舞鶴の実家の取り壊し工事に先立った遺品整理で、処理に悩むのが、先代が長年励んできた趣味の成果物があります。
父の場合には、それが「短歌」と「スケッチ」でした。
短歌では、1957年から20余年にわたって属する新日本歌人協会の機関誌「新日本歌人」にのった歌937首から621首にしぼって1979年(昭和54年)に自身で編集し出版した歌集「みずのほとり」があります。丁度還暦の年だったようです。書斎には、「新日本歌人」の冊子が大量に残されていました。歌号は「うみべぼくすけ」でした。
その後も父は作歌活動を続けていましたが、1989年(平成元年)に交通事故に遭遇し、舞鶴市民病院に4か月間入院しました。入院中に肺炎の併発もあり、治療の甲斐なく翌年1990年4月に他界しました。享年73歳でした。
父の死後、生前にお世話になった方々の励ましの言葉、助言もあり、母が、「みずのほとり」発刊以降につくった歌を中心に一周忌までに遺歌集を出版することを決心したようです。1991年3月には父の第二歌集であり遺歌集となった歌集「海辺の街」を出版しています。編集には相当に苦労したようですが、遺歌集が何にも勝る供養になると思っていたようです。内容は、「みずのほとり」以降なんらかの形で発表された1545首、事故直前のトルコ、ギリシャ、エジプト旅行で日記代わりに書いた未発表未推敲の歌、亡くなる直前に病院で口述した2首、からなり、430首を収録しています。また、あとがきの中に、母の思いがこもった4首も含まれています。
明日3/10には、祖父母の50回忌、父の33回忌、母の17回忌の法要を舞鶴の実家で行う予定ですが、生前の父母の思いが込められており、供養にもなるかと思い、参会者には「海辺の街」をお渡しすることにしています。
これら2つの歌集の在庫も多く、処理に悩むところです。
また、スケッチでは、父の40歳代の頃からの大量のスケッチ画が残されていました。スケッチブックでほぼ30冊余りになります。鉛筆水彩、ペン水彩が多く、おもに舞鶴での旬の魚や自然の実り、生活周辺の情景が描かれています。私が舞鶴にいるときには、父から描きたての絵をみせられ、「これどう思う」とその度に聞かれて戸惑った記憶があります。ただ、不思議なもので、いま私がペン水彩画を始めたのも、この頃の父の影響があったのかもしれません。題材やモチーフ、作風も似てるなと思うこともあります。先の「海辺の街」には、歌集としては珍しいそうですが、各章の冒頭にカットとしてその一部を挿入しています。
これらの残された多くの画集の扱いも難問で、まずはデジタル化して保存することにしています。
2024年3月8日金曜日
遺品整理ー父の歌集とスケッチブック
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