2025年7月18日金曜日

旧岩崎邸庭園を初めて訪問

 7/14には、属する写真仲間の会での夏季撮影会の下見に、旧岩崎邸庭園を台風5号通過直後に初めて訪ねました。銀座線上野広小路駅から8分程の台東区池之端にあります。不忍池、湯島天神や台東区総合庁舎がすぐそばにあります。この地域で関東大震災や戦災、進む都市化の中で残された貴重な明治の資産だそうです。
旧岩崎邸庭園は、明治29(1896)年に、初代岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長の久彌の本邸として造られました。もともと彌太郎の邸宅があった場所とか。往時は約1.5万坪の敷地に20棟もの建物が並んでいたそうですが、現在では3分の1程の敷地となり、現存するのは洋館、撞球室、和館大広間の3棟でした。
都の文化財9庭園のひとつとして、きちんと管理されているのには感心しました。キャッチコピーは「時の風が吹く庭園」だとか。よく当たっているように思いました。
また、洋館を設計したジョサイア・コンドルは、1852年のロンドン生まれで、明治10(1877)年に25歳で日本政府の招聘によって来日し、工部大学校造家学科(現在の東大工学部建築学科)の初代教師に就任しています。後に日本の近代建築を立ち上げる日本人建築家を多く輩出したそうです。(注1) 
それにしても、驚かされるのは、若干25歳で招聘に応じて来日し、鹿鳴館、上野博物館、ニコライ堂など今も残る洋風建築を設計し大活躍していることです。その後、日本人と結婚し68歳で日本で永眠されています。先日新橋の停車場跡を訪ねた時にも29歳の若手鉄道技師を招聘して新橋-横浜間の鉄道開設に貢献してもらっています。(注2) 人材の外国からの招聘には、此のくらい思い切って、来る方も迎える方も覚悟を決めてことを成す必要のあることを物語っているように思いました。
さらに驚いたのは、この庭園の敷地は、明治初期には舞鶴藩牧野氏の屋敷だったそうです。私の郷里でもある京都府舞鶴市の田辺藩は細川家の肥後への転封の後に長く牧野家が治めました。多分廃藩置県で牧野家がここの江戸屋敷に移り、その後三菱に売却したように見えます。思わぬ歴史散歩でした。
この日は、13,800歩コースでした。

(注1)東京駅、日本銀行本店などの設計で知られる辰野金吾(「日本近代建築の父」と言われるそうです)、赤坂離宮を設計した片山東熊など多くの後進を育てています。とくに日本銀行本店は、耐震性に優れ、関東大震災にも耐えた「辰野堅固」の象徴とされるとか。
(注2)20歳代後半の若手技術者の英国からの招聘は、新橋ー横浜間の鉄道建設にも行われていました。今年2025年6月に下記の関連記事を当ブログにアップしていました。

旧新橋停車場 鉄道歴史展示室


旧岩崎邸洋館正面。英国ジャコビアン様式
だそうです。イギリス・ルネサンス様式や
イスラム風のモチーフ(英国から見た東洋なので
しょうか)などが取り入れられています。

一階の婦人客室天井。シルクの日本刺繍の
布張りになっています。

一階はトスカナ式の列柱、二階はイオニア式
だそうです。

客室。小さなピアノが置かれています。

洋館裏面。往時には主に年一回の岩崎家の
集まりや外国人や賓客を招いてのプライ
ベートな迎賓館として使われたそうです。

洋館から和館全景

芝庭の奥にあるビッグな西四阿。高さ3mは
あります。

和館

和館から洋館をみると

書院造り基調で、冠婚葬祭に使われたそうです。

山小屋風の撞球室。当時ビリアードも盛んだった
ようです。洋館とは地下道で繋がっています。
美観からでしょうか。

芝庭越しの洋館と撞球室。左奥は東大病院です。

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