2024年4月27日土曜日

舞鶴田辺城と細川幽齊資料館

 日は少々さかのぼりますが、先回帰省中の4/12には好天のもと、西舞鶴にある舞鶴公園の桜と園内の彰古館にある細川幽齊(ゆうさい)の資料館を訪ねました。西舞鶴駅から北に15分程歩いたところにあります。ここは、田辺藩の天守閣の跡に造られた公園で、近くを通るJR舞鶴線の車窓からもよく見え、かつては桜の見どころでもありました。これまで、私が列車で、ひとつ先の東舞鶴まで帰省するときも、田辺城址をみると「ああ、帰ってきたな」と実感する場所でもありました。舞鶴という地名は、田辺城が、舞う鶴に似ていたことから「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼ばれていたそうで、これに由来するそうです。
田辺城は、天正8年(1580年)に細川藤孝(のちの幽齊)、忠興(ただおき)親子によって縄張りされ、天正10年代に完成したそうです。その後、忠興が肥前に転封となり(その後熊本城主となります)、細川家の後を、京極家さらに牧野家が継いで、明治初期に廃城になるまで存続しました。
今回は、舞鶴でいまも愛着を持たれている安土桃山時代の武将であり文化人であった細川幽齊の人となりをあらためてひと通り知っておきたくて、一巡してきました。ここは、コンパクトに整理して、主に残された写真で時代を追って紹介していた記憶がありました。本能寺の変や関ヶ原の戦いの現場にいて、両者のすぐそばで、メインのストーリーとは別にサイドストーリーとして起こった運命的で困難な状況を、歴史に残る、独自の判断で乗り越えています。丹後という小藩の藩主であった細川幽齊、忠興にとってはまさに「もう一つの本能寺の変」であり、「もう一つの関ヶ原の戦い」であったようです。親子は、それらに主役として大きな決断をしながら必死で向き合っています。激動の時代に、戦乱に翻弄されながらも和歌、茶道や能楽を愛して真摯に、人間らしく生きた一生だったようです。このようなところに、400年前の人が地元でいまも敬愛され、多くの研究が残る訳があるように思いました。
因みに、父の遺品にあった土田将雄著「細川幽齊の研究」(笠間叢書61)も、この展示の監修に当たっての参考資料として挙がっていました。
また、大手門の2階には、細川家、京極家、牧野家の資料も整理されており、郷土史をおさらいするには参考になります。
この日は、8,200歩コースでした。

右手奥に古今伝授の舞台を伝える
「心種園」(しんしゅえん)があります。
今は所在を示す遺跡と松が残っています。
左手前は大手門です。

古今伝授の場所とそのとき伝授
された内容です。
年譜も整理されています。



細川幽齊資料館「彰古館」近景

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