2024年2月18日日曜日

杉田梅まつり -古い杉田梅林と海鼠(なまこ)のこともー

 2/18には、好天のなか、近くの杉田地区にある天台宗の妙法寺の境内で企画された「杉田梅まつり」を初めて観てきました。JR京浜東北線の最寄り駅洋光台の隣駅新杉田駅から歩いて10分程の妙法寺で行われる恒例行事です。近くの割にはこれまで来る機会を逸してきました。
2/17~18に開催され、この日は最終日の午後でしたが、幸い、面白いイベントが本堂前で行われていました。横浜芸者の踊りや小唄、七福神の里神楽、飛び入りの尺八演奏、などです。
また、寺の裏山で30m程のぼった牛頭山(ごずさん)の山頂には初代歌川広重の浮世絵「武州杉田の梅林」や三代広重の「光君名所合 杉田の梅」で筆写したと思われる場面が今も残されており、建物は街の造りは時代によって変わっていますが、ここぞというスポットを回れます。
随分と文化の香り高い、風流な梅見でした。また、英語スタッフも何人か見かけましたし、紹介ビデオにもきちんと英訳字幕が挿入されるなど随所に日英併記が見られ、実行委員会の方々の心遣いと意気込みが感じられました。そこで一句、

梅見山 今に溶け出る 広重絵
梅見山 浮世絵景色 今に溶け

この地域での梅栽培には長い歴史あるようです。ここは、元来、海が近く塩分を含んだやせた土地のために、16世紀後半の頃、戦国時代の領主間宮 信繁は、戦用の食料として梅実をとるために村民に梅の植え付けを奨励し、実を売って生活の一助とさせました。これが、杉田梅林の走りとなりました。江戸期16世紀央頃から梅作りが盛んとなり、18世紀初頃の元禄には約36,000本もの梅の木が杉田村一帯に広がていたそうです。18世紀後半の明和・安永の頃には杉田の梅は先の景勝地金沢の探勝ルートに入れられるようになり賑わいました。その後、19世紀初の文化・文政の頃には、梅実の収穫は400石にものぼり、江戸に梅干しを運ぶ御朱印船が杉田浦から出帆するほどでした。このころ、歌川広重の浮世絵の題材になったこともあり、杉田は関東随一の梅の名所といわれ、海路、陸路から訪れる場所になっていきました。明治33年の国語の教科書には「我が国の梅の名所は奈良の月ケ瀬梅林を第一に、次は武蔵国杉田がこれに次ぐ」と記されているとか。
しかし、明治20年頃から、台風や塩害で梅の木が傷んだり、老衰で株数が減少し、関東大震災でも大きな被害を受けました。戦後は海岸の埋め立て、宅地造成が進み、そのほとんどが姿を消し、妙法寺と近くの民家の庭にわずかに残る状況になりました。
近年は、杉田梅園の復活活動が、様々な団体で進められ植樹などが行われています。近くには今も「梅林小学校」が残っています。
また、ここ杉田は海鼠(なまこ)とそれを干した煎海鼠(いりこ)の収獲・加工でも、江戸期には、際立った生産地だったようです。帰路、煎海鼠の製造工程を示す「江戸名所図会」の看板をみかけました。
この日は、10,000歩コースでした。


妙法寺本殿前にて

神代神楽研究会の皆さんによる
里神楽も始まりました。

飛び入りの尺八演奏も入ります。なかなかの
上級者でした。

裏山の墓地から

境内ではご神木の前で抹茶席も
                      妙法寺山門
横浜芸妓協会も舞や小唄で協力されて
いました。
本堂前の梅林です。

浮世絵「武州杉田の梅林」(歌川広重作)の
描画シーンの再現スポット。椅子までも
再現とは。中身はおお変わりです。
武州杉田の梅林
(参考)「武州杉田の梅林」(歌川広重作)。ここ牛頭山
から
の景色を画いたそうで、左奥が本牧の海岸です。

牛頭山山頂の梅林。遅咲きの梅のようです。

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