2025年12月28日日曜日

今どきのある納骨のことー改葬と分骨ー

 12/28には、先日舞鶴から持ってきた分骨遺骨の納骨を日野こもれび納骨堂で無事終えました。納骨するために重要な舞鶴市の発行する改葬許可証の持参をうっかり忘れ急遽取りに帰るというハプニングがあり慌てましたが。

これで、ここ97年間舞鶴の墓碑に埋蔵されていた先祖10体の本骨は檀家寺の得月寺にある永代供養墓(合同募)に改葬し本堂の位牌とともにあらためて日々の追善供養をお寺さんにお願いするとともに、新たに分骨した遺骨を祀る横浜での墓碑が日野こもれび納骨堂にできたことになります。これを端緒に横浜でも一族の先祖の霊を祀ることになりました。横浜での墓碑は自宅から歩いて20分ほどの横浜市営の日野公園墓地内にあり、墓参りが随分と身近になり、便利になります。
ここ3年ほどかかった舞鶴の墓碑の墓じまいがなんとかこれで終わったことになります。去年の実家の取壊し・撤去、土地の売却とともに、故郷舞鶴で相続した資産の整理が一段落して、予想していたこととはいえ、故郷が遠くなった寂しさとともにホッとしたところでもあります。
現世代、次世代の生活事情に合わせた無理のない先祖の祀り方を、関係する方々と相談し模索した結果たどりついた一つの結論でした。
そこで、一句、

納骨や搬送式で年の暮
年の瀬や分けた遺骨のお引越し

因みに、12/18には、これまでの大まかな経過を当ブログに下記のような記事でアップしていました。

ある墓じまいのこと

施設です(立体駐車場のような構造です)。2万体の
遺骨を宗教、宗派を問わず収容し、横浜市営では
最初の納骨堂とのこと(市営墓地は4つあります)。
(写真は納骨堂HPから引用)

2025年12月24日水曜日

振り返りスケッチー山寺立石寺ー

 11/17には、11/16の故人を偲ぶ会で仙台に行った帰路に、山形の山寺立石寺に寄り、山頂まで登ってきました。
今年もスケッチの題材には多く巡り会いましたが、強く印象に残ったのが立石寺で、絵にしておきたいと思っていました。
年末になってしまいましたが、多少時間ができたので、開山堂と納経堂を絵にしてみたのが下の拙作です。開山堂は、立石寺を開いた慈覚大師のお堂で、大師の木造の尊像が安置されており、いまも朝夕、食飯と香が修行僧によって供えられるとのこと。左の納経堂は写経が納められている山内で最古の建物だそうです。開山堂の真下には、貞観6年(864)に亡くなられた大師が眠る入定窟があります。立石寺の開山が貞観2年ですから開山後4年で逝去されています。開山前後の苦労の大きさが納得できる厳しい修行道場です。参拝の階段を登りながらも山内の山腹にはいくつもの修行場が見られます。
開山堂の右奥すぐ上には五大堂があります。五大明王を祀って天下泰平を祈る天台宗の道場であり、参拝者には山寺随一の展望台でもあります。

そこで、一句、

山寺を登る最後か翁の日
錦秋やスズのあとゆく立石寺


立石寺の開山堂(右)と納経堂。納経堂の建つ岩が
印象的です。山内にはこのような切り立った岩の
上の建物が多く点在します。ここは昭和62年に
解体修理が行われています。

2025年12月18日木曜日

小石川後楽園での紅葉撮影会

しばらく前になりますが、 11/30には属する写真仲間の会で文京区にある小石川後楽園で撮影会(本番)を行いました。参加者は講師を含め12名です。
下見に続いて、この日も好天に恵まれて、また紅葉は1週間で順調に進んだようで、過ぎた木もある一方、緑から紅に変化している木もあるといった状況でした。一般に植物では春の開花に比べて秋の紅葉は時間をかけて進むそうです。
撮影を趣味とする人には、同じ場所を繰り返し撮る人(ホームコース派)と新しい所を好んで巡る人(巡回派,ノマド派)があります。技術を上げるのは前者が有効と言われます。同じ被写体のわずかな変化を捉える眼、技術が大事とか。この日も1週間前の下見の頃より紅が濃くなり被写体や陽射しがわずかに変わります。ここも写真に合うシーンが多く手軽に来れるホームコース候補です。
12/22講評会では主にここで撮影した写真を参加者が持ち寄り新たな種清講師に講評していただきます。その後は例年通り忘年会に流れます。
この日は、11,000歩コースでした。


園内の東屋「丸屋(まろや)」

大泉水沿いの楓も見頃でした。

白糸の滝との取り合わせ


紅葉のトンネルです。


内庭の雪吊りと紅葉

紅葉の映り込みもGoodでした。

ある墓じまいのこと

 12/13午後には、郷里の舞鶴にある得月寺の墓地内の一区画の墓じまいの法要を本堂で親族が集まって行い、ようやく一区切りがつきました。
ここに至るまで3年ほどかかったように思います。墓じまいの一つの事例に過ぎませんが、手探りで直接に関わったことからその大まかな流れを振り返ってみました。
墓碑の生い立ちと墓じまいの経過は以下の通りです。
(1) 昭和3年(1928)5月、初代に当たる私の曾祖父の妻(曾祖母)の死去(昭和2年7月)に伴い二代目にあたる祖父により墓碑と休み石が建設されました。今年が建設97年目になります。
(2) 昭和40年(1965)5月、三代目にあたる父により、戦死した自身の弟の供養と先祖供養のための石灯篭2基とそれまでに埋蔵した霊を刻字した墓誌が建てられました。 それまでお盆には、竹竿で四角の枠を組み木製で障子貼りの灯篭をぶら下げて使っていましたが、石燈篭に変わりました。
(3) その後、新たな逝去者が出るたびに遺骨を埋蔵し、墓誌にはその戒名等を逐次刻字してきました。この墓碑には、初代から三代目まで全部で10体の本骨が埋蔵されています。
(4) 令和5年頃から今後の墓碑の管理について現世代に合った墓碑の管理の仕方を親族で、また墓地管理者のご住職とも相談してきました。ご住職とは3度くらいこの件でお会いしました。その結果、令和7年11月、これまでの墓碑を墓じまいし、遺骨を得月寺永代供養墓(合同墓)に本骨として改葬することにしました。さらに、一部を分骨し、私の現住所に近い横浜市営 日野こもれび納骨堂にも12月末に納骨することにしました。 日野こもれび納骨堂は3年前の開設時に一区画を30年契約で賃借しています。
(5) この背景には、私や親族が年齢や居住地が遠いことで、持続的な墓碑の管理が難しくなってきたという檀家側の事情とともに、お寺さん側も、墓地が山の急斜面の中腹にあるため昨今の大雨でいつ崩れるかもしれないという恐れがあり、被害を事前に回避するために、代替わりや遠隔居住などの事情のある檀家については、別の場所への早目の改葬などを勧めておられるところでもありました。
(6)この墓じまいの考え方と段取りを存命の親族(すでに叔父叔母は逝去し従兄弟や甥姪になります)に訪問したり、書簡を通じて説明してきました。
(7) 関係者の了解を得て、令和7年10月に舞鶴市に改葬・分骨許可申請をし、2週間後の同月末に許可証が送付されてきました。申請には、墓地管理者である得月寺の承諾が必要になります。
(8) 許可を受けて、ご住職に紹介された地元の石材店により、11月1日に墓石の取壊し・撤去工事が行われ、納骨室(カロート)から先祖の遺骨を取出し、本骨と分骨に分けて2つの骨壺に収めました。石材店では、1週間ほどかけて乾燥させます。
(9) 令和7年12月に、親族が集まり今回の改葬・分骨に伴う先祖供養法要を得月寺で行いました。祭壇には2つの骨壺が並んで置かれます。
(10) 本骨は永代供養墓に近くご住職によって納骨されます。また、分骨は私が横浜の自宅に一旦持ち帰り、年末に日野こもれび納骨堂に家族で納骨します。

上記の段取りは、ご住職からも「今回は「フルコース」ですね」、と言われましたが、一般には同じ檀家寺あるいは別の寺への改葬だけ、分骨だけ、というのが多いようです。
郷里から離れて居住し、現世代もそうですが次の世代による墓守、墓参りが難しい場合の墓じまいの一つの事例かと思っています。
昨年令和6年6月には実家の取壊し・撤去工事を行いましたが、この墓じまいで長年の背中の荷物をひとつ下ろしたようなところです。 

 

改装・分骨前の先祖の墓碑。いまは
更地になっています。


改葬後に納骨する永代供養墓。これからは
先祖の墓参りはこの墓碑と本堂内に置かれた
位牌(これは改装前と変わりません)になります。

2025年12月14日日曜日

東舞鶴の見所スポット半日巡り

 12/13午前には、先祖供養の法要の為に久しぶりに舞鶴に来た息子親子に東舞鶴の見所を半日コースで案内しました。
この日巡ったのは、引揚記念公園(引揚記念館は会館前でした)からの引揚げ桟橋の眺望スポット、五郎ヵ岳展望台からの舞鶴港の俯瞰スポット、舞鶴東港のクルージング「海軍ゆかりの港めぐり遊覧船」(キャッチコピーから)、赤レンガパークの赤レンガ倉庫、赤レンガ博物館、でした。この他には、飛鳥時代に創建され西国三十三所第二十九番札所の真言宗 松尾寺(まつのおでら)、紅葉と五重塔が評判の鹿原(かわら)の金剛院、などが挙がります。
このようなことでもないと地元民はこれらのスポットを回ることはありませんが、久し振りに巡ってみると、それぞれに観光地化しているなと感じました。また、各所で多くの地元シニアボランティアが日頃の観光客受入れをさり気なく支えているようにも感じました。引揚記念館のボランティア活動は希望者が多いと聞きます。ここまでは海外のインバウンド客は来ていないようです。
この日は、10,800歩コースでした。

因みに、2023年3月にこの引揚記念館の展示が東京駅前でも行われたことがあり、当ブログに下記のような記事をアップしていました。

舞鶴引揚記念館・平和祈念展示資料館 合同展示ーシベリア抑留の記憶をつなぐー

また、文中の松尾寺と金剛院については、2023年10月の訪問記事を当ブログに下記のようにアップしていました。

松尾寺:
西国33か所巡礼第29番札所 青葉山松尾寺

金剛院:
舞鶴 鹿原の金剛院


<舞鶴引揚記念公園・引揚桟橋>


クレインブリッジ(鶴の橋)。この先にある
関西電力の火力発電所建設のための工事用
道路の一部として造られました。2羽の
鶴が飛び立つ様を表しているとか。この日は
好天で波が静かでした。

望郷慰霊之塔。引揚記念公園のシンボルです。

引揚げ桟橋の一部(当時は左にもっと長くあり
ました)。終戦から昭和33年まで13年間に66万人
のシベリア、満州、朝鮮からの引揚者がここ
あった引揚援護局での検疫と入国手続きを受けて
全国に帰還しました。すぐそばに引揚者の遺品
などを展示する引揚記念館があります。全国に
あった引揚港の中で最後まで受入が続きました。

引揚に因んだ歌「異国の丘」と「岸壁の母」の
歌詞が刻まれています。もう一つ田端義夫の
「かえり船」もありました。これらはいつの間にか
私のカラオケ定番にもなりました。また、これらは
私にとっては、舞鶴小唄、舞鶴風流音頭、軍艦マーチ
とともに郷里のご当地「民謡」です。

引揚桟橋の奥にはべニア板工場が今も健在で、
いつもながらの煙を出していました。林べニア
産業舞鶴工場です。その右奥には車のガラスを
造る日本板硝子の舞鶴事業所があります。

<五郎ヵ岳展望台>


舞鶴東港全景。奥は若狭湾で、左下は「国際
物流ポート」で市が肝いりで開発中です。

舞鶴西港側。ここでも雲が低く垂れ下がって
います。湾上に雲海ができる兆しです。
中段左端は丹後富士(建部山)です。

中央奥は関西電力の舞鶴(高性能)火力発電所。

<舞鶴東港クルーズ>


掃海艇「はつしま」と「あいしま」。
魚雷探知のために磁気に反応しない木製とか
繊維強化プラスチック(FRP)製の胴体とのこと。
近々木製胴体艇は引退とのこと。

多用途支援艦「ひうち」。小さいながら
艦隊には必須の存在だそうです。背後は
補給艦「ましゅう」です。13隻で構成される
舞鶴艦隊の最小艦と最大艦の取り合わせです。

補給艦「ましゅう」。護衛艦中では最長で
年間の出港期間も長い艦だとか。

新型護衛艦「やはぎ」と「あがの」。少ない乗員で
運航できるとか。こちらも人手不足のご時世です。

ヘリ空母「ひゅうが」。この日はJMU(ジャパン
マリーンユナイテッド)舞鶴工場で修理中でした。

クルーズではクレインブリッジにも立ち寄ります。

海上自衛隊舞鶴地方総監部 北吸(きたすい)
桟橋。海自では一番長い桟橋とのこと。背景
正面中央の山頂には五郎ヵ岳展望台が見えます。

この日は在籍13隻のうち12隻が停泊中とか。
珍しいそうです。左手前が補給艦「ましゅう」、
中央は護衛艦「みょうこう」、「あたご」、
「ふゆづき」

舞鶴港のクルーズ船です。この日は手前の後部
座席に搭乗しました。

<赤レンガパーク
:赤レンガ倉庫と赤レンガ博物館>


赤レンガの博物館としては日本唯一だそうです。
近くでレンガが作れることも水の確保とともに
明治期の軍港(鎮守府)指定の要件だったとか。

赤レンガ博物館二階窓から。右の2隻は
掃海艇です。

赤レンガの歴史、製法、組上法などが
丁寧に展示されています。

明治から軍港物資の保管に使われた赤レンガ
倉庫。明治期の映画のロケ地だそうです。
 

2025年12月12日金曜日

舞鶴の今どきの旬魚と舞鶴東港

 12/11に東舞鶴入りし、お寺さんと法要の段取りなどを打合わせた後に、近くのスーパーで、今どきの季節の魚を見かけました。
つばす については、丹波、丹後、若狭地方をはじめ主に関西での、ブリの成長に伴う名前の変化の一つです。サイズを目安として、幼魚(約20cm以下)ツバス、若魚(約30~40cm)ハマチ、中型魚(約60cmまで)メジロ、成魚(約80cm以上)ブリ と出世します。関東では、ツバスはワカシで、以降イナダ、ワラサ、ブリだったと思います。私も関東での呼び名の違いにはじめしばらく混乱しました。
冬の舞鶴で今一番の旬魚はやはりブリです。親からも以下のようなことを聞かされてきました。冬の舞鶴で、活きてブルブルするブリを魚河岸で仕入れ、新聞紙で包んでぶら下げて持参するのが一番の贈答品で地元で有難がられる、と。現に父親がそうしていたのに同伴した記憶があります。
12/13には、舞鶴東港に雲が低く漂っていました。この時期気象条件によって湾上にできる雲海の兆しのようにも見えます。

因みに、ニギスについては2024年3月に、当ブログに以下のような記事をアップしていました。

舞鶴の今時の旬 ー背甲(せいこ)ガニとニギス(似鱚)

また、雲海について、隣県福井の越前大野城周辺にできたとの報道を本年11月4日に当ブログの記事にしていました。

越前大野城が天空の城に



干しニギス。似キスとも書きハマギスに似た
(沖キス)、との意味とか。(写真以上に)半透明で
新鮮そうな生干しです。焼き網で焼いて食べたい
ところです。

左上から真鯛、石鯛、左下から真鯵、
イトヨリ鯛、ブリの幼魚つばす2本、大きな
カワハギ。いずれも舞鶴港産。カワハギは
刺身でもパック詰めされており、早速に
ホテルで試食。さっぱりしてコリコリした
懐かしい味でした。

いまどきはカレイの種類が多く出ます。
左2列が小浜港産の真かれい、右が黒ひれかれい。

ウルメイワシの丸干し。カタクチイワシの
とはちょっと違い味が淡白です。

12/13の前島沖。雲が低く垂れ下がっています。
この時期湾上に雲海のできる兆しでしょうか。

12/14の東舞鶴港。いつもの光景です。
沖合に停泊する船が多い日です

2025年12月11日木曜日

京都駅中のなじみのうどん屋さん

 12/11には、墓じまいに伴う先祖供養の為に郷里の舞鶴に帰省しました。
その途中、京都で新幹線から舞鶴直行の高速バス(京都交通)に乗り換えます。その間に、時間が取れれば、いつも寄る関西風うどん店があります。「麵屋」という大阪、神戸、京都近辺のチェーン店のようですが、味はしっかりしていて、ニシンうどん(これは旨かったです)やきつねうどん、ちくわ天うどん、朝定食などが私の定番でよく所望します。私には関西はいつもうどんで、讃岐うどん程堅くはなく大阪風にほどほどの堅さのうどんでした。ここ40年くらい帰省のたびに、ここで、関東モードから関西モードに切り替えたような記憶があります。
ところが今回もいつも通り店に行くと閉店になっていて移転案内が出ていました。これまで30,31番線のホームのすぐ手前にありましたが、50mほど離れたやや人通りの多い区域に移ったようです。
早速、新店の味を試してみることにして、朝麺定食を注文しましたが、味は昆布だしが効いた醤油の薄味で、もとのまま変わらず安心しました。店構えは前と同じ感じで店の広さはやや小さくなりましたが店員も変わり小さく再スタートしたようです。こちらも世代交代でしょうか。
この日は、8,500歩コースでした。

因みに、2023年4月に帰省した折の、ここの記事を当ブログに下記の通りアップしていました。

親鸞展と三十三間堂といつものうどん店


新装の麵屋京都駅中店

麵屋近辺。左奥が京都駅北口で、右手前先が
嵯峨野線、舞鶴線ホームです。

2025年12月8日月曜日

今どきの分かりやすい治療ー病因の仕分けー                                   

 先週には帯状疱疹と皮膚炎を同時に発症したようで、治療を通して、今どきの分かりやすく病因を仕分けする手順を体験しました。
というのも、掛かりつけ医によると、このような発症は、基本的には年齢等による免疫力の低下があり、様々な感染症の発症率が上がるそうです。他の要因としては、大気の乾燥によっても感染率は上がる時期ではあるとか。
私の場合には、顔や首に発疹や赤い腫れが現れていました。医者は発疹は左半身に集まっているため「帯状疱疹の可能性が高い」と診断していましたが、顔の腫れは「何らかの細菌による感染症による皮膚炎のように見えるが、左側に現れており、ウィルス系の帯状疱疹か細菌系の皮膚炎か判断できない。」とのことでした。
そこで、初めに治療されたのが、帯状疱疹の治療薬でした(ウィルスの拡大を抑える飲薬(ワクチンではないとのこと)と軟膏)。4日後に再来しなさいとのことで通院すると、薬が効いたのか、左半身の発疹が収まり傾向で、腫れは顔の左側から右側に移って依然として腫れあがっていました。そこで、医者は、腫れは帯状疱疹ではないと判断し細菌性皮膚炎としての治療をしてくれました(抗生物質の飲薬と先回とは別の軟膏)。また4日後に来なさいとのことで、通院すると、薬が効いたようで今度は顔の左から右に移った腫れが収まりつつありました。それをみて、医者は「今回の症状は帯状疱疹と細菌性皮膚炎の併発でした。たまにあることですが、免疫力が低下している高齢者には併発も起きやすく気を付けた方がいいですね。」とのこと。あらためてインフルエンザの予防接種を勧められて、無罪放免となった次第です。暗に、この7月〜来年3月に市などが推奨するる帯状疱疹の予防接種をちゃんとしておけばこんなことにはならなかったのに…、と言われているような気もしながら病院を後にしました。

てきぱきと分かりやすく患者に説明しながら、的確に治療してくれた40歳代の若い医者に感謝です。


帯状疱疹の予防接種のチラシから

2025年12月7日日曜日

久々の秩父夜祭


 12/3には、秩父夜祭に0泊2日(帰りバス車中泊の意味です)のバスツアーで参加してきました。
この日午前中の曇雨から午後には晴れて、夜祭に格好の日和でした。ただ深夜にはその分しっかりと冷え込んできました。秩父での滞在時間は17~23時の6時間で、余り混まないとされる聖人通り沿いに3m程高く設けられた臨時の桟敷席付きでゆったりと自由に観ることができました。
秩父夜祭は、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭の一つで、江戸初期の寛永年間には存在していたという記録があり、三百数十年の歴史があるそうです。(注1)、(注2)
冬の夜の祭りということもあるのでしょうが、豪華で重厚な山車(だし;笠鉾と屋台の総称)の造りとそれを動かす曳き手たちの統一のとれた威勢の良さ、衣装の着こなし、山車に乗る囃子(はやして)やや屋根に乗り進行方向などを指揮する上乗り(うわのり)、四つ角でてこ棒を使って山車の回転を指揮、操作する仕掛人・梶方(かじかた)と呼ばれる人の手慣れた動き、などが印象に残ります。これらが荘厳さを醸し出しているように思いました。京都の祇園祭を昨年7月に観ましたが、祇園祭が大規模で女性的で繊細なのに対して、こちらは中規模ではっきりと男性的で勇壮です。公家の文化と武家の文化という違いを感じました。冬空の花火との取り合わせも、地元民の一年の締めくくりを盛り上げているように思いました。また、運営もきちんと組織化されて参加者の気合があっているなと随所で感じました。関東らしい素晴らしい伝統とあらためて感心した次第です。(注3)
それにつけても寒い夜で、桟敷席を21時頃には退散し、一般道からも自由に観覧し、巡行ルートをほぼ一巡し様々な角度から色んなシーンも撮影ができました。勿論桟敷席からの高い視点の撮影は貴重でした。混雑するイベントではよく前に並ぶ人の頭が入った写真ばかりになりますから。今回で祭の全体像が分かりましたので、来年にも個人で再度訪ねてみたいと思いました。そういうとツアー客の中には、毎年来ているという方もおられました。市内を一巡りして、
古い知人で秩父出身者が近くにいたこともあり、何度もここを推されていたのですが、これまでに一度、40年程前に短時間で秩父夜祭を個人で観たことがありました。いまから思うと西武秩父駅に21時頃降りて駅周辺をぶらぶらと観覧し、山車と冬の花火を観た記憶がありました。今回コースを一巡する中でこの時のワンスポット(1 時間弱の滞在でした)が全体と繋がりました。この時には寒さに耐えきれず熱いカップ酒をゴクゴク飲んだことを思い出します。冬の花火が当時の私には初めてで夏とは違う冷たい華やかさに驚いたことも思い出されます。今回の訪問で西武秩父駅前がたまたま花火の見所だったこともわかりました。
この日は、10,500歩コースでした。

因みに、昨年2024年7/13,14には京都祇園祭を初めて観覧しました。その時の様子を、当ブログに下記の記事にしてアップしていました。

祇園祭 前祭の一端「鉾建て、山建て」を巡る



本町屋台背後から。秩父神社向けて動き始める
ときでした。ダルマや宝船の刺繍が特徴とか。
発祥が秩父絹市からの由来を繋いでいます。

出発時の掛け声が響きます。

動き始めに周囲にも緊張感が漂います。

18時に6基の山車が秩父神社に集結し、神事の後
18時30分から順次街に繰り出します。

例大祭の前列。各町会の代表のようです。

中近笠鉾。総体黒漆で随所に金具を打ち、
二十四節季などの極採色の彫刻が見所。

同側面。この高さ、角度での写真は桟敷席
ならではです。

同背面

下郷笠鉾。

大きなてこ棒で90度回転させます。

だんご坂を通って御旅所に向かいます。

宮地屋台と羊山公園から打ち上げられる
冬花火

同背面

上町屋台。屋根は4基の屋台の中で最大で
軒の張出も大きく華麗な屋台。牡丹に唐獅子の
水引幕、鯉の滝登りの後幕の刺繍が見処との
こと。山車到着の間隔が30分程なのにも
驚きです。

上町屋台背面

中町屋台側面

同正面。屋台前後の鬼板は4基の屋台の中で
最大で、天の岩戸開きなど神話物が特徴。

屋台の舞台で踊りなど民衆向けの演芸が
行われるのが特徴だそうです。

中町屋台の乗り手。監視と指揮が
役割とか。

塀の奥の御旅所。6基の山車が巡行を終えて
ここに集合し大事な神事が行われます。一般人は
この日は中に入れません。

見回り役のようです。こういう方を街中で
多く見かけました。

山車を出す町会の「会所」。4~5所見かけました。
引き締まった雰囲気が伝わります。

中町通りのじゃがバター屋さん。ここで
一服しました。じゃが芋大き目バターたっぷりで
600円でした。湯煙の陰にマスクの店主さんが
おられます。

巡行のメインとなる本町通り。両側は屋台が
並びます。この通りの奥右が秩父神社で巡行では
奥から手前に進みます。巡行開始1時間前です。
巡行のルートの通りだけがやけに幅が広いのが
わかります。これも長年の経験知でしょうか。

(注1)秩父夜祭について
秩父夜祭は、秩父の総社 秩父神社の「付けまつり」(付随するまつり)で、江戸時代には例大祭とともに、秩父絹の市が立ち(絹太市(きぬのたかまち)と呼ばれかつては三千〜四千両の取引がされました)、秩父の経済を潤しました。その市の大トリを飾る一大行事が秩父夜祭です、このため、「お蚕祭り」とも呼ばれます。
時は移り、今は市こそ立ちませんが、秩父に住まう人々の1年の総決算として変わりはありません。「夜祭」、「妙見(みょうけん;秩父神社に祀られる妙見菩薩のこと)さま」と呼ばれ、受け継がれてきました。
例大祭を彩るのが、笠鉾と屋台です。笠鉾2基、屋台4基の6基の曳山(山車(だし)とも呼ばれます)が、勇壮な屋台囃子を打ち鳴らし煌びやかに市内を巡行する様子は、勇壮な曳き手の勇姿と相絡まって冬の秩父を熱く魅せます。(秩父観光協会他の関連HPから引用・編集)

(注2)御旅所と曳山について
神話によると、秩父神社に祀られる妙見菩薩さまと武甲山に棲む龍神さまが、年に1度12月3日に、妙見菩薩を表している亀の形をした「亀の小石」(御旅所(おたびしょ)と呼ばれます)で逢い引きをすると伝わっています。亀は大地を、龍は天を表し、天と地が折り重なる祭りを意味します。曳山巡行では、神社から御旅所まで街を練り歩きながら移動(巡行)します。
そこで、御旅所は、巡行する曳山が向かう目的地のことです。曳家は舟を意味し、不老不死の実のなる木があると伝わる蓬莱山(ほうらい)に向かって航行します。(ツアーパンフレットから引用・編集)

(注3)笠鉾と屋台について
笠鉾(かさぼこ)は、屋根の上に大きな笠状の飾り(花笠・万燈など)を高く掲げ、非常に高く、祭りの中でもひときわ目立ちます。もともと神霊を迎える依代(よりしろ)的な性格が強く、古式を伝えます。
それに対して、 屋台は、二層構造で、上段は囃子方、下段は人形・彫刻を飾ります。豪華な彫刻・漆・金具で装飾されるのが特徴で、曳き回しに適します。江戸期以降に発展した、「観る祭り」としての要素が強いと言われます。
笠鉾と屋台を併せて「笠鉾・屋台」、「秩父の山車」(だし)と呼ばれます。
(関連HPから引用・編集)

早春の取り合わせ風景―梅と菜の花のコラボー

 1/31には平塚の花菜ガーデンに久々に出かけました。この時期話題になる菜の花と梅の取り合わせをここで一見したいと思っての散歩コースの選択でした。菜の花と桜は同時期に咲くことが多いですが、梅と一緒に観るのは関東ではそう多くはありません。 結果的には正解で、白梅も菜の花も咲き始めた...