道のガス灯(参考)
先日、関内ホールに寄った折に馬車道で見かけました。


馬車道のガス灯です。銀座
のより背丈はありますが
ほぼ同型のようです。ルーツが
同じだったのかも知れません。

2025年6月3日火曜日

横浜開港記念日と横浜開港祭2025

 6/2は、1859年に日米修好通商条約(注)により横浜が開港されたことを記念する横浜開港記念日で、市内の小学校は休校でした。これに因んで5/31-6/2には横浜開港祭2025が臨港パークを中心にみなとみらい21地区ほかで行われ、様々なイベントに多くの子供連れで賑わいます。今年が第44回だそうで横浜市や横浜開港祭協議会など地元の支援企業・団体もかなり力が入っていました(参加者には57ページのガイドブックが配布されます)。
イベントの一つとして、近くに住む孫の通うダンス教室の発表会も開港祭会場内で行われるとのことで、会場の臨港パークにでかけました。これまで横浜開港祭は報道では見聞きしていましたが、海沿いの広々とした敷地(新港の埋立地)にきちっと整備された後の臨港パークに来るのは初めてでした(長く工事中でした)。
発表会が終わった後に臨港パークの海岸沿いに出ると、海上保安庁の放水艦「ひりゅう」と横浜市消防局の消防艇「よこはま」が沖に揃って停泊していました。後でわかったのですが、「官公庁艇パレード」イベントとして、放水のデモンストレーションや海難救助の公開訓練(不審船捜索でした)の開始直前で、たまたまでしたが幸運でした。
この日は、11,500歩コースでした。

なお、昨年2024年5~6月の横浜開港月間でのハマフェスについては、当ブログに下記のような記事をアップしていました。

ハマフェスY165


放水デモ中の横浜市消防局の消防艇「よこはま」。
岸までしぶきが届きます。虹も見られました。
子供達はかかる飛沫に「塩っぱい!」と大喜び
でした。

放水デモ中の海上保安庁放水艦「ひりゅう」

海上捜査艇の海難救助デモ。左奥が双胴船
構造の伸縮式放水塔を搭載した放水艦
「ひりゆう(FL-01)」


「ひりゅう」(左)と「よこはま」ほか官公庁艇が
勢揃いです。中央奥はベイブリッジ、右奥が
本牧ふ頭で旧積載機ハンマーヘッドも
見えます。

ブラジル移民100周年記念碑。最初の移民船は
横浜から出たそうです。

「リマちゃん」となにやら神妙に握手。
日ペルー友好のわかりやすい記念碑です。

ペルー移民100周年記念碑「リマちゃん」。
リマ市にはお姉さんの「さくらちゃん」像が
建立されているそうです。ペルーへの
最初の移民船も横浜から出向したとのこと。

正面舞台では、横浜市消防音楽隊が演奏中でした。

臨港パークの海岸線。中央奥の高い建物が
ホテルパシフィコ横浜、その手前が国際展示場
で、海岸線の突端に浮かぶのが「ぷかり桟橋」
です。

(注)日米修好通商条約と横浜開港について
最初に調印された日米修好通商条約では、1859年7月4日に米国に開港することになっていましたが、結局米、蘭、露、英、仏の5か国に対して旧暦7月1日(新暦6月2日)に開港することになりました。もともと、神奈川が開港の候補地とされていましたが、東海道沿いで神奈川宿にも近いことから外国人とのトラブルが予想されたため、当時、辺鄙で取締りやすい横浜の地が選ばれました。横浜は水深も十分で港として優れていたため、開港後は急速に発展しました。当年の開港当日には特に祝賀行事は行われませんでしたが、1年後の万延元年6月2日に、山車や手踊りで街中あげて開港を祝ったのが、開港記念日の始まりです。(ガイドブックから引用、編集)

クリガニのカニ汁

 8/6には、孫の付き合いで目黒に出かけ、やや疲れた帰りの寿司店(目黒駅ビル内の「寿司 活」でした)で、たまたま「大きいクリカニのカニ汁」をメニューに見かけ、ついつい惹かれて注文してみました。今年3月にも陸奥湾のクリガニを珍しく見かけ自宅で美味しくいただいたばかりでした。春が旬と...