2024年3月18日月曜日

私製本「水兵さんの遠洋航海」の松栄館書籍コーナーでの閲覧

 3/18、ホテルアマービレ舞鶴(松栄館)のレストラン部門の方から連絡がありました。
3/16に、洋風レストラン松栄館の大広間の一角にある書籍コーナーに、父の編集した私製本「水兵さんの遠洋航海ー日露戦争直後のある青春ー」2冊を置いて来客に閲覧できるように検討してほしいと、当方からお願いしていた件について、ホテル側からの回答でした。
お話は2点でした。
ひとつは、そのコーナーに置くと、本が閲覧されて傷んだりすることがあるが、よいか、
いま一つは、非売品なので、もし、閲覧者から入手したいという希望があった時にどう対応したらよいか、
でした。これらに対して、先に渡した2冊はホテルに寄贈することにし、入手希望があった場合には先に書き置いた当方連絡先にその旨連絡してもらえば余部のある限り対応する、ことで双方まとまりました。ホテル側からは、日露戦争の頃の舞鶴出身の水兵さんの日記であり、松栄館のコンセプトにぴったり合う、他では入手できない本であり、喜んで書籍コーナーに置かせてほしい、とのことでした。
明治後期に祖父が舞鶴海兵団に入団した頃の航海日誌を父が清書、製本したこの本が、今の舞鶴来訪者に触れられ読まれることは、祖父、父への供養になるかと思うとともに、また我々子孫にとっても記念になり喜ばしいことと思っています。 とくに、父は、生前に、松栄館の能舞台で謡の習いごとをし、法事の仕上げなどではこちらの大広間をよく使うなどして、いろいろと所以がありましたから。
なお、「水兵さんの遠洋航海ー日露戦争直後のある青春ー」については、当ブログにも、下記に記事掲載しています。

「水兵さんの遠洋航海」発刊のための(日誌)原稿の(清書)原稿
https://kinoken33.blogspot.com/2024/03/blog-post.html

2024年3月16日土曜日

舞鶴伊佐津川のいさざ漁

 昨日3/17に、滞在するホテルのフロントに置かれている舞鶴市民新聞で、いさざ漁(魦)が西舞鶴の伊佐津川(いさず。ちょっと紛らわしいですが)で始まったとの記事を見かけました。

「舞鶴に春告げる「いさざ漁」始まる」(舞鶴市民新聞 2024年3月17日)

舞鶴に春告げる「いさざ漁」始まる - 産経ニュース (sankei.com)

地元民謡の舞鶴音頭でもセリフに「〜伊佐津 川風 袂が揺れる 恋はいさざの味かいな…」と謳われています。子供の頃には、西舞鶴に限らず東舞鶴の与保呂川などでもこの時期いさざ漁が行われていたのを覚えています。
先日、地元の魚料理店で会食をした際にも、いさざの卵とじを注文して地元の春の味を楽しんだところでしたが、いさざ漁が本格化しているようです。最近では、たまに、酸素の入ったビニール袋でに入れて、魚屋やスーパーで売られていることを見かけるくらいで、地元でも希少品になっています。
20年程前に、たまたま、久々に「踊り食い」を経験したことがありました。これは、下記の引用写真のような小さな器で泳ぐいさざを二杯酢などにつけて、そのまま飲み込みます。いさざは斑点のある茶色がかった透明な魚で5〜8㎝ほどのサイズです。流通しているシロウオと近いそうです。この時期産卵のため海から遡上するところを、鮎の簗(やな)のような仕掛けで捕獲します。

そこで一句。「いさざ」は春の季語になっています。

いさざ旬 揺れる喉元 踊り食い

最近は収穫が減っているとも聞きます。程々の収穫で長続きさせたい伝統の漁のひとつです。

                 いさざの踊り食い
      ( https://shizenjin.net/hokuriku_food/fishes/file04.html  から引用)

郷里で初めてのホテル泊

 舞鶴実家の取壊し工事が予定通り今日3/16から始まることになり、昨晩から近くのホテルに宿泊することになりました。考えてみると、郷里でホテルに泊まるのは初めてということになります。
実家からは200mほど北にいったところにある、地元では老舗旅館の「松栄館」です。といっても、10年ほど前にリニューアルされ、今は「ホテル アマービレ舞鶴」というビジネスホテルになっています。古い旅館建屋は改装され、奥の1角にレストラン「松栄館」として残されています。海岸通りにすぐ近く、5階建てに高層化されたために見晴らしも良くなっています。今回はたまたま5階の部屋となり、北側からは舞鶴東港が、南側からは、東舞鶴の市街が一望できます。
ここが老舗たる所以は、戦前には明治期(明治37年開業とか)以来長く、旧海軍御用達の旅館だったことです。ここには、初代舞鶴鎮守府長官だった東郷平八郎の書など多くの書籍が残されているそうです。レストランでは、当時の海軍レシピ書「海軍割烹術参考書」の料理を再現したメニューも揃えてウリにしています。
ビジネスホテルとしては、部屋も広目で机も広く、欧州式をも意識した内装(天井照明なしです)ややや古風な調度品、大き目の大浴場、まずまずの料金などで、また、年度末でもあるためでしょうか、長期滞在者や外国人も多く、なかなか混みあっているようです。
ここから、実家の残置物処理、解体工事の状況を、施主としてわずかでも見守りたいと思っています。


ホテル北側の舞鶴東港の全景.
中央中段に巡視船、左中段に護衛艦が
停泊中です。
松栄館に掛けられている東郷平八郎の
書の一部です。なかなかの達筆です。

旧海軍レシピで再現された「元祖肉じゃが」
(呉と元祖を争っていますが)と麦飯です。
この他に、ポテトスープもついていました。

舞鶴で初めての滞在ホテル。左奥に
改装された旧松栄館があります。
ホテル南側からの東舞鶴市街風景

2024年3月12日火曜日

仏壇の引っ越し

 舞鶴の実家の取り壊し工事に先立った遺品整理で、扱いが難しいのが仏壇です。
今回の工事では、檀家寺の住職さんとも相談しまして、3/10に、近い親族に集まっていただき、実家で、祖父母の50回忌、父の33回忌、母に17回忌の法要を行いました。これをもって、実家での最後の法事として仏壇から先祖代々の魂を抜いたと考えて、それ以降すみやかに現在の私の横浜の住居に新たに設けた仏壇に移っていただくことにしました。檀家寺には本堂に位牌が、墓地に先祖の墓がありますが、それはそのままとして、取り壊し以降も檀家を継続しています。
法事もなんとか終え一段落したところで、昨日3/12に仏壇の引っ越しをすることにし、仏壇の仏像や位牌、各種の仏具など、一式を4箱に詰め輸送の手配を終えました。
作業中、仏壇やその下の引き出しの中から、先代(明治後半以降3代になります)の新たな資料が多く出てきて興味をそそられました。ある意味では、遅まきながら、一族の歴史探索の証拠ようなものです。
驚いたのは、今回新しく目にした資料から。曾祖父の営む商売について、明治38年の42歳の時には自らを東舞鶴で小間物商、同41年には古物商、と表明していました。このことは、現世代にとっては新しい事実でして、これまで、明治から終戦まで洋服店とばかり思っていました。従って、このころ祖父が海軍舞鶴海兵団で軍務に服する間、曾祖父の家にたまたま下宿している頃には(退役後に祖父は曾祖父の婿養子となり長女と結婚することになります)、洋服店ではなかった可能性があります。これは、実家(昭和15年に類焼に会い焼失し翌年再築されました)に、あれだけの甕や火鉢、木桶、石臼、掛け軸、置物、屏風など、小間物や古物が多く残されているのも、うなずけるようにも思いました。
洋服店となったのは、早くとも祖父の退役後に、曾祖父、婿入りしその後商売を引き継いだ祖父のどちらかのアイデアで、業種転換をしたようです。明治期からのファミリーヒストリーの新しいエピソードのひとつでしょうか。
このほかにも、仏壇には曾祖父の43歳(明治39年)の時の写真、祖父の軍歴資料、西国三十三か所巡礼御朱印帳、四国八十八か所巡礼御朱印帳(祖父も曾祖父も巡っています)など、新しい資料を多く見つけました。これから読み解くのが楽しみです。もうちょっと早めにその気になっていればと反省しきりです。


仏壇の引っ越し中です。


引っ越し前の様子です。

引っ越し前の様子全景です。

2024年3月8日金曜日

舞鶴の今時の旬 ー背甲(せいこ)ガニとニギス(似鱚)

 舞鶴帰省中には、よく地元ならではのローカルな旬を感じます。それが、今は「背甲(せいこ)ガニ」と「ニギス」です。
背甲ガニは、タラバガニのメスですが、オスの「松葉ガニ」とは好対照で、甲の色もオスに比べて目立たず、体型もオスの半分ほどと小型です。食べる部分も、足やハサミは細いためしゃぶる程度ですが、ミソと卵子は旨い食材です。値段もオスに比べるとお手頃です。子供の頃は、それこそおやつがわりに卵子目当てによく食べていました。当時は安く、魚屋では木箱に山盛りにして売っていたように覚えています。広く流通されることもなく地元で消費されているようです。逆に、オスの松葉ガニは、最近では地元で見かけることは殆どありません。背甲ガニは、「こっぺガニ」とも呼ばれます。
いまひとつは、ニギス(似鱚)です。近海の砂浜にいる浜ギスとは違い、沖合の100〜400mの砂泥地にいるそうで沖ギス、シロギスとも呼んでいました。この魚は身が透明のきれいな魚です。鮮度が落ちるのが速いために、広くは流通せず地元近隣で消費され、大きな鱗を落とし軽く塩して一夜干し(干しニギス)や干物(これは「ニギス干し」というようです)に加工されて流通しています。これは今が脂がのって旨い時期で、今晩も見るからに透明で新鮮な干しニギスうを早速味わいました。


干しニギス。新鮮でした。
背甲ガニ
並ぶのは背甲ガニばかりです。。今年は
手頃価格のようです。

遺品整理ー父の歌集とスケッチブック

 舞鶴の実家の取り壊し工事に先立った遺品整理で、処理に悩むのが、先代が長年励んできた趣味の成果物があります。
父の場合には、それが「短歌」と「スケッチ」でした。
短歌では、1957年から20余年にわたって属する新日本歌人協会の機関誌「新日本歌人」にのった歌937首から621首にしぼって1979年(昭和54年)に自身で編集し出版した歌集「みずのほとり」があります。丁度還暦の年だったようです。書斎には、「新日本歌人」の冊子が大量に残されていました。歌号は「うみべぼくすけ」でした。
その後も父は作歌活動を続けていましたが、1989年(平成元年)に交通事故に遭遇し、舞鶴市民病院に4か月間入院しました。入院中に肺炎の併発もあり、治療の甲斐なく翌年1990年4月に他界しました。享年73歳でした。
父の死後、生前にお世話になった方々の励ましの言葉、助言もあり、母が、「みずのほとり」発刊以降につくった歌を中心に一周忌までに遺歌集を出版することを決心したようです。1991年3月には父の第二歌集であり遺歌集となった歌集「海辺の街」を出版しています。編集には相当に苦労したようですが、遺歌集が何にも勝る供養になると思っていたようです。内容は、「みずのほとり」以降なんらかの形で発表された1545首、事故直前のトルコ、ギリシャ、エジプト旅行で日記代わりに書いた未発表未推敲の歌、亡くなる直前に病院で口述した2首、からなり、430首を収録しています。また、あとがきの中に、母の思いがこもった4首も含まれています。
明日3/10には、祖父母の50回忌、父の33回忌、母の17回忌の法要を舞鶴の実家で行う予定ですが、生前の父母の思いが込められており、供養にもなるかと思い、参会者には「海辺の街」をお渡しすることにしています。
これら2つの歌集の在庫も多く、処理に悩むところです。
また、スケッチでは、父の40歳代の頃からの大量のスケッチ画が残されていました。スケッチブックでほぼ30冊余りになります。鉛筆水彩、ペン水彩が多く、おもに舞鶴での旬の魚や自然の実り、生活周辺の情景が描かれています。私が舞鶴にいるときには、父から描きたての絵をみせられ、「これどう思う」とその度に聞かれて戸惑った記憶があります。ただ、不思議なもので、いま私がペン水彩画を始めたのも、この頃の父の影響があったのかもしれません。題材やモチーフ、作風も似てるなと思うこともあります。先の「海辺の街」には、歌集としては珍しいそうですが、各章の冒頭にカットとしてその一部を挿入しています。
これらの残された多くの画集の扱いも難問で、まずはデジタル化して保存することにしています。


最初の歌集「みずのほとり」

第二歌集で遺稿集となった「海辺の街」

父のスケッチブックから

2024年3月4日月曜日

「水兵さんの遠洋航海」発刊のための(日誌)原稿の(清書)原稿

 3月央の取り壊し工事に先立って舞鶴実家に残された遺品類について、最後の整理を進めています。
その中でユニークなのが私製本の「水兵さんの遠洋航海 ー日露戦争直後のある青春ー」の大量の原稿です。
1978年(昭和53年)に、父が祖父の海軍舞鶴海兵団従軍中の日誌を13年かけて清書し、200部限定の私製本として出版しました。祖父の13回忌の法要を1977年(昭和52年)に行った際に祖父の記念に印刷し親族に配ることを決めた経緯がありました。
祖父は、明治36年(1903年)に20歳のときに五等水兵で入団し、大正4年(1915年)に一等兵曹で満期除隊するまで、11年3か月を軍務に服しました。その中で1362日分の日誌を書き残したそうで、それらのほぼ前半431日分を編集したのが、この冊子(B5版350ページ)でした。二等巡洋艦「千歳」で日露戦争(1904~1905年)に参戦し、その後通報艦「千早」、戦艦「阿蘇」に乗艦しています。
その内容は、日露戦争後の遣外艦隊として新編成された南清艦隊旗艦の乗員として上海方面に航行した折の「南洋の偲」(1906年)、初の遠洋航海を記録した「航欧日誌」、「航米日誌」(ともに1907年)、演習模様を記した「舞鶴海軍鎮守府演習中日誌」(1909年)、その間の休暇での遠足などの様子を綴った「冬期休暇中日誌」(1910年)など、7編が含まれています。
もともと祖父が記載した和紙綴じ8冊、ノート4冊の日記原稿を、父が400字詰めの原稿用紙に清書して、印刷したようです。日記を丹念につけた筆まめな祖父とそれをまた清書した父の執念には、身内のことながら、驚くばかりです。
発刊当時には、地元新聞の文化欄で何度か報道されたようで、その記事の切り抜きが冊子に挟まれています。そのひとつには、清書を始めた頃、「最初は当時高校生だった木下さん(父のことです)の長男(私のことです)が写し始めたが、すぐに投げ出し、静岡で高校の先生をしていた木下さんの弟にバトンタッチした…」の記載があり、当時、私が清書作業に全く貢献できなかったことをあらためて想い出しました。旧仮名遣いと右上がりの祖父の独特の筆跡には手を焼いた記憶があります。


「水兵さんの遠洋航海」の装丁

父による出版のための清書原稿です。
父の清書原稿です。

祖父の日誌原稿(オリジナル)

2024年2月28日水曜日

舞鶴で最近お気に入りの新旧2店

このところ、来月3月央頃に予定しています、舞鶴の実家の取壊しに絡んで、帰省する機会が増えています。その際に、それぞれの経緯から、お気に入りの、新旧二つの店が見つかり、よく通うようになりました。
1つは喫茶店のCOFFEE「木馬」です。実家からは南に2Km程離れていますが、故郷での友人が日常的に使っているところだそうで、相当に年季のはいった店構えで古風な店です。
数年前から、それまで長くたまり場だった、旧友の経営する喫茶「ボン」が止む無く閉店となり、ここを紹介されました。「木馬」のマスタは地元の方で私より1つ上くらいの先輩で隣の高校出身の同世代です。10人程の収容人数で気楽に話せコーヒー一杯で十分長居できる店です。今回の帰省でもしっかりと利用させてもらいました。
いまひとつは、実家から50mほどのところに新しくできたミニスーパーないしはスーパーコンビニ店(私は後者の印象です)の「旬工房食品館 五条店」です。古い家数軒を取壊して、昨年10月にオープンした店です。別のところに本店を持つチェーン店とのこと。商品の取り揃えが一般のスーパーともコンビニとも一味違うと評判です。日用品はスーパーに比べてやや高いそうですが、私のような、帰省時の短期滞在者にとっては、魚の種類や加工品も多く、総菜も揃っていて、ついつい通いになってしまいました。営業時間も8:30~20:00と適当な時間帯です。もう数年早くできていればもっと恩恵にあずかったところでした。実家の近くでも、このところ計画されていると聞く、東舞鶴駅周辺のコンパクトシティ化に沿って、このような新規の開発が動いてくれれば頼もしい、と思っています。


旬工房食品館 五条店
舞鶴三条にあった、同級生が経営していた
かつてのたまり場 喫茶「COFFEE-BON」

BONの看板は、今も三条
商店街のアーケードの上に
残っています。

2024年2月26日月曜日

荒れ模様の舞鶴東港

 2/22に舞鶴に帰省してから全日風雨模様の天気が続いていましたが、2/27午前には青空がのぞきました。このところ帰省時のルーチンになっていますが、早速に、舞鶴東港を自転車でさっと巡ってきました。海は、このところの天候不順によるのでしょうか、この港にしては荒れ模様でした。新日本海フェリーの小樽ー舞鶴便のフェリ―船「すずらん」号が、この時間にしては珍しく停泊していました(通常は、深夜に到着し2時間程で積み降ろし・積み込みをして、折り返し出港するため平常運航中には日中に船体を見ることは余りありません)。沖のクレインブリッジの前方には、第八管区海上保安本部の巡視船と貨物船2隻が停泊中でしたが、これも珍しく(この海区に船が停泊することは稀でした)、商業船にしろ巡視船、自衛艦にしろ、着岸に溢れるくらい港の出入りが多くなっていればよいが、と思いました。
この日も、午後には雨が降り出し、一時はあられになっていました。
この日は、自転車での移動でしたので、少な目で、5,500歩コースでした。


右奥はクレインブリッジです。左が
小樽ー舞鶴便フェリーポートです。


舞鶴東港全景1
舞鶴東港全景2

2024年2月24日土曜日

取壊し工事の安全祈願

 来月央頃に、舞鶴にある築83年の実家建屋を取壊す工事を予定しています。それに先立ち、2/24には、建屋へのこれまでの御礼と工事の安全を祈願する神事を、近くの白糸濱神社の宮司さんにおいでいただいて、行いました。建屋内の神棚2か所と長くお世話になった井戸の前での祈祷です。
これまで3年程かけて親族で取壊しの準備をしてきましたので、祈祷に際して、いよいよ工事が始まったなという気持ちでした。
祈祷終了後には、これまで4代分のお札を含めて、神棚を整理して神社に持参し、長くお守りいただいた建屋の中の神様にはお引き取りいただいたことになります。
話を聞くと、宮司さんは、私と同じ地元高校の2年先輩とわかり、近所の友人の消息など懐かしい話もできました。


祈祷前の神棚。扉の内には4代分のお札が
沢山保管されていました。

長年お世話になった井戸の神様にも御礼と
工事の安全祈願を祈祷していただきました。
井戸の汲み上げポンプの設置場所です。

丹後の無毒のフグ ー シロサバフグ(通称:三久(さんきゅう) )


 丹後の海では、この時期、手のひら大の無毒のフグ 三久をよく食べます。2/22から舞鶴に帰省していますが、昨日、地元のスーパーでその唐揚げを見かけたので、季節の食材として早速に試食してみました。小味ながらもしっかりとフグの味で、三久の味を久々に思い出しました。値段まで39Xになっているのには思わず笑えてきました。
三久は、毒をもつドクサバフグとの区別が難しいために、地元でも、原則として、素人では料理できず、フグさばきの資格保有者による調理が必要とされています。このためか、魚屋の店頭では、生の姿を見ることはほとんどありません。舞鶴ではフグといえば三久のことで、庶民的な魚でした。このため、舞鶴を離れ、大阪などでのトラフグの高級料理振りには驚き、なかなか馴染めなかった記憶があります。
シロサバフグ(三久)の名前の由来は、サバのように群れを作るため、もしくはサバに体表の色合いが似ている、からだそうですが、「赤サバ」と同様に、やや紛らわしい名前です。
この時期は、ここでは、新ワカメの佃煮も美味しい時期でもあり、しっかりといただきました。


舞鶴での時期の味「三久の唐揚げ」です。
値段までそうする程ではないと思いますが…。

(以下、引用です)


シロサバフグ。確かに、サバに
体表は似ています。

(参考1)市場魚貝類図鑑 シロサバフグより 
https://www.zukan bouz.com/syu/%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%82%B5
%E3%83%90%E3%83%95%E3%82%B0
体長30cm前後になる。やや細長い紡錘形。尾鰭は湾入形、もしくは弱く丸みを持つ。尾ビレがやや黄色っぽく下半分の色合いが灰色で上葉下葉の先端は明確に白くない。頭部背側にある小さな棘はの背鰭起部近くには達しない。味は淡白で身離れも良く食べやすいことに加え、値段も安いため鍋物、天ぷら、唐揚げ、煮付け、などのの具材には最適。

(参考2)   赤サバについて、以前の本ブログでの投稿記事です。
https://kinoken33.blogspot.com/2023/12/blog-post_9.html

2024年2月20日火曜日

ドローン操縦資格試験の講習会

 2/19には、茨城県守谷市の常総運動公園の会議室と体育館で催されたドローン操縦の国家資格試験の学科講習と実技講習に参加してきました。この企画を主催する一般社団法人日本ドローンコンソーシアム(JDC)の運営に長年携わってきている関係で、JDCによるこのような新しい企画の催行を応援しながら、学科講習、実技講習を傍聴し、懇親会にも参加してきました。JDCは、産業用ドローンの普及促進団体で200社程の法人、大学で構成されています。今回首都圏で行われ、これを契機にこれと同じ形式で順次全国に展開する予定とのこと。
学科講習では前半に国交省の無人航空機安全課から制度施行の状況報告と取得促進策の説明がありました。また、実技講習では、実際の国家試験会場と同じ飛行コースがコーンやテープで設定され、スクエア飛行を講習参加者5人に実践してもらうことも含まれ、事前の天候、足元などの正常確認、指示の応答確認、声の大きさ、など講師から指摘されていました。操縦者は、操縦する腕、指先も疲れますが、始終大声を出しています。後で、操縦体験された方によると、人前で、また試験官の前で、大変に緊張したそうです。
50人ほどの参加者で、細部に亘る注意、指示、熱のこもったQ&Aなど、ピリピリした雰囲気で行われました。
このような講習の背景には、1昨年2023年12月の航空法改正で規定されたドローンの機体認証・操縦ライセンス制度に基づいた国家試験のライセンス取得が予想通りに進んでいない現状があります。これまでの民間資格制度からの移行期間の終了が2025年12月と迫る中で、ライセンス取得者を増やす施策のひとつで関係組織がこのような模擬試験講習を始めています。
懇親会会場の「テレネの木」は、地元農家からの野菜と常陸牛などを活かした家庭的なカフェで、地元の味を愉しめました。
会場と守谷駅の間には工業団地がつづき、大きなアサヒビールの工場ではスーパードライを生産しているそうです。秋葉原からつくばエクスプレス快速で30分と便利なところです。
こういう機会を利用して、ドローン操縦資格が自動車の運転免許証のように広く普及して、これまで鳥と虫しか利用できなかった低高度の空空間を人間が自由に活用できるようになることを願うばかりです。
この日は、6,400歩コースでした。


細部の指示が飛んでいます。
実技会場の全景です。

苔石段の寺 鎌倉妙法寺での梅見 ー杉田妙法寺との「妙法寺」つながりで

先日 2/10には、鎌倉の大町地区にある妙法寺を梅見に訪ねました。安国論寺のすぐ隣にある、日蓮宗の寺です。
ここは、1253年に日蓮聖人が布教の拠点としてここ松葉ヶ谷(まつばがやつ)に小庵を結んだ場所で、いまも「松葉ヶ谷小庵霊跡」として妙法寺の裏山に塔頭が残されています。
ここは裏山への参道に階段が多い寺ですが、その「苔の階段」が評判の寺です。この時期の梅をはじめ桜、紫陽花も見所の寺です。
境内の梅は五分咲きで、これからが楽しみです。
因みに、「妙法寺」のように寺の名前は重複が多い訳ですが(鎌倉、横浜でも他にも幾つか「妙法寺」と同名の寺があります)、山名を含めるとユニークになるように命名されているようです。日本人の姓は山名に、名は寺名に、それぞれ相当し、太郎や一郎のように、寺名には重複があるけれども山名を含めると、重複はないとのこと。ここ鎌倉の法妙寺は楞厳山妙法寺(りょうごんさん)で、杉田の法妙寺は牛頭山法妙寺(ごずさん)です。


妙法寺総門。苔の階段上から。

大覚殿。釈尊、妙法稲荷大明神に加えて
加藤清正公像を安置しています。

仁王門

日蓮聖人が布教の拠点とされた
「松葉ヶ谷小庵霊跡」

苔石段。右奥は法華堂。

妙法寺本堂

2024年2月19日月曜日

東漸寺での早咲きの桜

 杉田梅まつりの帰路、杉田の街を歩く途中で街の中央にある東漸寺に寄りました。
ここは、鎌倉初期から続く臨済宗建長寺派の寺院で、境内には釈迦堂が今も残り、「杉田のお釈迦様」と呼ばれるそうです。
眼を惹いたのが境内の早咲きの桜の若木が早くも満開だったことです。河津桜と思われる、花弁は染井吉野よりも大きく、大きな房となって咲き、色は濃い目、の桜です。今年も春に向けて早いものです。

東漸寺境内にて

東漸寺本堂





東漸寺釈迦堂

クリガニのカニ汁

 8/6には、孫の付き合いで目黒に出かけ、やや疲れた帰りの寿司店(目黒駅ビル内の「寿司 活」でした)で、たまたま「大きいクリカニのカニ汁」をメニューに見かけ、ついつい惹かれて注文してみました。今年3月にも陸奥湾のクリガニを珍しく見かけ自宅で美味しくいただいたばかりでした。春が旬と...