2024年12月31日火曜日

初詣2025@天照大神宮

 新年が明けるとすぐ、いつもとおりに、地元笹下地区の氏神さんの天照大神宮で初詣をしてきました。自宅から見え、歩いて10分程の小高い丘(元の笹下城址とのこと)にあります。
今年は例年より暖かい新年でした。内外に厳しい世相の中、身の回り、その繋がり、そして国に新しい元気を祈りました。このところ、終戦以降80年の戦間期を経て(私の世代はこの期を生きたことになります。いわば「戦間期世代」なのかも知れません)、専制諸国による戦時期に再び入るともいわれています。先進各国における国内治政への不満によって分断された不安定な政治体制をなんとか乗り越え、軍事、経済面での自国の安全保障強化は勿論のこと、多国間で協調できる基調、新しい仕組みつくりの始まりの年となることを期待するばかりです。






巳年の破魔矢です。



参拝が終わると甘酒が振る舞われます。
その隣で絵馬、お札や破魔矢、おみくじ
などが販売されています。その右には、
焚火が焚かれ新年を感じ温まります。

セイコガニ

 12/30に、最寄りの上大岡駅近くにある古い魚屋で「セイコガニ」(勢子蟹または背甲ガニ、セコガニともいうようです)を見かけました。この辺で見るのは珍しいカニで(神奈川では殆どがワタリガニです)、京都府産でした。セイコガニは、兵庫県の豊岡、但馬、城崎、京都府の丹後半島西側近辺で獲れる松葉ガニの雌ガニで、雄に比べると半分か1/3程と小型です。卵巣は格別の味で食べやすいので、舞鶴にいた頃には、この時期になるとおやつ代わりに茹で上げを二杯酢につけてムシャムシャと食べていました。当時、魚屋では木の箱単位で安く売っていたのを憶えています。先日、舞鶴に帰省した時にスーパーでみかけたセイコガニはもう少し小型でした。大き目を関東などには出荷しているのでしょうか。
北陸では、越前ガニの雌ガニは「香箱(こうばこ)」と呼ばれ、金沢ではちょっと豪華な、人気のおでんネタだそうですが、ほぼ同じです。
今年3月、舞鶴でのセイコガニの記事を下記にアップしていました。

舞鶴の今時の旬 ー背甲(せいこ)ガニとニギス(似鱚)

https://kinoken33.blogspot.com/2024/03/blog-post_42.html

2024年12月28日土曜日

50余年ぶりに京都タワーの展望室から

 12/28には、帰省の帰路、50余年ぶりに京都タワーの展望台に昇ってきました。丁度、1964年12月28日に展望台の操業を開始しこの日60周年を迎えた記念イベント中で混み合っていました。2024年4月から京都タワーは「ニデック京都タワー」に名称変更となり、いま元気な日本電産(Nidec)さんが命名権を取得されたようです。
イベントで印象に残ったのは、20m程にもなる詳細な年表と開業当日の京都新聞紙面の展示でした。ついつい立ち止まって新聞をすっかり読み込んでしまいました。設計は、当時の京大建築学教室棚橋研究室が担当し、施工は大林組でした。数年かけて塔身の構造設計、耐震実験、風洞実験、溶接実験が行われたようです。構造は応力外皮構造(銅板製円筒型構造)というそうで、東京タワーや横浜のマリーンタワーのように塔身を骨格で支え露出するのではなく、船、飛行機、動物ではカニやエビのように外の「殻」で支える構造を採ったそうです。塔身は高さ2.7mの円筒のシリンダーを重ねるような造りで、躍動する流動美と東洋的な美しさを表現でき、当時としては斬新な構造でした。この選択には、古都京都の持つ深みと慰みの感覚と明日の京都を象徴するダイナミックな美しさを併せ持つ、なめらかな造形を模索した結果だそうです。これまで女性的でイスラム寺院的なデザインだなと感じていましたが、遅まきながら、建設当時の背景、考え方と意気込みがあらためてわかりました。また、9階のビルの上の100mの塔を建てる構造物の強度と重量について風速90mの耐風設計が地盤(ジャリ層とか)の固さを含めて周到に行われ、工事監理では、結果的に100万時間無事故だったとのこと、この意味でも感心しました。
また、展示紙面には、タワー建設に賛否激論があったことを振り返り、湯浅八郎氏の当時としての総括的なメッセージが寄せられています。(タワーを)建てないよりは、建てて世の中の動きに合わせて活用したほうがよい、という言説は、当時ではリスクもあり難しい判断だったと思いますが、激動の60年が経ち、結果的には、この場合には当たっていたように思いました。還暦を迎え様々な変化を受け入れた貫禄とでもいうのでしょうか。
展望室(標高100m。塔は131m)からの景観は、まさに360°で京都を見渡せ圧巻でした。とくに、ここは、東本願寺がタワーのすぐ下を通る烏丸通りを押し曲げていることがよくわかるポジションです。これを見て50余年前にも見た風景だったことを思い出しました。
塔の下は9階建てのビルですが、内には、ホテル、レストラン、旅行案内センタ、京都の食・土産・体験ができるフロアがあります。大変に混雑しており、しっかりと国際文化観光都市の公的なセンタとしての役割を果たしているようです。また、外国人観光客は、京都を観光する前に、ここから全体を俯瞰したいという心理はあるようにも思います(日本人は国内観光ではそれほどではありませんが)。これからは、京都での乗り換え時間には、京都駅ビルばかりでなく、ここも利用したいと思います。
観終わって、帰省客で混み合う新幹線で新横浜に向かいましたが、逆コースだったからでしょうか、たまたまひかり自由席で京都から座れました。
この日は、6,500歩コースでした。が、眼だけでは京都を短時間で一周したような気がしました。


左手前下の東本願寺が烏丸通りを押し
曲げています。
開業当日の京都新聞紙面です。
式典出席者から当時の力の
入りようがわかります。

地味ながら、よく考えられた、なかなか
興味を引く展示でした。

同じ浄土真宗とはいえ西本願寺(本願寺さん、
本願寺派、中段左)と東本願寺(お東さん、
大谷派、中段右)のツーショットは珍しく、
ここからならではです。

開業当日の紙面その2

標高100mからの京都市街北側です。
ここ以外は高層ビルはありません。

同じく京都市街南側です。すぐ下は京都駅で、
中段右の駅前に移転した京都中央郵便局が
見えます。

会場で配布された名刺大の記念カードに貼られ
ていた京都アニメーション作のイラストです。
タワー開業の同年10月に運航開始した、
懐かしい新幹線「こだま」が前を走っています。
京都タワーの原風景なのでしょうか。よくできた
イラストと思いました。

(参考)京都市街パノラマのイメージ(西→北→東→南)。
パンフレットより

2024年12月27日金曜日

京都タワーが竣工60周年

 舞鶴帰省中には地元の京都新聞をホテルなどでもよく読むようにしていますが、今日12/28が、京都駅の真ん前に京都タワーが完成して60周年になるそうです。地元新聞や放送では、大きく取り扱われています。
1964年12月28日竣工だそうですから、前々回の東京オリンピック開催期の直後ということになります。
私も、その時は高校2年で、その数年前から京都タワーの建設の是非が話題になった頃を覚えています。
当時は、京都市街から見るとダントツに高い構造物が建つことになり、街の景観を壊す、京都の寺院の庭園、古い町並みの背景にタワーは似つかわしくない、などとかなり強い反対意見が報道に出ていたのを記憶しています。一方で、商工会議所は、産業・文化・観光の新しい拠点をと強く推していました。
60年経つ今では、京都タワーに負けないような高層で大型の京都駅が前にでき、景観的にも京都タワーが以前ほど目立たなくなりました。今も京都市内では最も高い建造物だそうで、市街の建物の高さ制限は続いています。また、昨今のオーバーツーリズムの代表といわれるくらい多くの外国人観光客を受け入れています。結果的には、当時の商工会による先見的な大きな判断だったように思います。世界的にも、大都市、主要都市にはタワーがつき物という感覚も定着しているようです(「社会的受容性」でしょうか)。還暦を迎えたタワーの貫禄かも知れません。
京都新聞の記事から、このタワーは。「(海のない)京都を見渡す灯台」をイメージしているそうで、デザインについて今更ながら納得した次第です。また、もともとはここは京都中央郵便局があり、移転後の空地を利用した再開発が発端だったようです。いまは、駅の西隣に移転しています、わずかな距離(~300m)の移転だったようです。。
今日、1130に東舞鶴駅からバスで京都に向かいますので、若干時間をとって京都タワーで企画中の記念イベントを、折角ですので50余年振りに訪ねてみようと思っています。
写真は、かつての当ブログ掲載写真を再掲しています。

因みに、ローカルなもう一つの話題、論点は、北陸新幹線延長の小浜ルートの京都乗り入れの是非で大いに盛り上がっています。とくに、仏教界は「千年の愚行」、「有史以来の蛮行」と強烈に反対し、学界も消極的です。かつての京都タワー論争を思わせます。


駅前の京都タワー

京都国立博物館から

門松制作中2025

 12/27には、東舞鶴駅裏にあるホテルアルスタインの玄関先で、新年用の立派な門松を現地で組み立てておられる風景を見ました。出来上がった門松が運ばれてくるものと勝手に思っていましたので、私には珍しい、風流な光景でした。このホテルの1階にある喫茶店「Cafe'de十番館」に、小学校の頃からの懐かしい友人と歓談するために入店するときと出店するときに、撮影させてもらいました。出店の時にはほぼ完成でした。下の写真は、最初のものを除いて、制作時間順です。
この日は、7,000歩コース@東舞鶴でした。

立派な門松完成品です。

太い良い孟宗竹です。
竹を斜めに切りますが、関東では
真横に切るところもあります。斜めの切り目に
節を入れるのも、ここでは見慣れたスタイルです。

街の植木屋さんご夫婦で制作中でした。
南天、葉牡丹が良い色相です。

最後の調整です。
両方、ほぼ出来上がりました。
完成です。冒頭の写真の
再掲です。すがすがしい
感じがします

2024年12月26日木曜日

舞鶴での今流の家族葬

 12/24には長く病気療養中の弟が舞鶴で亡くなり、葬儀・法要のため帰省しました。12/25
に葬儀場でお通夜、12/26に告別式、次いで檀家寺での初七日法要といった段取りでした。
葬儀は最近増えている家族葬で近親者のみの参列で行われます。久々の家族葬でしたが、葬儀の仕方も変わってきているようです。
会場は家族葬に特化した、舞鶴東湾の海辺にたたずむ、こじんまりした「家族葬ホール」でした。それも、これまで介護施設として使われてきた設備を家族葬用の斎場に改装したそうで、高齢世代の占める人口比率のヤマもそろそろ越すといった、今の世相を表しているようです。また、斎場経営も、地元で石材、墓石、仏具を扱う古い企業の新規事業だそうで、樹木葬などが好まれるようになり、墓石需要が減ってきていることを反映しているようです。しかも、家族葬の斎場であれば、これまでの大きな箱物事業者のほかにも、小規模な事業者でも回せることもあって、様々の業種からの新規参入が増えているとか。葬儀ビジネスも変わってきています。

この日に舞鶴は比較的暖かな日和でしたが直前の22~23日には小雪がちらつく荒れ模様だったそうで、海岸から眺める、この地域では最高峰の青葉山(633m)はうっすらと冠雪していました。
なんとか、静かに冥福を祈り、故人を偲びながら、しめやかに葬儀を終えることができました。
そこで、一句、

冬の星亡き弟を偲ぶ里 


葬儀前の祭壇の様子です。写真はぼかしています。

葬儀会場フロアの窓から海とクレイン
ブリッジ(鶴の橋)が望めます。海には
輸入木材(かつてはソ連材でした)を
とめる杭が見えます。
葬儀会場の家族葬ホール「リアン」さん

葬儀の朝の東舞鶴海岸。青葉山が冠雪して
います。手前は「前島みなと歩道橋」。

舞鶴 軍港めぐりクルーズ船。背景は
舞鶴市総合文化会館。

12/24の帰省途中に新幹線富士駅を過ぎた
ところです。富士山でも冠雪が始まっています。

2024年12月17日火曜日

今年の綿花の収獲

12/17には、庭に植えていた棉の木の株を抜き茎を処分しました。
露地植え1株、鉢植え6株でしたが、今年も露地植えが収穫の9割以上を占めるほど好調でした。日差しと夏場の保水で露地の方がまさるようにみえます。夏場にはかなり大量の水と肥料を必要とし、それに応じて地中深くまで精力的に根を張り(根の深さは80㎝程で茎の高さと同じくらいになります)、その分地上の茎も逞しく成長し、多くの綿花をつけるようです。茎も木のように太く固くなります。この意味で、棉の木の場合、鉢植えは寒暖や風雨によって建屋内外に持ち運びはでき鑑賞用にはよいものの、露地植えにかないません。来年からは、鉢植えは諦める予定です。
今期の収穫量全体では、昨年が竹かごに山盛りだったのに比べると、今年はてんこ盛りで去年の2倍以上でした。そろそろ収穫した綿花の装飾以外の使い道を考えねばと思っています。
昨年の収獲は下記の当ブログにアップしていました。

「棉蒔(わたまき)」を終了


今年の綿花の収穫

2024年12月16日月曜日

大きな小菊

 1週間ほど前から、ベランダに置いていた小菊の鉢が大きな花をつけました。
この株は、大船フラワーセンタで昨年秋の菊花展で仕入れたもので、今年の11月頃の菊のシーズンの開花を期待していましたが音沙汰がなく心配していたところ、12月に入って、葉は枯れ気味の中、咲き始めました。それも、小菊にしては大きいのに驚きました。
植物にとっても、異常気象を乗り切る新しい方法を探っているようにも見えます。


季節外れの大きな小菊。20241213

(追加)次々と咲き始めました。20241220

2024年12月13日金曜日

横浜港大桟橋からの夜景

12/13(金)には、寒空の中大桟橋の夜景を撮ってきました。ビル群の夜景は週日の、日没直前30分(トワイライトタイム)での撮影がおススメだそうですが、この日は少々到着が遅れました。停泊する様々な船と夜景の取り合わせが横浜港らしいと思っています。この日は、クルージングもシーズン中なのでしょうか、大桟橋には珍しく、「飛鳥Ⅱ」と「三井オーシャンフジ」の2隻が両岸に接岸していました。この日は様子見で三脚なしでした。
横浜港周辺では、12月中に「ヨルノヨ」(注)という様々なライトアップの企画で随所に展示中です。
ここで、一句、

ヨルノヨの波に映る灯ハマの冬

この日は、9,000歩コースでした。

(注)「ヨルノヨ」については、昨年のこの頃、下記に投稿していました。今年も同様の企画が進められています。

新年早々の横浜港夜景クルージング


大桟橋つけ根に停泊中の水先案内船(Pilot)
越しのMM21地区夜景。右奥の対岸には
赤レンガ倉庫が見えます。

象の鼻突堤のつけ根から。MM21夜景の
撮影ポイントです。灯りの密度が高いと
いわれます。

横浜税関。正面の塔は「クイーンの塔」と
言われます。因みに、県庁は「キングの塔」
といわれます。右は神奈川県警本部。

大桟橋からのMM21地区。ここの代表的な
シーンです。ビルの重なりが少ない場所です。
大桟橋からの山下公園方面(右奥)です。正面が
係留中の氷川丸で、その右がマリーンタワー
です。この時間(18時)は「ヨルノヨ」(注)の
企画の一環で、地区の代表的な建物から
30分毎に光ビームが放射されます。

手前は「飛鳥Ⅱ」の船頭です。






県庁も青くライトアップしていました。県の
シンボルカラーもブルーなのでしょうか。
県庁は大桟橋の入口にあります。ここは、幕末
慶応3(1867)年に建てられた神奈川奉行所の
横浜役所があった場所とのこと。

大桟橋の両岸に接岸中の「飛鳥Ⅱ」(左)
と「三井オーシャンフジ」

2024年12月12日木曜日

聡雲会謡曲大会

 12/7には、水道橋駅前にある宝生能楽堂で聡雲会謡曲大会を鑑賞してきました。ある先輩はここ20年程謡曲にうちこまれ、いまは奥伝を修得され地元で教えておられます。私も案内をいただく都度ここに通って、演じられる能、仕舞、舞囃子、素謡などを通して上達される様を拝観してきました。
今回は、「姥捨(をばすて)」を独吟(後ろの(後付け)の地唄がありません)で謡われました。曲のグレードによって素襖(すおう)、長裃、半裃、紋付袴を使い分けるそうで、「姥捨」のような老女ものなどでは半裃をつけるとのこと。この曲は、全謡曲中最も重い謡曲として扱われていそうです。
また、仕舞では槍を使われるものもあり、色々と変化があります。
私は小さい頃から父親が謡うのを日常聞いてきたこともあり、謡曲には、その素材の選び方や描く情景に、日本人が大事にしてきた心象を感じます。
この日は、6,500歩コースでした。寒くなると、歩数が減り、血圧が上がります。


槍を使う仕舞(写真はぼかしています)

一節切尺八の対談と演奏会

 5/30には、一節切尺八(ひとよぎり)の対談と演奏会「一節切尺八を知る!コンサート」に、江東区のティアラこうとう小ホールで参加してきました。地下鉄半蔵門線の住吉駅から歩いて5分程のところにあります。駅の傍の猿江恩賜公園(さるえ)(注1)の中にあります。 一節切尺八は、長さ30㎝...