舞鶴で大事にしている人物に、室町、安土桃山時代の細川幽斎(藤孝)があります。
何年か前の大河ドラマ「麒麟がくる」でも、明智光秀とともに信長に仕え、朝廷との調整役を担った文武両道に優れた人物として描かれていました。眞島秀和が藤孝を渋く演じていました。
舞鶴の民謡として、舞鶴小唄とともに盆踊りなどでよく聞かれるが「舞鶴風流音頭」です。その先頭に、以下のように謳われています。
1, 舞鶴風流先づ第一は
古今伝授の幽斎さまよ
残す心の種芽に出でて
今じゃ桜の花ざかり花ざかり
ほんにほんにさ (以下繰り返し)
のほほんのほい
・・・ 10番まであります。 (作詞 吉井 勇 作曲 大村能章)
私も、おぼろげながら、細川幽斎、忠興の親子は丹後の国を領有し、関ヶ原の合戦の時に、忠興が東軍に加勢している間に、細川幽斎が西軍を引き付け西舞鶴の田辺城に50余日籠城し、東軍の勝利に貢献したこと、その時の終戦が、朝廷から「古今伝授」の称号をもつ幽斎を救え、との指示を出したことが契機となり、西軍が陣営を引いて実現したこと、忠興は細川ガラシャ夫人の夫で、明智光秀の娘でありながら守り続けたこと、などは聞いていました。
前置きがなが長くなりましたが、今回、実家の処分に際して父の書斎を整理する中で、昭和56年に出版された「細川幽斎の研究」(土屋将雄著、笠間書院刊)を見かけ、引き取り持ち帰りました。それを読んでいると、カバーに織り込んであった、著者からの手紙を見かけました。文意からすると、新刊の同書を読んで、文学事蹟が年譜として詳細に記された上記著者の土屋氏(当時、上智大学文学部教授をされていました)にコメントしたようで、その返信の手紙でした。主旨は、コメントへの感謝と多くの指摘を受けているが正誤表が作成しきれていない、といった内容でした。
この他にも、短歌が趣味で歌集も出版していた父は、細川幽斎の和歌の年譜を何冊ものノートに記載し残ていました。
細川幽斎が築城したとされる西舞鶴の田辺譲のあった敷地にある西舞鶴高校に通っていた父は、陰に陽に細川幽斎の事績に触れ、和歌にも馴染んでいったのではないかと、舞鶴で今も残る細川幽斎の存在をわが家でもあらためて感じました。
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