5/2には、神奈川近代文学館で「帰って来た橋本治展」を観てきました。橋本治は、1948年に東京の菓子屋に生まれ、2019年に71歳で没しています。学生時代を学園闘争の中で過ごした団塊世代で、私とは1年年下の同じ世代の作家です。
1968年東大2年のときの駒場祭のポスターに、当時、学園紛争に背を向けて、頻繁に通った歌舞伎や映画の影響もあったのか、任侠映画を彷彿とさせる印象的なデザインで、個性的な作家ぶりを発揮しています。キャッチコピーも「とめてくれるなおっかさん 背中のイチョウが泣いている 男東大どこへゆく」でふるっています。その原画がここに所蔵され、展示されています。これで一躍全国区のイラストレータとなったそうです。その後、ジャンルを超えて、小説家、戯曲家、評論家、編み物作家、挿絵作家、などまさに「八面六臂」の活躍をしています。驚くのは、なぜか、一時期話題になったビジネス書「 上司は思いつきでものを言う」も書いています。当時、変わったタイトルに引かれて私も興味半分で読んだ記憶があります。
ここでの開催は、デビュー作で代表作になった青春小説の最終章がこのすぐそばにある港の見える丘公園で希望を込めて締めくくられていることがあり、親族や関係者により、大量の遺品資料(執筆前に作成した詳細な年譜もありました)、手書き原稿などが寄贈され、「橋本治文庫」としてこの文学館に保管されたことによるそうです。「帰ってきた…」もこのことによるのでしょうか。この近くには、大佛次郎記念館もあり、大岡昇平、山本周五郎、など横浜、神奈川に因んだ作家の展示会がよく行われる場所ではありますが、このような戦後世代の作家展は珍しいことです。
展示の中で、監修者によると「橋本は、自分が「わかられやすい人」ではなく「よくわからない人」に魅かれる、と言い、自らの原動力を「わからない」ことを解明したいという思いだった、といっている」そうです。確かに、80から90年代には、2000年代以降ほどわかりやすいことが求められことはなく、わからないことがあって当たり前だったように思います。これも、橋本治が作家活動を始めた時代を反映しており、共感できるところでした。この意味で、「大事なのは教科書ではなく副読本だ」とすることも納得できるところです。
なかなか刺激的な、作家展としては異色の展示会で、面白く拝観できました。広くはない会場でしたが、分野が多岐にわたるため「わかりにくく」、結局、会場を2周程回ってしまいました。
この日は、11,500歩コースでした。
<参考>最後に、先日見かけた日経 春秋の記事の一部も、展示の内容をよく表現していますので、引用させていただきます。
▼「上司は思いつきでものを言う」。小説家の橋本治さんが20年前に書いたビジネス書は、2つの理由でファンを驚かせた。東大在学中に学園祭用に描いた任侠風のイラスト制作に始まり青春小説、平家物語や源氏物語などの古典の、個性的な翻訳など、企業社会とは無縁の分野の作家だったこと。それなのに分析が的確だったことだ。
▼昭和の日本企業は現場を大切にする経営が強みだった。しかし好景気が終わり、経営者の視野は狭くなり関心が現場から離れる。代弁者たる管理職は、現場社員の提案を理由なくねじ曲げるか却下する――。出入りする出版編集者の愚痴を聞き、平安時代の律令制度など古典が描く日本の縦型の官僚組織に重ね合わせて分析したと後に語っている。
▼橋本さんが亡くなって5年たつ。いま横浜市の神奈川近代文学館で「帰って来た橋本治展」が開催中だ。館内を巡り、改めて多才ぶりに驚く。歌舞伎公演のポスター原画。手編みセーター。そして山と積まれた原稿用紙。一時はワープロを使用したが、「文章が攻撃的になるから小説に向かない」と手書きに戻したそうだ。
▼晩年は現代小説に力を入れ、昭和の後半から末期辺りを舞台に普通の人の生涯を描いた。その一つ「橋」で取り上げたのは円高が年々進んでいた頃。主人公の若い女性は思う。「ブランド物を買い続けられないのは転落の人生だ」。きょうは昭和の日。あの時代の功罪とは何か。不世出の作家の言葉を読み返したくなった。
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