一見、何の関係もない「イスタンブールと米国映画「ベン・ハー」(注1) 」ですが、実は、ローマ帝国時代、イスタンブールがコンスタンティノープルの頃、その中心部にあたる今のブルーモスクの前の大通りに残されている、3世紀初頭に建造された「古代戦馬車競技場」で繋がります。エルサレム生れのべン・ハーが幼馴染の親友メッサラ(ローマ帝国のエルサレム司令官で赴任)と4頭立て戦馬車の競技で争う、迫真の場面が印象に残る作品でしたが、その競技場がここにあったとのこと。330年にはコンスタンティヌス一世が拡張し、長さ400m、幅120mで約3万人が収容できたとか。
今でも、ここには古代競技場跡地「ヒポドゥローム(ローマ競技場跡)」として残されていて、3/11に訪ねました。
高校生の頃に、郷里の東舞鶴の浮島映画館で「ベン・ハー」を観たことを思い出します。3 時間半の長編で前編、後編に分かれた、私には初めての超大作でした。こんな戦馬車競技のリアルな撮影ができるんだと感銘を受けた記憶があります。今のCGなどない時代ですから。
現在、ここには、時のテオドシウス帝によって エジプトのカルナックのアモン神殿から運ばれた柱(オべリスク(注2))の記念碑や蛇の柱、コンスタンティヌスの柱、などが建てられています。遠路、巨大な遺物を運ぶというのは、ある種の権威付け、権勢の誇示でしょうか。
その後、この場所はオスマン帝国の頃に処刑場だったことから、死者を弔うためにこの地に競技場は再建されず今に至るとのこと。
この日は、17,000歩コースでした。

ドイツ皇帝から寄贈された泉亭「ドイツの泉」
オスマン帝国末期1899年にドイツ皇帝
ヴィヘルム二世からハミト二世に贈られたとか。
天井には両者の紋章が刻まれています。
オスマン帝はドイツと長く良好な関係だった
ようです。明治天皇とも親交がありました(注3)。

テオドシウスのオベリスク(右奥)。手前が
479年ギリシァのアポロン神殿から
運ばれた3匹の蛇のオブジェ「蛇の柱」。
頭はなぜか隣の博物館蔵とか。
コンスタンティヌスのオベリスク。
背景はトルコ・イスラム美術博物館です。

ヒポドゥローム(ローマ競技場跡)。
右隣にブルーモスクがあります。
(注1) 映画「ベン・ハー」
些細な出来事から旧友メッサラの裏切りにあって奴隷船送りとなったベン・ハーは、そこで命を救ったローマの将軍の養子となる。束の間の安住の後、再び故郷へ戻った彼は、別れた家族が獄中死したことを聞かされ戦車競技に出場する事を決意する。そこではメッサラとの宿命の対決が待っていた。
西暦1世紀の初め、ローマ帝国支配下のエルサレムに生まれたユダヤ人貴族の息子ベン・ハーの波乱に富んだ半生を、イエス・キリストの生涯と絡ませて描いた歴史小説スペクタクル大作。 監督はウィリアム・ワイラー。1959年作品、1960年日本公開。212分。(関係記事を引用、編集)
(注2) オベリスク 〔ギリシャ語で,焼き串の意〕
古代エジプトの太陽の神を象徴する石柱。上方に向かって細くなり,先端がピラミッド形の巨大な一個の石の四角柱。各面に象形文字の碑文や図像が刻まれている。寺院・宮殿の入口の両脇に建てられた。方尖柱。
(注3)エルトゥールル号遭難事件
1890年6月に、日露問題に絡んで明治天皇から書簡とともに贈られた品物に対して、返礼品(絨毯でした)を届けるために訪日したトルコの軍艦エルトゥールル号が帰国時に和歌山県沖で遭難し、500名以上の犠牲者を出した事件。当時沿岸の村民が懸命に救助にあたり69名の軍人を救出し、回復後に日本の軍艦で本国まで送還しました。この事件は、トルコでは日土間の友好関係の起点として語られています。当時、両国ともロシア対策で悩んでいたようです。