7/12には、兵庫県瀬戸内海側の西端にある相生に入りました。新幹線では、ひかりとこだまは止まりますが、のぞみは通過します。相生市の人口は現在2.4万人で、多い時には4万人はいたそうですから6割に減っている町です。
相生市の歴史によると、相生は、戦前、戦時中から播磨造船所の企業城下町として繁盛し、昭和35(1960)年に石川島造船所と合併し石川島播磨重工業(IHI)となってからも人口は増え続けました。IHIの相生工場は、昭和37〜39年には3年連続して単独造船所として世界一の進水量を達成したそうです。
ところが、オイルショックによる石油高騰やプラザ合意に伴う円高によって、昭和60(1985)年以降に深刻な造船不況が続き、昭和62(1987)年には、相生工場は新造船からの撤退を余儀なくされ(ジャパンマリーンユナイテッド(JMU)に造船事業を譲渡)、相生は遂に「造船の町」としての幕を下ろしたそうです。これに伴い、人口が激減したとあります。といっても、今も相生湾の西側沿岸はIHIのクレーンなどの施設が広範囲に亘って建ち並び、瀬戸内工業地帯の一角ではあります。
私の故郷の舞鶴でも、同じようなタイミングで飯野造船を買収した日立造船が舞鶴工場における新造船事業から撤退し(同じくJMUに事業譲渡)、町の様子が一変したのを記憶しています。
相生市では、現在は、理化学研究所(理研)が運営する産官学の共同研究施設の「大型放射光施設SPring-8」を誘致するなどして、地元に根付く造船技術を活かして次代の産業への参入を計画しているようです。駅前でもSPring-8行きのバスには行列ができていました。また、毎年5月最終日曜日に行われる、32人乗りの大型木造和船による競漕神事「ペーロン(白龍)祭り」や冬の相生かき、などを中心に観光にも力を入れているようです。
この日には、私は10時頃に相生駅に到着し、バスで一色先生のスケッチ展会場の相生市文化会館に向かいました。駅からは南の相生湾東岸沿いにあります。企業城下町にはよくあることですが、市役所や公民館など、公共的な社会インフラ設備は充実しています。市内の駐車場も殆ど無料だそうで、車の生活は至極便利だそうです。
そこのすぐそばには相生市水産物市場があり、市場内の魚店「魚稚(うおわか)」さんで、今が旬の鱧(ハモ)を見かけ、早速獲れたての鱧の湯引きを酢味噌でいただきました。その後、たまたま雨宿りさせていただいた街中の魚屋で鱧を捌(さば)いているところも見ることができ、初めて、骨切りを目の当たりにしてきました。相生の海産物では、このほか、小女子(こうなご)と冬の牡蠣の収穫が多く、おいしいそうです。近くには牡蠣を捌く牡蠣小屋がいくつかありました。ここでは、この時期、他に、アナゴ(沢山の入荷でまだ活きていました)、ヒイラギ、オコゼ、アコウ、カサゴ、大タコ、マナガツオ、シロギスなど、地元の魚が売られていました。この南先には「鰯浜」という地名があるのを知り、かつてはさぞかし鰯をはじめ瀬戸の小魚が沢山獲れたのだろうと思った次第です。
2024年7月14日日曜日
相生の町と鱧(ハモ)
活きアナゴ。きれいなアナゴです。
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